あらすじ
6月のある朝、ダロウェイ夫人はその夜のパーティのために花を買いに出かける。陽光降り注ぐロンドンの町を歩くとき、そして突然訪ねてきた昔の恋人と話すとき、思いは現在と過去を行き来する――生の喜びとそれを見つめる主人公の意識が瑞々しい言葉となって流れる、20世紀文学の扉を開いた問題作を、流麗にして明晰な新訳で!
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Posted by ブクログ
ヴァージニアウルフは『灯台へ』と本作しか読んでいないけれど、最も魅了される作家のひとり。
意識の流れを繊細に描写した文体は、登場人物への深い共感を可能にし、内容は一見すると平凡だが作品は不思議な明るさに包まれている。
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存在するっておかしなこと。
昔読んだ時は、クラリッサ=セプティマスなのがよくわからなかった。読み返してみて、本当に、ものすごいシンクロっぷりに驚いた。どうして前読んだ時、気づかなかったんだろう。
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とても好き。
どうやったら、この内容で、こんな文が書けるのかわからない。
事件といえるような事件はおこっていないと思う(ピーターが帰ってくることや、サリーがパーティにやってくることは事件にはいらないと思った)。それでも読ませる力があるし、心を動かされる。それがすごい。本当にすごい。
これを読んだ後に、「めぐりあう時間たち」(映画)を見ると、また二つの作品が相互に影響しあって、より楽しむことができる、と思う。
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6月のとある一日における、ダロウェイ夫人を初めとした登場人物たちの意識の流れを描いた小説。
改段もなしに別の人物の意識に次々とすり変わっていくので、あまり真面目に読み込もうとすると大変だけど、さらさらと読み流していけば、様々な人々の様々な意識の流れの交差点が見えてきて面白い。
生と死、若さと老い、美と醜、性、金銭・・・誰もがそれぞれの頭の中でそうしたものに囚われて生き続けるわけだ。
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印象派やマリー=ローランサンの絵画のような淡い色彩を思わせる作品。全体的に少々退屈で、主人公ダロウェイ夫人がお上品すぎるきらいはある。ただ、第一次大戦に従軍した青年セプティマスのPTSDに苦しむ心理描写や、ダロウェイ夫人の回想の中の女友達とのキスシーンなどは大変素晴らしい。
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感想が上手く書けないけれど、ゆっくり反芻してみている。そんな小説。
ロンドンのストリートが交差し、全ては同じ空間ヘ、時間も空間も超えて、交差し、つながっていく。
道行く人も人生を変えた人も、今というこの瞬間につながる感覚をふと覚える。
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イギリス貴族社会・中産階級社会の俗物性を描きつつ、それで世の中が成り立っている側面を認めながらも、それに対する違和感を拭えない人々の独白を重ねていく。「私」とは?人生とは?幸せとは?屋内のパーティーの俗物性と屋外に広がる暗闇の虚無。その境界にある窓際が象徴的。
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イギリスの女流作家。初期の“Jacobʼs Room”(1922)あたりから伝統小説のプロットや性格概念に対して実験的再検討を試み、”Mrs. Dalloway”(1925)や”To the Lighthouse”(1927)などで刻々と移り変わる人物の意識の流れを叙述していく方法を確立
ウルフは外側のリアリズム、すなわち人間の外面的なものをいかに現実らしく書くかを重視した19世紀のリアリズムを否定し、独自の新たなリアリズムを作り出そうとした。
いわゆる実験小説と呼ばれる彼女の三つの作品、『ジェイコブの部屋』『灯台へ』『ダロウェイ夫人』を比較してみると、それぞれの作品における客観的時間の長短は極端に異なっている。
『ジェイコブの部屋』→ジェイコブの幼少期から戦争に出て死ぬまでの20年間
『灯台へ』→10年を挟んだ前後それぞれ1日づつ
『ダロウェイ夫人』→朝起きてからパーティーまでの10数時間人物を外側からでなく、内側から描こうとする。
『灯台へ』においてもウルフはこの方法を採用しているが、実験第一作『ジェイコブの部屋』では多数の人物を登場させ、各場面でそれらの人々の目に映るジェイコブを描いたが、それに比べると、彼女の技法の用い方はその時より効果的になっている。
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淡くて美しい、まさにロンドンの6月のような文章。ラベンダーやヒヤシンスの香りが漂ってくるよう。
一方、権威への恐怖や自分の狂気への恐怖、同性愛に違い感情等も描かれているのが意外だった。
細部を読む小説だと思う。
ウルフは難しいと言われている通り、最初は、意識の流れや事実を流れるように織り交ぜて描く手法に戸惑った。
でも、普段自分達の意識や考えもそんなものだし、そういう小説として距離を取って読むと途端に細部の美しさが花開いた。
『ダロウェイ夫人』が発表されたのは1925年。大正14年。日本では普通選挙法が施行された年。
私の祖母はすでに生まれている。
その時イギリスでは、第一世界大戦の深い爪痕を、特にミドル〜ロークラスに残しながらも、
(ハイクラスが始めた戦争だろうが、実際に打撃を受けるのは彼らではなく、そして彼らに戦死した者達の死は意味を及ぼさない、なんてこともこの小説の中には示されている)
一方では豪奢で19世紀的なパーティが開かれている。
そのパーティの主であるクラリッサが、パーティの日の1日、ロンドン内を散歩し、起こった出来事と考えを流れるように描いている。
ウルフの「時」の描き方が好き。
「広場の濃い茂みのあちこちには、強烈な光がまだしがみついている。夕方が蒼ざめ、薄れていく。」
「夕方をそこに串刺しにした。引き止められる夕方。」
ビッグベンの刻の音とともに。
時をこんな言葉と共に感じられるなんて、なんて贅沢。
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ドイツの音楽家マックスリヒターが、ウルフ原作のバレエ音楽の作曲をしていて、この作品を知った。
世界的に有名な女流作家といえば他にブロンテ姉妹やオースティン、パールバックなどがいるけれど、ウルフの作品からは最も純度が高く痛々しいほどの女を感じる。
ブロンテ姉妹やオースティンの作品は、物語として筋が通っていて、長いながらも読者が型を見失わない作りになっている気がした。
ダロウェイ夫人の場合、一つ一つの動作や空気感の描写が優れているがゆえに全体像が見えにくい。
扱っている時間的な流れは小さいのに、絶えず繰り広げられる感情のスペクタクル。
まさに、有機的で予測がつかない女性の繊細な心を表していると思う。
面白い話なんて起承転結の型が分かってればある程度書けそう(それなりの才能があれば)だけど、このようにありのまま心情の波をなぞったような美しい作品は稀有だと思う。
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「意識の流れ」という手法を使った作品を読むのは初めてだったが、なかなか好感を持った。他の作品とは違った種類のいわく言い難い感動や恍惚感があったように思う。
《クラリッサは、わたしを連れていって、と衝動的に思った。だが、次の瞬間、全五幕の芝居を見終わったような気分に変わった。とても感動的で興奮する芝居だった。自分もその中で一生を過ごした気分。ピーターと駆け落ちし、一緒に暮らした。でもその芝居も終わった。》P87
こことか凄い感動してしまった。刹那的な想像のほとばしりとその満足感。そしてその満足感が人の生きるエネルギー(行動するエネルギー)を生み出している事実。それをこんなにも鮮烈に捉えるとは。この一文を読むまで、無意識にうごめく日常的な空想が、人の生命活動とこんなにも密接に関わっているだなんて、意識したことがなかった。一挙に認識が降りてきた感じ。凄い衝撃を受けてしまった。「意識の流れ」の手法の面目躍如という気がする。なんというか全体的に、読んでいると時間感覚が外部から体内(意識内?)に戻ってくる感じがして、身を委ねたくなる。
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アメリカの映画やドラマを見ていると、本好きの女性が必ずといっていいほど好きな作家にヴァージニア・ウルフを挙げるようなので、読んでみなければとずっと思っていて、やっと読んだんだけど。。。
うーん、バカなわたしにはまったくといっていいほど、ピンとこなかった。「ダロウェイ夫人」はタイトルは昔から知ってはいたけれども、こんな話だったのか。。。上流階級のダロウェイ夫人の一日のうつろいゆく思い、みたいな感じで、ストーリーらしいストーリーがない。とりとめのない思いがとりとめなく描かれていて、あまり強い感情はない。一瞬、強く思ってもすぐほかのことに移っていく感じで。
しかも、ダロウェイ夫人だけじゃなくて、登場人物すべて、すごい脇役みたいな人たちもすべての思いが、つながるように書かれているので、正直、え、今だれの話?と何度も見失っていた。。。。
確かに、文章は詩的で美しいとは思ったけれども。
あと、ときどき、人々の人生への思いとか、50歳をすぎた人々の老いることへの感情とか、いろいろ、はっとする文章はあった気がするけれど、それも一瞬で流れていって、あまり残らなくて。。。一度でさらっと流して読むのではなく、一文一文じっくりと読んでいくべき本なんだろうなー。そういうのがわたしは苦手だけど。
あと、ヴァージニア・ウルフって、フェミニストで、孤高の強い女性、ってイメージなんだけど、この小説、解説含めて読んでも、あんまりそういうイメージがわかなかったなあ。。。
訳者あとがきがおもしろかった。フランク・マコート「アンジェラの祈り」が読みたくなった。(ダロウェイ夫人の靴が何色だか知ったことか!とキレる生徒が出てくるとか)。あと、ヴァとバの表記についてとか。
映画「めぐりあう時間たち」は見てみようと思う。原作も読みたい。
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「意識の流れ」という手法と内容との関係についてを主に、
作者であるウルフ自身の証言が載せられているのが良かった。
これについては、必ずしも手法が先になってできたものではないということ、
自殺する準主役は、後付けで生まれたキャラクターであることなど。
非常に面白かった。
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シームレスで視点となる人物が切り替わり、想像力を刺激する豊かな表現。小川のせせらぎのように流れる文章で「わあ、キレイ」と、手を入れてみるとその冷たさに驚く物語。そう感じるのは、登場人物の誰もが、心の歯車の油が切れかかっているような人たちだからかもしれません。老いが生む寂しさや疎外感を嫌々受け入れつつもなんとか虚栄心を満たそうとしたり、過去に縛られて悪ぶったり、叶いそうにもない理想を求めたり、今にも崩れそうな危うい足元でぎりぎり持ちこたえている人たち。人類絶滅も地球滅亡もないけれど、終末感漂う小説でした。
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以前に「灯台へ」を読んでいたのでウルフの独特な文体については、一応免疫ができていると思う。その分、まだ入りやすかったのかなとは思うが、意識の流れで視点がどんどん変わっていく文体に、とりとめのないストーリー、かなり読みにくい小説である。
このふわふわした文体、主人公である「クラリッサ」ダロウェイ夫人の、その日のパーティの成功だけを考えているような地に足のつかなさに、うまくマッチしているような気がする。
「アンジェラの灰」「コールドマウンテン」「ダロウェイ夫人」と続いた土屋政雄さんの翻訳もの。これで小休止。
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人々と意識、思考が交錯して複雑なものが流れているように思えもするんだけど、本の中に流れているリズムや意識にとってもリアリティを感じる。
人の中に潜ったらこんな感じかなって。
本を読み終えた時、もう一度読み返した時何を感じるか想像してしまうのは嬉しいことだ。
生き物みたいな作品というものは存在するね。
そういうものに出会えた時はとても興奮する。
多面的とも少々違う。
有形でありながら、可変。という感じか。
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20世紀を代表するイギリス文学と評判こそ聞き知っていた作品。
歴史的傑作をたっぷり読む! という目標のもと、今回入手して挑戦してみました。
第一次世界大戦後のイギリスで上流階級のダロウェイ夫人が晩餐会を開く準備をしています。その一日を、数人の登場人物の内的独白に迫りながら描いています。
物語は最初から最後まで章や切れ目がなく、一つの大きな塊として始まり終わります。ある人物の意識の流れを丹念に追いながら、そのあと別の人物の意識に移行し、筋は続いていきます。この作品には、2つの読み方があるようです。最初から最後までまとめて一回で読み終える。または少しずつ、描写を味わいながら読み、お気に入りの栞をはさんで次の日にまた物語に戻ってくる。―私はゆっくりと読むほうを選びました。
ダロウェイ夫人は51歳。現在なら活気あふれるこの年齢も一世紀前だったら、人生の夕暮れ時を迎える世代でした。この作品は、読者もある程度の年齢にならないとわからない、最初はそう、断言していました。人生の経験を積んだ大人の女性のモノローグは、読む側の人生経験が浅いと、柔らかなひだが見えにくいはずです。
けれど、後半になって思い出したのは個人的には若いころにはこんな「意識の流れ、ゆらぎ」を描いた作品群をむさぼるように読んでいたのです。若いころに読んでいたとしても何か感じるものはあったと思います。
お酒が飲める年齢になったら読めますかね、この本は。味わい方をそれぞれ変えながら。
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生きることを歓び、パーティで幸せそうに振る舞うダロウェイ夫人。でもその心の奥には、恐怖や悲しみがあふれている。本心を押し込めて日常の美しさを眺める姿が、上流階級の女性の典型的な生き方のひとつだったんだなあと思う。自分の周囲にもいそうな気がする。
Posted by ブクログ
秋から冬にかけては海外の文学をとても読みたくなる。今は名作漁りのターン。ウルフの代表作を。ウルフは最初、ダロウェイ夫人を死なせるつもりだったらしい。結局、やめたみたいだけど。
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大学で受講したイギリス小説の授業を思い出した。Stream of Consciousnessだっけ(スペルも怪しい・・)「めぐり合う時間たち」(だっけ?)も観たなあ。「灯台へ」とか他の作品も読んでみたい。
Posted by ブクログ
「灯台へ」のような劇的な展開がないのでやや退屈。また(方法論上仕方がないのだろうけれど)書き手の視点が目まぐるしく変わるので、注意していないとわからなくなりがち。当時の英国の世相がリアルに感じられる。