あらすじ
偶然によって出会ったいくつかの情熱が、一つの目的に向かって疾走する。東洋タイトル戦の実現に奔走する“私”。だが、生活のためにはトレーニングを犠牲にしなければならないボクサー、対立する老トレーナー。絶望と亀裂を乗り越えて、最後に彼らの見たものは……。一つの夢をともにした男たちの情熱と苦闘のドラマを“私ノンフィクション”の手法で描く第一回新田次郎文学賞受賞作。
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Posted by ブクログ
思えば、ボクシングというのは独特なスポーツである。選手には過酷なまでのトレーニングと節制が求められる一方で、リングの下では大金が動き、怪しげな人士が跋扈する。試合と興行という言葉が矛盾なく同居する唯一の競技でもあるだろう。
いまからおよそ四十年ほども前、そんなボクシング世界の片隅に一瞬去来した光芒を、優れたルポライターが拾い上げて書いた。本書をごくかいつまめばそのようなものになるのだが。
実のところ、筆者自身はまるでボクシングというものに知識がない。本書に書かれる不世出の天才ボクサー、カシアス内藤という名前も初めて知ったていどである。混血のボクサーであり、かつては天才として一世を風靡するものの凋落も早く、事実上の引退のような恰好であったところが、数年にわたるブランクを経て三十歳を目前に突然のカムバックを果たす。そこからの挑戦を本書は描いている。
率直に言って、この設定だけでおよそのストーリーが予想できてしまうというものではある。ボクシングにまるで知識の無い自分ですら、カシアス内藤という名前がモハメドアリだのマイクタイソンだの具志堅用高だのといった名前に比されないことは知っているので、そうだとすればこのカムバックはそれなりの成果しか生まなかったことは想像できる。歴史小説もそうだが、ルポルタージュというものにはそういう弱みがある。史実に反する華々しさは付け加えられないのである。
もっとも、本書はさすがに優れたルポライターの手によるものだけのことはあった。「私」と一貫して書かれる書き手の視点を通し、カシアス内藤のカムバックから苦悩から周囲の人間模様に至るまでを活写してゆく。これは本当にすばらしい筆致で、とりわけ、カシアス内藤という人物のボクサー以外の部分を丹念に解きほぐしていくもので、それを辿っていけば確かに、この心柔らかな天才がどうして天下を取ることができなかったか、そのこともおよそ想像ができるのである。
もっとも、そのこともまたある予想ができることではあった。当然のことだが、フィジカル面で恵まれた天賦を持っていれば、それが活かされない理由もまた存在するだろう。運か、環境か、心理かというあたりで、カシアス内藤の弱み……というか、ある種の欲のなさみたいなものがその優れた資質を存分に活かさないままで終わってしまった、そんなことも容易に想像はできた。
なので、本書の後半、実のところこのカシアス内藤というボクサーについての興味を自分は半分ぐらい失っていた。むしろその周辺にいる、名トレーナーのエディさんとか金子ジムの社長とか、何よりも韓国ボクシング界の怪しげなプロモーター、崔といった人物のほうがよほど生臭くてしちめんどくさいものを感じ、興味をかき立てられていたのである。対大戸戦のところで一瞬出てきた自称マネージャーもとことんまでうさんくさくく、かえって心に残った。
しかし、そのようにカシアス内藤の周辺人物を眺めていて、ふと、一人大切な人物を、もっとも謎めいている人物の存在を忘れていたことに気付く。他ならぬ、「私」である。
一般的にルポルタージュは三人称か、書き手の視点を取る一人称で描かれることが多い。前者であれば書き手は黒子に徹し、極力個人的な情感を拝して客観的に描くことが多いだろう。後者であっても、それはある意味カメラ・アイのように無機質なラインまで撤退し、観察の対象に積極的に容喙していくことは必ずしも多くはないだろう。
その点が、本書では際だって異なっている。本書における「私」は、カシアス内藤という半ば忘れられていたボクサーに終始密着するばかりではなく、しだいに厄介な試合のセッティングを肩代わりし、面倒な人士との交渉をこなし、数度にわたり韓国にまで出向き、あげく数百万円という金額を肩代わりしさえする。思えば、すごいことである。
なにしろこの「私」とはカシアス内藤の縁者でもなければジムの正式な関係者でもない。実のところ、一貫してその立場が曖昧なままのルポライターに過ぎないのである。そういう人物がこれほどの大立ち回りをして国際試合までをセッティングしてしまったとなっては、率直に言ってこれを客観的に第三者視点から描くならば、この「私」とは、他のだれにも負けないぐらいにアヤシゲで奇妙な人物に映るのではなかろうか。
なので、自分が本書を読み終えて感じた一番の感想は、まさにその点だったのである。
この「私」とは、だれなのだ?
もちろん、本書の筆者は沢木耕太郎である。史実に則った内容である以上、本書に書かれる内容はかなりの部分が真実なのだろう。書き手はウソをつくものだということは、筆者も書き手のハシクレである以上理解はしているが、そうであっても本書における「私」の描写がかなりの部分で現実の沢木耕太郎の行動に即しているには違いあるまい。
そうだとすると、やはりこの「私」の、いささか常軌を逸した情熱には驚かずにはいられない。もちろん書き手である以上、このカシアス内藤という人物が「ネタ」になるという勘所は働いただろう。それはまったく問題ではない。むしろ、そう判断した上でなお、これほどの情熱を傾けたことに驚かずにはいられないのである。作中で「私」は率直にその感情を露わにするが、しかし、ここまで手を掛けておきながらカシアス内藤がトンズラこいたらどうしようと言ったような、メタ的な逡巡は当然ながら描写されない。あくまで「私」は、カシアス内藤の復帰と成功のために身を賭している。少なくとも本書では、そのように描写されている。それはたしかに素晴らしいことで、そして同時に、やはりとても奇妙に感じられることだ。
聞くに、沢木耕太郎という人は決して自分自身のことを語らない人だそうだ。代表作と目されるであろう「深夜特急」などでもそうだが、あれほど自分というものを題材にした作品を書きながら能動的にプライヴェートなことを書こうとしないというのは奇妙な矛盾のようだが、やはり終始一貫しているのだろうと思う。ただ、それが、本書のような、自分の周辺のことを題材にしたときに、どうにも謎めいた奇妙な謎として浮かび上がってしまうだけのことなのだろう。例えば本作などは文庫本上下巻、六百ページ以上に及ぶ大部でありながら、「私」がどこに住んでいるのか、そんなことすら明らかにはならないのだ。
作者当人は、本作を「私ノンフィクション」と位置づけていたようである。その試みは確かに成功したと思う。頓珍漢な感想を書いてきて言うのも恐縮だが、本書は極めて優れたルポルタージュである。
その上で、本書を読み終えていちばん心に残った謎というのは、カシアス内藤ではなく、「私」だったのである。
その意味でも、大変面白い読書体験だった。
2020/10/30