あらすじ
精神疾患などの当事者が文学・芸術・娯楽作品を通して自身の体験世界を記述することで、健康な人にはない視点が立ち上がる。
編者は当事者批評概念の提出を念頭に、自他の研究を区分けして現在地点を明らかにしつつ、「当事者としての」さまざまな当事者性をテーマとした対話、「当事者としての」ハイデガー、カント批評といった試みへと探求を進める。
一風変わった発想のなかに、ケアに活かされる気づきや文芸解釈としての新たな可能性が光る。
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
文学と哲学の交錯と融合が示される"はじめに"で、早くもわくわくが高まる。
なるほど、オートエスノグラフィーは当事者の確かな違和感から始まるのだということが、よく分かる。
外部からの観察のみによるラベリングだけはもちろん不充分かつ不正確というのは間違いなく、そこに当事者の分析が統合されることで高まる学究的な価値はとても大きいだろう。
病跡学なる分野があることを初めて知り、また、発達障害や精神疾患に関する診断において、白か黒ではないスペクトラムという捉え方が広く敷衍していることも不勉強ながら本書で教えられたが、実情に即した合理的な考えで、非常に良いことだと思った。
私はかねて、理系・文系で人のタイプをざっくり分けたり行動を分析したりすることを甚だナンセンスだと感じているが、本書で言及されているカントやニュートン、ライプニッツといった近代科学の礎を築いた巨人たちの名を見て、またプラトンやアリストテレスが生きた古代に思いを馳せ、人の思弁はそのように峻別できるものではないと、改めて思いを強くする。
時代が下るごとに分業化が進んでしまっているだけで、文学も哲学も物理学も医学も、突き詰めた先の到達点は同じところなのではないか。
この本の真骨頂は、横道誠氏と各人との対談パートにある。
何気なく交わされる彼らの言葉の中に、深い気付きに至る金言がどれだけ溢れていることか。
私も診断こそ受けていないが、きっとASDでありADHDであるだろう、と自認して50年以上生きてきたが、本書を読んで「うーんまだまだ甘いかも…」と変に自信喪失(?)してしまった。
苦言ということでもないが、石原真衣氏との対談で横道氏は"文化人類学はまず難解な議論を先出しし、後から読み物がやってくるという構成が衒学的だ"と批判されているが、「えっ、この本こそ…」と突っ込んでしまったのは私だけだろうか?
「どうしていい歳をした大人が、『読書感想文』を粉飾したような作品内在解釈にいそしんでいるんでしょう、それが『高級』だという価値観を維持してるんでしょう。」
「ASDがあると凝り性になって、ADHDがあると飽き性の傾向になるんですよね。」
「自分を研究や観察の対象として見つめて、必要があれば他者と共有していいんだという考え方に、すごく大きな扉が開かれた気がしました。」
「最近は認知科学が進んできて、多くの定型発達者でも、疲れたり不調だったりすると、衝動性が増したり、鬱っぽくなったりして、発達障害的なグラデーションの中を生きていることがわかってきました。発達障害者はある部分の特性が強烈に出ているだけで、相対的な違いに過ぎない。」
「分刻みでアポ取って動いている人なんか誰もいない。一時間ぐらい遅刻しても誰も何も言わないし、みんなで車で出かけて三十分走ったころに「忘れ物した!」と言っても、「ああそうか」って平然と取りに帰ってくれる。そういう世界って、楽ですよね。」
「とにかく自分を信用しちゃいけないというのは合言葉ですね。」
「自分は自分を裏切りますからね。体も心も裏切りますからね。」
「子どもの頃の価値観からあまり変わってないんですよね、自閉スペクトラム症(ASD)の「同一性保持」という特性です。
文学にとって、賢くない人たちを描く世界は未開の地で、そこに可能性がいっぱいあると思います。」
「ASD者は身体的にも精神的にも成熟してなお幼児のような印象を与えることが知られている。」