あらすじ
世界はどのようにはじまったのか。生命はどこから来て、どこへゆくのか。私たちはなぜ動物とは異なるのか……。人類は、原初の疑問や経験を、神話として語り継いできた。日本、ギリシア、北欧、インド、エジプト、中国、ロシア、インドネシア、パプア・ニューギニア、アメリカ、メキシコなど、世界の神話を読み比べる。各地の神話に共通する「折り返し構造」や、遠く離れた地域でも似通ったテーマが存在する理由など、神話にまつわる基礎知識も解説し、神話学の世界へと誘う。
◆目次◆
序章 世界のはじまりの風景
第一部 世界のはじまりの神話
第一章 はじまりとおわりは一致する?
第二章 日本の神話――イザナギとイザナミ
第三章 ギリシア神話――ウラノスとガイア(天父地母)
第四章 インド神話――プルシャ
第五章 北欧神話
第六章 中国神話
第七章 メソポタミア神話――ティアマトとマルドゥク
第八章 洪水神話
第九章 エジプト神話
第十章 世界各地のはじまりの神話
第十一章 世界のはじまりの神話のはじまり
第二部 人間のはじまりの神話
第十二章 創造型と進化型と出現型
第十三章 世界巨人型の人間のはじまりの神話
第三部 文化のはじまりの神話
第十四章 火のはじまりの神話
第十五章 食物のはじまりの神話
第十六章 火と食物のはじまりの神話
第十七章 まとめ――神話から哲学へ
おわりに
原典と参考文献
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Posted by ブクログ
少し本書から逸れた所から入るが、今、「ものごころ」について考えている。考えながら、帰宅してきた(変人っぽいが)。で、これは3歳くらいになってようやく、”生きている自覚“をもったかのような、所謂、記憶を遡れる範囲として用いがちな言葉だと思う。
そして更にこれは、単に知恵がつくことでも、理性が発達することでもなく、自然反応から「意味の世界」に移行したという事だ。哲学的に「ものごころ」を論究した人がいなければ、挑戦してみようかなと、ムフムフ考えながら帰ってきたのだ。
因果的世界から、意味的世界への参入。赤ん坊や動物は、「痛い→逃げる、泣く」という因果的反応の世界に生きている。だが、「ものごころがつく」と、これは「恥ずかしい」これは「やってはいけない」これは「大切なものだ」といった、意味・価値・規範が立ち上がる。「ものごころ」により、文化的・倫理的な世界の住人になるのだ。
で、本題に接続するが、人類の黎明、つまり霊長類はいつから「ものごころ」がついたのか。人類史的に言えば、洞窟壁画や埋葬、禁忌の発生は、世界に意味を与えずにはいられなくなった徴候であり、そこが始まりだと言えるかもしれない。
そうして「神話」が立ち上がる。人類は「意味を問わずには生きられない存在」になってしまったという、共通の条件を反復する存在として、モノミス理論という言葉を別の本で学んだ。人類の身体が概ね同じ仕様である限り、人類は類似の神話をもっていくはずだ。これはレヴィ=ストロースも言っていたことで本書でも触れられる。つまり、「神話」というのは、必然の過程でその中身は殆ど同じものであり、人類はそれによりようやく「ものごころ」がついて歩き出した存在である。「ものごころ」の起点としての神話。
さあ、では、そこからどこへ行くのか。
― こうした普通「異類婚姻譚」と呼ばれているタイプの神話は、単に面白いから語られてきたのではない。面白いだけが目的なら、結末で夫婦が別れる必然性はないはずだ。そうではなく、神話は世界について考え、教えるための手段という役割があるからこそ、種が異なる動物との結婚は失敗する、つまりするべきではない、という形で語られるのだろう。ただし、異類との婚姻が失敗に終わらない例も少ないが存在する。ではなぜそうした少数の例外があるのか、そこでは何か別の意図が語られているのか、と考えることが神話学での次の課題になる。
― 世界が大洪水で終わるとされる神話は少なくないが、なぜなのだろうか。それは、はじまりとおわりは、釣り合うように対応すると考える人間の脳の働きが作用しているためかもしれない。こうしたはじまりとおわりが対応するように構成される物語の構造を、普通「折り返し構造」と呼んでいる。学術的には「キアスムス」という言い方もされている。ドラマやアニメで用いられる「伏線回収」とも似ているだろう。それはちょうど三角形の一方の底辺の角からはじまり、次第に上昇して上の角に到達し、そこから下ってもう一方の角で終わるというイメージである。安定した形で、聴き手、読み手にとっても理解しやすい。さらには、物語のはじまりとおわりだけでなく、途中の物語でも対応させることができる。
神話がなぜ似たようなものになるのか。言葉が伝播、人が移動、同時発生、同時経験。あるいは身体構造による共通の原理(モノミス理論)。
― 神話はしばしば「はじまりの哲学」と呼ばれる。世界についての身の回りにある事物を手掛かりに思索、つまり哲学をしたのが神話だという意見である。十九世紀には神話は、人類がまだ十分な知性を有していなかった過去の時代の産物と考えられていたが、二十世紀になるとフランスの人類学者レヴィ=ストロースが、こうした人類を過去と現在で峻別する見方に異を唱え、人類はその誕生から知的には同一であり、ただ何を手掛かりに思考するかの違いがあるだけだとして、神話を「具体の科学」とか「野生の思考」の産物とし、現代の科学思想と基本的には変わらないものであると説いた。
本書も基本的には同じ見方に立って書かれている。神話を読むことは、結局、人類が「ものごころをもってしまった」その瞬間を、何度もなぞり直すことなのではないだろうか。それより前に超知性と出会っていたかもしれないが、それを神話に落とし込んで表現する力はなかった。そして、神話こそが「ものごころ」を遡れる限界なのだ。