あらすじ
没落した宇喜多家の再興を図る八郎はやがて直家となり、戦国の世をしぶとく生き抜いていく……。『光秀の定理』から直木賞受賞の『極楽征夷大将軍』に到る分岐点となった記念碑的作品、ついに文庫化!
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Posted by ブクログ
名前は聞いたことあるけれど、生き様は知らなかった。でも、読む手が止まらないほど面白かったです。宗教・哲学的な思考も併せて描かれていて楽しかった。下巻も楽しみ!
※性描写は生々しいので苦手な人は注意かもしれないです。辛く重いシーンではなかったのでわたしは楽しく読みました!
匿名
5~6歳の宇喜多家の嫡男八郎は、両親とともに城を追われて備前福岡の寺に隠れ住んでいたが、その噂を聞いて訪れた豪商・阿部善定に、家族ごと引きとられ養育されることになる。
そのためか、八郎は、武士としてより商人になりたいと思うようになるが、宇喜多家の再興を期待されていることもわかっており、また使命であると思いながら成長していく。
上巻は、そんな八郎が、主家である浦上家に仕えて初陣を迎え、兜首を上げて城と領地を得、元服して直家と名乗り、その領地の経営と周辺との戦に乗り出していくところまで。
戦で親を失い遊女屋に売り飛ばされ、そこから逃げ出した過去を持つ年上の女性・紗代に恋をし、「男女のこと」を教わる描写が濃密^^;
だが、その紗代を妻にしたいと思っても、本人に拒否される。
渋々正妻を持たされ、娘が三人生まれるが、ほとんど愛情を持てない。
その後、正妻の実家を攻め滅ぼすことになり、正妻も離縁ということになる。
娘たちは政略結婚させられ、さらに攻め滅ぼされるときに夫の殉じるのが悲しいと思ったなあ・・・。
正直、宇喜多直家のことは名前くらいは知ってる、という程度で、戦国三大梟雄の一人、と言われていることすら知らなかった。
ついでに、領地である備前のこともどのあたりかよくわからないまま読んだ感じだった。
Posted by ブクログ
垣根涼介さんの歴史小説が大好きです!
明智光秀、織田信長、応仁の乱前夜ときて、まさかの宇喜多直家!!!?
【黒牢城】は荒木村重、【じんかん】は松永久秀、そして本作【涅槃】が宇喜多直家!!!
最近、世の中の流行りかSランク、Aランクの武将を抑えてBランク以上Aランク未満の武将を題材とした歴史小説が多くなってきてるような気がします!
ゲームや漫画で主人公になりにくい武将達のブームが来ているのでしょうか?
そして、垣根涼介の歴史小説といえば何らかの達人の成長譚も見どころです!本作の宇喜多直家は最初、武芸に励んでいたのですが まさかの・・・
幼き時に城を失った八郎は商人の家で養われていた!?
武士でありながら武士のルールに囚われず成長し国を広げていく宇喜多直家!!!!
ワンピースのように仲間が増え、東京リベンジャーズのように勢力が大きくなっていくのがワクワクします!
下巻が楽しみです!!!
Posted by ブクログ
何を読まされているんだ、という描写が続き辟易したが、それを補って余りあるストーリーにページを繰る手が止まらなかった。直家を導く年長者たちの温情とそれに応える直家の敬慕。戦国武将の駆け引きを商人の目線で描いているところも新鮮で面白かった。どなたかのレビューにもあったが新たな直家像の大河が観たい!
Posted by ブクログ
室町無頼で直木賞作家垣根涼介の本なので読んでみた。宇喜多直家が没落した幼少期から大名になる話。無名な登場人物ばかりだが、黒田官兵衛が出てくるので読んでみた。
Posted by ブクログ
宇喜田直家と言う、かなり地味な人物を描いた長編歴史小説。決してつまらなくはないが、合計1000ページを超える物語としては盛り上がりにかけ、最後は読むのが苦痛だった
戦国武将の宇喜多直家の一生です。直家の子供の秀家が秀吉亡き後の五大老の一人で知っていましたが、直家の生涯は知りませんでした。
苦労して下克上の時代を生き延び、大名となったことも初めて知りました。史実かどうか知りませんが、垣根さんの直家に対する愛情を感じます。ただ、誰か他の方もレビューされていましたが、所々に性愛テクニックに関する記載がありますが、必要かなと思う一方で、流れとして必要だったのだろうと思います。
下巻まで含めると☆4つですが、上巻は☆3つです。
Posted by ブクログ
街道と大河を交わらせた交通の要衝に、商人と武士が融合した城郭都市を築く。そのような意味での城下町という概念は、日ノ本では宇喜多直家が初めて具現化した。この新しく普請した石山城が、のちの岡山城である。さらに言えば現在の岡山県の商業発展の基盤となった。
次に城下町をも内包した城が出来たのは、これより五年後、近江国に着工した安土城である。むろん、その城主は織田信長であった。
本書は、その宇喜多直家の物語である。
武力とはすなわち財力である。それを直家は実践していく。
乱世に生きる上での人知の深さは、その当人に、悪の要素が多少なりとも入っていることから生まれる。正確には、悪とは何かを充分に知りながらも善人である必要がある。何が悪かを充分にわきまえつつも、基本的にはなるだけ善人としての行いを心掛けている必要があるということだ。それが、表も裏もないまるっきりの善人では、この世が激しくうごめく動乱の世にあって、人の上に立っていくことなど到底できない。
人間は、その風向き次第では、ごくごく普通の性質でも、必要に迫られればいとも簡単に悪人になることもでき、また、利害の絡まぬ状況次第では、すぐに善人に成り代わることもできる。
山野の獣というものは、強いから生き残っていくのではない。その用心深さで生き残っていくのだ。
生きておる冥利とは、好ましい相手に当てにされることである。つまり自分の生は、自分一人でこしらえたものではない。自分がこれまで関わってきた数多の人々の、無数の生の断片で成り立っている。その断片の連なりの上に漂い、時に枝分かれし、時に戸惑い、笑い苦しんだ結果、今の自分がいる。いわば、今の自分とは、それら断片の集積だ。そしてその断片は、これからも生きていく限り、自分の中に落ち葉のようにさらに積み重なり、発酵していく。どこかへと自分を誘っていく。それは、場所ではない。まだ見ぬ心のどこかへだ。
直家という男は目的さえ達せられれば、そのやり方には一向に頓着しないようであった。
戦の心得は、
いつさつたしょう
「一殺多生」
であると、直家本人がしばしば家臣たちに公言していた。予め敵の威力を削ぎ、なるべく味方の損傷を経ず戦に勝つには、奇策はいくらでも弄してよい。卑怯と世間でそしられようが一向に構わない。武士道とはそもそもが畜生道であり、この世界にあっては、目的は手段を正当化するのだ、という意味のことも、折に触れて口にしていた。
宇喜多直家は臆病だからこそ、先々のことに対しても先回りし、あれこれと手を尽くす。遠方の織田家のことも調べる。そもそも武門の知恵とは、その根を洗えば臆病さから発酵するものではなかろうか。だからこそ宇喜多家もこのように大きくなった。
この世に絶対などということはない。もしあるとするならば、人はいつかは死ぬということだ
無慈悲に踏み付けられるのが嫌なら、大なる者が襲い掛かってくる前に、自らがその攻撃に耐え得るくらいに大きくなっておくしか仕方ないのだ。その大きくなった分だけ、相手はこちらに気を遣う。
自分の人生は、存外に自分では決められない。たとえ自分がこうであれかしと願っていても、それまで自分と関わってきた人々との流れ、つまりは世間が決めることなのだ。自分の生き方の在りようは、世間の関わりと、自分のこれまでの来し方の因果によって、思わぬところへ定められる。人は生まれながらにして、岩肌を伝う水のようなものだ、と。ある方向に向かおうと必死になってあがいても、不感もなく流れゆく方向を岩の起伏によって変えられ、遮られてしまう。人が唯一決められることは、その立っている岩肌の舞台から降りていくことだけなのだ。退く自由しかない。
人はたとえ互いに好き合っていても、それぞれの過去の重みには、自らが一人で耐えていくしかない。夫が、妻の来し方を背負うわけにはいかない。自分一人で過去に折り合いをつけ、持ち越していくしかない。そこで示せるのは安易な同情ではなく、相手に黙って寄り添うことだけだ。
人は基本、損得で生きるものだが、常にそれだけではつまらない
長い目で見て物事の得手不得手は、そのことを好むか、気が乗るかどうかで決まる。好まぬままやっていれば、いつかは心が破れ、自滅する。つまりかとは、気性のことなのだ
何かを得ようとするなら、何かは手放す。生きるとは、その痛みを伴う分かれ道の連続なのだ。