あらすじ
1984年、世界は〈オセアニア〉〈ユーラシア〉〈イースタシア〉という3つの国に分割統治されていた。オセアニアは、ビッグ・ブラザー率いる一党独裁制。市中に「ビッグ・ブラザーはあなたを見ている」と書かれたポスターが張られ、国民はテレスクリーンと呼ばれる装置で24時間監視されていた。党員のウィンストン・スミスは、この絶対的統治に疑念を抱き、体制の転覆をもくろむ〈ブラザー同盟〉に興味を持ちはじめていた。一方、美しい党員ジュリアと親密になり、隠れ家でひそかに逢瀬を重ねるようになる。つかの間、自由と生きる喜びを噛みしめるふたり。しかし、そこには、冷酷で絶望的な罠がしかけられていたのだった――。
全体主義が支配する近未来社会の恐怖を描いた本作品が、1949年に発表されるや、当時の東西冷戦が進む世界情勢を反映し、西側諸国で爆発的な支持を得た。1998年「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」に、2002年には「史上最高の文学100」に選出され、その後も、思想・芸術など数多くの分野で多大な影響を与えつづけている。
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Posted by ブクログ
やはり何度読んでも政治SFとしての金字塔である、が第一声になるかと思われる。
現代社会においてさも当たり前のように存在している自由、それがない世界線のストーリーである。
言論の自由がないどころか思考/思想の自由すらない社会。令和に入った日本においても「なんとなく生きづらいな」と思うことはある、SNSが普及したことによりさもありなんではあるが。
その気持ちが留まることを知らないまま一部の特権階級がひたすらに利権を貪ろうとするとこのような社会になるのであろうか。
内容としては、1人の壮年男性の視点で描かれる。テレスクリーンと呼ばれる政府が用いる監視カメラ(文字通り液晶ではある)が至る所に、それこそ自宅にすら設置されており細かい表情すら監視され続ける1日がひたすら続く。(ある程度学がある方ならわかるが、舞台は社会主義に則っているようである)
日々、政府(本書では党と言われる)に対する憤りが募っていくものの、考えていることすら察知されると蒸発させられるためひた隠しにしている主人公。その中で同じ思想を持っていると思われる特権階級とすれ違いがあるものの、直接的には会話できないまま別の女性との邂逅が。その女性こそは反政府思想を強く持っており恋仲になっていくが…。
科学的なアプローチでどのように思想を染め上げていくのか。何を持って反抗心を全くもっていない状態とするのか。拷問、尋問、扇動、、、
あぁ、悪を悪と呼べる社会にいること、それ自体がなんと稀有な状態なのか、ということを身につまされる。
ウクライナなど、現代でも実際に戦争が起きてしまっているが戦中の国がどのように国家内部を、市民を、戦争を是と考えるように洗脳していくのか、考えただけでも恐ろしくなる。
歴史を書き換え、書き換えたその行為自体がなかったものとなる社会…。
色々な意味で、全人類必読であると思う。捉え方は人それぞれであると考えているし、実際そうであろう。
この読後感は他では味わえない。
Posted by ブクログ
内容が衝撃的なので、時間が経過してもずっと記憶に残るであろう一冊。
“殉死”させない徹底的な拷問によって、未来への希望すらも潰す。暗い気持ちになりました。
主人公ウィンストンが、“最後の人間”なのは、最後まで本物の人間性を捨てられなかったから。
思考と心が壊れていく経過がリアルで、読みながら自分も何が正しいのかわからなくなった。
言語による認知の方法などは、科学的な視点に基づいていると思うので、言葉を統制することによって、思想や思考を統制するのは可能だと思う。この話のように極端ではなくても、現実的に至る所に存在している気がして、悪用されたら恐怖だと思った。
Posted by ブクログ
この本は190ページ以降のジュリアとの逢瀬から面白く感じた。そして300ページ以降の愛情省に捕まった辺りから読む手が止まらない。
後半に向け、スピード感が増すのだ。
393「君の中ですべてが死に絶えるのさ。愛することも、友情を抱くことも、生の喜びを感じることも、笑うことも、好奇心を抱くことも、勇気を持つことも、誠実であることも、何ひとつ出来なくなるんだよ。もぬけの殻になるんだ。我々は君の全てを搾り取って空っぽにし、そこを我々自身で満たすのだよ。」
これは予知となる。
最終、長い地獄のような懲罰を終えたウィンストンはジュリアは再会をする。互いに変わり果てたその姿を目の当たりにし、当時の自身の裏切りを告白する。それは後悔でも懺悔でもなく、「裏切った」という事実の交換のようなものだった。
投獄された時、ウィンストンの誇りはジュリアだった。彼女を裏切らないことがウィンストンをウィンストンたらしめた。
しかし今の彼には何も無い。空っぽなのだ。そこにトランペットが響き渡る。戦争の勝利の合図だ。
彼はビッグ・ブラザーに深く後悔の念と愛情を感じる。その瞬間脳裏に銃口があたる。
431.「連中への憎悪を抱き死ぬ、それこそが自由なのだ」
彼は初めて何の不安もなく満たされたと同時に、内なる自由を完全に失った。
ここまでハッキリしたバッドエンドを読むのは初めてで、最後の10ページはまさかまさかと驚きながらページを捲った。ウィンストン目線で物語は展開されるから彼の思想は正義であったし、最後は光が射す前兆を感じられると信じて疑わなかった。
どうしてロシアや北朝鮮は戦争を続けるのか、国外へのアピールよりも国内の洗脳や地位の確率であることがようやく知れた。
また、言語は思考と直結し言語を失うことは思考を失うことなのだと理解した。だからビジネス用語に辟易とした自分の感性は大事にしたい。自分の属したい世界の言語を使うことは、自分の思考を守る事だ。ビジネス用語を使うことで、同じイメージは共有できるけど、自分の属したい世界の言語は抽象的で補足に留まり、絵画が語る。
私もウィンストンと同じく、2つの言語を話すことで己の世界を守り、育てなくてはいけない。
Posted by ブクログ
昔から名作と言われている本だが、会社の読書会で話題になっていたので今回読んでみた。
1948年にイギリスで書かれた、1984年の超超監視社会の話。
けっこうお堅い本かと思ったが、読みやすかった。文字がぎゅっと詰まっていて時間がかかった。
党やビッグブラザーが支配する世界に疑問を持ち、若い娘から愛の告白を受けた主人公が思想犯罪を犯して捕まる話。
たびたび政治への危機感として話題に上がる本のよう。怖かった。
Posted by ブクログ
完全監視社会+それに従う大衆という絶望的な社会を描いたディストピアの金字塔。
このような社会では、豊かな文化の発展は望めず、あるのは服従・搾取・無知のみである。
本編については星5。
裏表紙の説明欄では「圧倒的リーダビリティ」などと謳っているが、ところどころ読みにくいと感じたし、それは疑わしいと思ったので星−1。
翻訳者のあとがきにおける一部の言い分については、個人的に思うところがあり、読後の余韻が薄れたので更に星−1。結果星3となる。
このレビューは長文となるが、前半では作品の感想と考察、後半では翻訳者のあとがきに対する私の反論を述べる。
《汝、かくなり》
本作において、この世界観を象徴する台詞は沢山あるが、ここでは第三部のオブライエンの台詞を取り上げてみる。
「古の独裁君主は「汝、かくあるべからず」と命じた。全体主義者は「汝、かくあるべし」と命じた。我々は「汝、かくなり」と命じる。」
これは一見分かりにくいが、深い意味がある。以下で解説する。
◆独裁君主「汝、かくあるべからず」
→「お前はそうであってはならない」
これは“禁止命令”である。
独裁君主は、臣民に対して「こうしてはいけない」「これをしてはならない」と命じる。つまり、行動の制限が中心である。
例としては、信仰の自由を禁じる、発言を制限する、服装や移動を制限するなど。
ここでは“外面的な行動の統制”が支配の手段となる。
◆全体主義者「汝、かくあるべし」
→「お前はこうあるべきだ」
これは“理想像の強制”である。
全体主義は、個人に対し「こうあるべきだ」と理想的な人格や思想を押し付ける。
例としては、模範的な労働者、忠誠心あふれる市民、党の理念を信じる者。
これは内面の規範化であり、行動だけでなく思考や感情の型を強制している。
◆オセアニアの命令「汝、かくなり」
→「お前は既にそうである」
これは“現実の再定義”である。
党は、命令すら必要としない。なぜなら、現実そのものを定義する力を持っているから。
これは要するに、“何も言わなくても、人々は勝手に自ら支配者の望む通りに動く”状態という事になる。
つまり、“支配者の都合よく思考するように洗脳されている”という状態なのだ。
・自分から「そのように思考すべきだ」と意識することすら不要。
・党の理想通りに思考・行動することが、既に“自然”であり、“現実”である
例えば、支配者が右を向けと言われて右を向いたとしても「お前は自由だ」「お前は幸せだ」「お前は忠誠を誓っている」と言われれば、それが真実になるわけだ。
これを読んで、私は「考えるな従え」という言葉を連想した。
これこそが全体管理主義+無思考な大衆という構造そのものではないか。
《現代社会との対比》
「4本の指を出して、党が5本と言ったら、それが真実。」
一見狂っているように見えるが、これは現実でも良く見られる。
専門家、教授、偉い人、政府、大手メディアがそう言っているからそう。自分で裏を取ったり調べたりはしない。仮におかしいと思っても、それはおかしいと思う人がおかしい。
仮に、権威が語る内容に異論を唱えると、このように反論される始末だ。
「本当にお前の言うとおりだったら、そのように(専門家が、大手メディアが)言うはずだ。」
「お前の疑問よりも、あの偉い人たちの言うことのほうが信頼出来る。」
「お前はあの偉い人たち(専門家、教授、政治家)よりも自分のほうが賢いと勘違いしている。」
権威に盲目的な大衆の様子は、コロナ騒動の時に嫌と言うほど見てきた。
ここで言うところの『権威』は偉い人だけではない、「皆がそう言っているからそう」というように、“皆”が権威になる事もある。言い換えれば、同調圧力である。これが集団的な思考停止を生み出している。
「権威や多数派に安易に従い、疑問を抱かない」
「社会の全体像や、自分が置かれている立場に関心がない」
「目の前の娯楽に没頭する」「日々の生活に追われる」
これはまさに、本作に登場する「プロレ(プロレタリアート、作中の大衆層)」や「権威に従う党員たち」の在り方そのものではないか。そして、自分にもそんな一面があったと身につまされる作品なのだ。
このような社会では、主人公のように、体制や社会に疑問を抱いた党員ですら最終的に屈服してしまうのだ。ジョージオーウェルは、恐らくこのような大衆の在り方や社会構造を批判したかったではないだろうか?
《翻訳者のあとがきについて思う事》
しかし本作の翻訳者は、このような私の見解とは異なる見解を、あとがきで書いているのだ。その内容を要約すると、大体こんな感じとなる。
1.主人公のウィンストンは、典型的な陰謀論者(という言葉は直接は使ってはいないものの、文脈からそうと読める)の特徴に完全に当てはまる。
2.ウィンストンは情報リテラシーの欠如ゆえに過激化し、破滅へと向かった。
3.ジュリアはウィンストンに関わったせいで、人生が台無しにされた。彼女が不憫でならない。
しかしこれらの見解は、作品のメッセージを歪曲しているように思えるし、私から言わせれば的外れのように思えた。
本作のメッセージを感じ取った人ならば、このような見解にはならないはずなのだが、それとも私が読み間違えているのか?
以下にそれぞれ反論と解説をする。
1.ウィンストン=陰謀論者というのは、あまりに一方的な見方である
翻訳者はあとがきで、ウィンストンが粛清されたはずの人物が写った写真の切れ端を見つけ党の欺瞞の証拠を手にしたと確信するシーンについて、「多数派が信じる『真実』と矛盾する情報を手にすると『世間が知らない重大な真実を見つけた』という気持ちになり、それをきっかけに極端な思想を持つようになる」というように説明し、更に「情報が正しいのか、裏を取るべきだ」という。
しかし例のシーンに、その理屈がウィンストンに当てはまるかどうかは怪しい。『1984』のオセアニアでは、一次資料・記録・言語が全面的に党の管理下に置かれ、歴史は恒常的に書き換えられる。記録は「メモリーボックス」に吸い込まれ、党に不都合な痕跡は体系的に抹消される。したがって、現実世界のメディア・リテラシー論が前提とする「独立した情報源を相互参照して検証する」という手続きは、制度的に成立しない。
ウィンストンが手にした写真は、党機関紙の内部矛盾を直接に示す稀少な物証であり、それに基づく確信は「陰謀論的跳躍」ではなく、世界のルール上取り得る最も合理的な判断ではないだろうか?。
後にオブライエンが、その写真の存在をちらつかせつつ否認し得ることを示してみせる場面があるのだが、それは遠回しに「実際にこれは捏造の証拠だ」と肯定しているようにも見えた。仮にそうでなくても、ここで重要なのは、事実の有無を超えて「事実であると定義する権能」を体制が独占していることを示している事だ。
つまり問題は、市民個人の検証能力ではなく、検証可能性そのものを破壊する権力の在り方である。
2.ウィンストンが破滅したのは「情報リテラシーが低いから」ではない
ウィンストンが破滅に至った直接の原因は、簡単に言えば以下の2つだと私は解釈した。
・党に逆らった。
・社会に疑問を抱いた。
(「汝、かくなり」を実践しなかった)
つまりは、翻訳者の言うように情報リテラシーや確証バイアスは(全く無関係とまでは言わないものの)殆ど関係していないと言ってもいいだろう。
そもそも彼は職務を通じて記録改竄の実態を良く知っているはずで、むしろ情報操作に敏感な当事者であった。そんな彼は安易に「写真を見ただけで信じ込んだ」のではなく、背景事情があっての事だろう。
彼の日記やブラザー連合への接近は“無知ゆえの軽挙”などではなく、危険を承知で党に逆らおうとしたからだ。それは最終的に破滅的な展開に繋がる理由の1つになるのだが、それは彼個人の認知能力や「見抜く力」の不足ではなく、党による超監視社会の支配体制の圧倒的暴力によってもたらされたと考えるのが自然である。
よって、バッドエンドの原因を“情報リテラシー”に還元するのは、党による完全な管理体制を軽視し、個人責任へと転嫁する誤りではないだろうか。
3.「ジュリアはウィンストンに関わったせいで人生が台無しになった」という見解は謝り
翻訳者は「ジュリアはウィンストンに関わらなければ、破滅せずに済んだ。彼女に同情する」などというような事を書いているが、私から言わせれば、これはもはや暴論としか思えない。
ジュリアは物語開始時点で既に体制の規範に反する行為(密会、闇市物資の入手、快楽志向による私的反抗)を継続しており、自らも「捕まるのは時間の問題だ」と語っている。二人が逮捕されたのは、チャリントンの部屋が思想警察の罠であったこと、オブライエンの偽装的接近が周到に仕組まれていたことなど、体制側の長期的監視と誘導の結果である。
ウィンストンとの関係が逮捕の時期を早めた可能性はあるにせよ、それを唯一の原因と断ずるような言い方は、体制による完全な監視とジュリア自身の反抗的行動を無視した因果の単純化である。体制下では、反抗の形式や相手の有無にかかわらず、遅かれ早かれ破滅に至る構造が敷かれているのだ。
以上。翻訳者はあとがきでウィンストンに対して厳しい批判をしているわけだが、これは現代の情報リテラシー教育の文脈から来ているのは察する事は出来るし、100%見当外れだとは言わない。しかしその言い分にはやはり強引さを感じるし、本作『1984』のメッセージとは真逆の見解だとしか思えないのだ。
本作を読んで主人公ウィンストンの言動を批判するというのは、謂わば「目立つ少数派」は厳しく攻撃するが「目立たないけど、より問題のある多数派」は無視しているようなものである。
これは現実世界で例えれば、芸能人の浮気は炎上する一方で、危険な法案が通ろうとしている事については誰も批判しない。何億円か盗まれたという事件は大勢が話題にするが、その一方で政府に何兆円もの用途不明金があるという話題には誰も触れない。というようなものと似たようなものを感じる。どう見ても後者のほうが問題なのに、“大したことないけど目立つ問題”のほうを大勢が関心を示して批判しているわけだ。
それこそ本作におけるプロレや党員的な在り方=表面的なところだけを見て全体像や本質を見ないような状態そのものではないか?
作中の何かを批判するなら「陰謀を疑う少数派」ではなく「無思考な多数派」や「体制そのもの」のほうであるべきだろう。
主人公の事を『確証バイアスに陥っている』のだと批判するのであれば、それこそ翻訳者あとがきの意見も、十分に歪んだ見方(バイアス)そのものではないか。
本作の出来が良いだけに、読後にここまで露骨なウィンストンへの批判を読ませられるのは、主人公に感情移入していた身としては突き放されたかのようで正直傷ついたし、本作のある種“美しいバッドエンド”の余韻も台無しであった。
オーウェルの作品は、現代の監視社会議論で頻繁に引用されたりと反権力的な読者に人気があるのだと思う。つまり本作を読む人は、現実における支配者による陰謀を疑う人が多いはずなのだ。それを分かった上で、ウィンストンを「情報リテラシーの無いバカな奴」だと指摘し、その手の反権力的な思想を持つ人を上から目線で批判・攻撃さえしているようにも取れるようなあとがきを書いてしまうのは、さすがに配慮に欠けるのではないだろうか?
翻訳の出来は悪くはないものの、かといって「読みやすい」とも言い切れない。そして、あとがきについては本作のメッセージとは真逆と言っても良いような内容としか思えない。
仮にウィンストンを批判したかったとしても、もっと書き方があったはずだろう。
ジョージ・オーウェルも、主人公を“バカな奴”として書きたかったわけではないのだと思う。繰り返すが、本作がバッドエンドなのは、党による絶対的な支配に、個人では太刀打ち出来ないという構造を強調する為だと私は解釈したし、ウィンストンが何をしたところで、党に疑問を持った時点で破滅が待っていた。つまり、「見抜く力」や「思想」は別問題なのだ。
それでもウィンストンを批判したいのではあれば、「自分ならこうする」と代案を提示するべきだろう。しかしあの状況だと、どう足掻いても破滅か、従順な奴隷として生きるかの二択以外にありえないのだ。仮に後者のほうが良いと言うのであれば、そのような人に、本作を翻訳してほしくは無い。
その視点で見ても、やはりウィンストンを「バカ者」として切り捨てるのは作品の本質からズレている。もし批判するのであれば「自分ならどうするか」を第一に考えてからにするべきだろう。そうでなければ、その批判はただ無責任なだけである。
あの世界においては破滅か従順かの二択しかなく、結局は逃れられない。そこを強調することこそが『1984』の恐怖であり、価値なのだ。
正直私は、他のバージョンにすれば良かったと後悔さえしている。例えば、2024年に出た講談社版のほうが、挿絵もあって読みやすそうだ。
以上、私なりの見解を述べてみた。今回の翻訳者あとがきには大きな疑問を抱いたが、それでも『1984』そのものの力は揺るがない。むしろ、この違和感をきっかけに、複数の訳や漫画版を読み比べてみるのも良いだろう。監視社会や全体主義への警告として、本作は間違いなく現代に響く一冊である。社会に疑問を抱く読者には特におすすめしたい。