【感想・ネタバレ】森の生活 (ウォールデン) 下のレビュー

あらすじ

ソロー(一八一七―六二)は、ウォールデン湖畔の森の中に自らの手で小屋を建て、自給自足の生活を始めた。湖水と森の四季の佇まい、動植物の生態、読書と思索――自然と共に生きた著者の生活記録であると同時に「どう生きるべきか」という根本問題を探求した最も今日的・普遍的なアメリカ文学の古典。湖とその周辺の写真多数を収める新訳。

...続きを読む
\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ

1100円

447P

再読
2026/08/23

「森に入り、必要最小限の物で、自分の手を動かして暮らす」という実践自体は、日本人にはそこまで突飛に見えない。里山生活、山村の自給、庵での隠棲、鴨長明や芭蕉、西行まで、自然の中で簡素に暮らし、世俗から距離を取る文化がすでに長くあるからね。

ただ、ソローが当時のアメリカ社会に対して斬新だったのは、森暮らしそのものよりも、それを「近代的な労働・消費・所有への意識的な反抗」として行った点だと思う。土地を開拓して財産を増やすことが善とされた19世紀アメリカで、彼は逆に「人間は家や仕事を所有しているつもりで、それらに所有されている」と言った。西へ進み、自然を切り開く社会のただ中で、自然を征服せず、自分の欲望のほうを縮小した。

日本の隠遁文学が、無常を知って世間から静かに退く方向だとすれば、ソローは森から社会へ向かってかなり攻撃的に批評している。だから生活の外形は日本人に馴染み深いけれど、その思想は「方丈記の庵に住むアメリカの反資本主義者」みたいな独特さがある。

目    次
森の生活(ウォールデン)(下)

ベイカー農場
より高い法則
動物の隣人たち
暖    房
先住者と冬の訪問者
冬の動物たち
冬  の  湖
★春
む  す  び
解    説

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
(Henry David Thoreau、1817年7月12日 - 1862年5月6日)は、アメリカ合衆国の作家・思想家・詩人・博物学者。 アメリカのネイチャーライティングを確立し、またニューイングランド超絶主義を代表する人物の一人である。代表作『ウォールデン 森の生活』において、自然の中での簡素な生活と自己省察を記録し、近代以降の自然観・環境思想・ライフスタイル論に大きな影響を与えた。[1] また、エッセイ「市民の反抗」(Civil Disobedience)において、良心に基づく非暴力的不服従の正当性を論じ、後世の政治思想や社会運動に決定的な影響を及ぼした。[2]

「ときどき、人間との交際やうわさ話にも飽き、村の友人たちの顔もひとりのこらず見てしまうと、私はいつも暮らしている場所よりずっと西のほうにある、この町でもあまり訪れるひとのない「すがすがしき森と新しき牧場へ 1」ぶらぶら歩いていったり、あるいは日没のころ、フェア・ヘーヴン・ヒルでコケモモやブルーベリーの夕食にあずかり、ついでに数日分のたくわえを摘み取ったりした。こうした実をひとから買って食べたり、市場へ出荷するために育てたりしている人間には、そのほんとうの味はわからない。それがわかる方法はたったひとつしかないのだが、そうするひとはめったにいないようだ。コケモモの味がどんなものか知りたければ、ウシ追いの少年かエリマキライチョウにでもたずねてみるがよい。自分で摘んだこともないのに、コケモモを味わったつもりになるのは、世間によくみられるまちがいである。コケモモはひと粒だってボストンに届きはしない。むかし、そこの三つの丘に生えていたことはあるが、以来、そこではまったく知られていない。この実でとりわけ風味のよい本質的な部分は、市場へ向かう荷馬車のなかで表面についている白い粉がこすれてなくなると同時に失われ、コケモモは単なる人間の飼料になってしまう。「永遠の正義」がこの世を支配しているかぎり、けがれなきコケモモのひと粒たりとも、田舎の丘から都会へと運ばれることはないのである。」

—『森の生活 下-(ウォールデン) (岩波文庫)』ソロー, 飯田 実著

「 ひろびろとした湖は、大気のなかにただよう精霊の存在を明らかにしてくれる。それはたえず上のほうから新しい生命と運動を得ているのだ。湖は大地と空との中間的な性質をもつ。地上では草と木だけが揺れるのに、ここでは水自体が風に吹かれてさざ波を立てる。光の縞やきらめきを見れば、風がどこを渡っているかわかる。湖面を見おろせるということはまことにすばらしい。やがていつの日か、私たちはこんなふうに大気の表面を見おろし、さらに名状しがたい精霊が、そこを吹きわたるのをまのあたりにすることができるであろう。」

—『森の生活 下-(ウォールデン) (岩波文庫)』ソロー, 飯田 実著

「そのころは、無為ということがもっとも魅力的で生産的な仕事だったのである。私はよく午前中にこっそりと村を抜け出しては、一日のうちでもっとも貴重な時間をそんなふうにしてすごすのが好きだった。金はなくても日のあたる時間と夏の日々はあり余るほどもっていたので、それらを惜しげもなく使ったのである。それに、私は仕事場や教師用の机の前でそうした時間をもっと費やさなかったことを、少しも悔やんではいない。ただ、私があの岸辺を去ってから、きこりたちはさらにひどく森を荒廃させてしまったので、森の小道をたどりながら木の間がくれに湖の景観を楽しむことなど、もう当分は望めなくなっている。私の詩神が、今後沈黙してしまうことになってもやむを得ないだろう。小鳥たちの森が伐り倒されているというのに、どうして彼らがさえずることを期待できようか?」

—『森の生活 下-(ウォールデン) (岩波文庫)』ソロー, 飯田 実著

「あるとき、私は偶然、虹のアーチのたもとに立った。虹は大気の低い層を満たし、あたりの草木を染めていた。私は色つきの水晶を透して眺めているようなまぶしさを感じた。それは虹の光の湖であり、そのなかで私はしばらくのあいだ、イルカのように生きた。もし虹が長くつづいていれば、私の仕事や生活にもいろどりを添えてくれたかもしれない。鉄道の土手道を歩いていたとき、私はよく自分の影のまわりに光の暈ができるのを見て不思議に思い、自分はきっと神に選ばれたひとりなのだと、うぬぼれてみた。私を訪ねてきたある男によると、彼の前を歩いていくアイルランド人たちの影にはそんな暈などかかっていなかったそうで、こうした栄誉に浴するのは、その土地に生まれついた人間だけだそうだ。そういえば、ベンヴェヌート・チェリーニ 3が回顧録に書いている。聖アンジェロ城に幽閉されていたころ、なにか恐ろしい夢か幻を見てからというもの、イタリアにいてもフランスにいても、燦爛たる光が朝な夕なに彼の頭の影の上にあらわれるようになり、とくに草が露に濡れているときなど、きわ立っていたという。これはおそらくいま述べた現象とおなじもので、私の場合もやはり朝方に、とくにはっきりと見られたが、別の時間にも たとえば月の輝く夜にさえ あらわれたのだった。ありふれた現象ではあるけれど、気づくひとは少ないので、チェリーニのように敏感な想像力の持ち主にあっては、迷信のもとにもなりかねないのであろう。しかも彼は、それをほとんどだれにもうち明けなかったと書いている。だが、自分は注目されていると意識する人間は、それだけでも選ばれた人間といえるのではあるまいか?」

—『森の生活 下-(ウォールデン) (岩波文庫)』ソロー, 飯田 実著

「もしわれわれが、あらゆる「自然」の法則を知っていれば、たったひとつの事実か、あるいは実際に起こったひとつの現象の記述を提示されるだけで、その時点に生じ得るすべての特定結果を推測することができるであろう。ところが現段階では、われわれはほんのわずかな法則しか知らないので、こうした推測の結果は、もちろん自然界の混乱や不規則性によってではなく、われわれの側が計算上不可欠な要素に対して無知であるために損なわれてしまうのである。法則と調和に関する人間の諸観念は、たいていの場合、発見できる実例のみに限られている。だが、一見矛盾しているようで、じつは一致している、さらに多くのいまだ発見されざる法則から生じる調和には、さらに驚嘆すべきものがあるのだ。特定の法則がわれわれの視点となっているところは、ちょうど、ある山の形は絶対にただひとつしかないのに、旅びとにとってはその輪郭が一歩ごとに変化し、無限の横  顔をもつことになるのと似ている。山を切り裂いたり、そこに穴をあけたりしてみても、山の全容を把握することはできないのである。」

—『森の生活 下-(ウォールデン) (岩波文庫)』ソロー, 飯田 実著

「 私が森の生活にひかれた理由のひとつは、春の訪れを見るゆとりと機会がもてそうだということだった。湖の氷がついに蜂の巣状になりはじめると、私は歩きながら靴のかかとをそこへ踏みこませることができる。霧と雨とあたたかくなった日ざしとが、徐々に雪を溶かしてゆく。日はめっきり長くなった。これからは大きな火を燃やす必要はないので、もうこれ以上薪の山をふやさなくても冬が越せそうだ。私は、春の最初のきざしを見つけようと注意をこらす。やってきた渡り鳥がふと洩らす歌声や、そろそろたくわえがなくなっているはずのシマリスの鳴き声は聞こえないか、冬ごもりを終えたウッドチャックが、勇をふるって巣から出てくるところが見つからないかと。三月十三日には、すでにブルーバード、ウタスズメ、ワキアカツグミなどの鳴き声を聞いたあとだったが、湖の氷の厚さはまだ一フィート近くもあった。気候があたたかくなっても、氷は川のなかのように、みるみる水に溶けたり、砕けて流れ去ったりするわけではない。それどころか、岸辺の氷は半ロッドの幅で完全に溶けてしまっても、湖の中心部は、蜂の巣状のまま水びたしになった結果、足で踏み抜くことができるとはいえ、依然として厚さ六インチの氷におおわれていた。しかし、あたたかい雨のあとに霧でもかかると、おそらく次の日の夕方までには全部の氷が溶けて、神隠しにでも遭ったように雲散霧消してしまうだろう。ある年のことだが、私は氷が消えてなくなるわずか五日まえに、湖のまんなかを歩いて渡ったことがある。一八四五年には、ウォールデン湖は四月一日にやっと完全解氷した。四六年は三月二十五日、四七年は四月八日、五一年は三月二十八日、五二年は四月十八日、五三年は三月二十三日、五四年は四月七日ころであった。」

—『森の生活 下-(ウォールデン) (岩波文庫)』ソロー, 飯田 実著

「 湖では、一年間の現象が毎日小規模に起こっている。大まかにいえば、浅い水は毎朝、深い水よりも急速にあたたまる。もっとも、結局はそうたいしてあたたまるわけではなく、夕方になれば次の朝まで、さらに急速に冷やされるにきまっているのであるが。一日は一年の縮図である。夜は冬、朝と夕べは春と秋、昼は夏である。氷がきしんだり、とどろいたりする音は気温の変化を示す。寒い夜が明けてすがすがしい朝を迎えた一八五〇年二月二十四日、私はその日一日をすごすつもりでフリンツ湖へ出かけていった。斧の頭で氷を叩いてみると、ピンと張った太鼓の皮でも叩くようなドーンという音が、周囲何ロッドにもわたって鳴りひびくのを知っておどろいた。日の出から一時間ほどたったころ、湖は丘の上から斜めにさしてくる陽光の影響を感知し、ごろごろと鳴りはじめた。湖は目覚めたばかりの人間のように、伸びをしたりあくびをしたりしていたが、しだいに騒々しくなり、そんな状態が三、四時間もつづいた。正午になるとしばらく昼寝をし、午後は太陽の感化が弱まる夕方になってもう一度とどろいた。天候が順調であれば、凍った湖はきわめて規則的に夕べの時砲を撃ち鳴らす。ところがその日は、真昼になると氷に無数のひびがはいり、大気も弾力性を失ってしまったので、湖はまったく共鳴音を立てなくなった。おそらく氷を叩いても、魚やマスクラットが肝をつぶすようなことはなかっただろう。漁師たちの話では、この「湖の雷鳴」がとどろくと魚たちはすっかりおびえてしまい、 に食いつかなくなるそうだ。湖は毎晩雷鳴をひびかせるわけではないし、私はその時刻を正確に言いあてることはできない。しかし、私には天候の変化が感知できない場合でも、雷鳴がとどろくことがある。これほど大きく、つめたく、厚い皮でおおわれたものが、これほど敏感だとは、いったいだれが想像し得たであろうか?  とはいえ、ちょうど春がめぐってくれば芽がふくらむように、湖がとどろくときには、まちがいなくそれが進んで従う法則があるのだ。大地はあまねく生きており、小さな乳頭状の突起物におおわれている。最大の湖も、管のなかの水銀の粒とおなじように、大気の変化に対してはきわめて敏感なのである。」

—『森の生活 下-(ウォールデン) (岩波文庫)』ソロー, 飯田 実著

「地面の雪がまだらに消えはじめ、あたたかい日が二、三日つづいて、その表面がある程度乾いたころ、折りから顔をのぞかせたばかりの、幼い春が芽生える最初のいたいけな兆しと、冬をしのいできた霜枯れの草木の堂々たる美しさとを比べてみるのは楽しかった。たとえば、ヤマハハコ、アキノキリンソウ、ハンニチバナをはじめとするしとやかな野草は、夏が来なくては美しさが熟さないようにみえて、そのじつ、この時期のほうが夏よりもかえって目立ちやすく、趣に富んでいることが多かった。さらに、ワタスゲ、ガマ、モウズイカ、ジョンズウォート、ハードハック、シモツケ、そのほか茎のしっかりしたいろいろな植物があり、いちばん早く渡ってくる鳥たちをもてなす無尽蔵の穀倉 少なくとも寡婦の「自然」が身にまとう、つつましやかな喪服 4 となっている。私は、とりわけ羊毛草の、弓なりに反った穀物の束のような先端部分に心をひかれる。それはわれわれの冬の記憶に夏を呼び戻してくれるし、芸術家が模写したがる形態のひとつでもある。この草はまた、すでに人間精神の内にあるさまざまな型に対して天文学がもっているのとおなじ関係を、植物界においてもっている。ギリシアやエジプトの様式よりも、さらに古い時代の様式である。冬の現象の多くは、いうにいわれぬいたいけなさと、壊れやすい優美さを底に秘めている。われわれはよく、冬の王が不作法で荒々しい暴君のように言われるのを耳にするが、じつは恋するひとのようなやさしさで、夏姫の髪を飾っているのである。」

—『森の生活 下-(ウォールデン) (岩波文庫)』ソロー, 飯田 実著

「 春が近づいたころ、私が腰をおろして読み書きをしていると、すぐ足もとの床下に赤リスが一度に二匹もぐりこんできて、それまで聞いたこともない、世にも奇妙なしのび笑いや、チュッチュッというさえずりや、旋回ダンスを思わせる声や、喉を鳴らすような音をしきりに立てた。私が床を踏み鳴らすと、彼らはいっそう大きな声でチュッチュッと騒ぎ立て、悪ふざけに熱中するあまり、恐怖も敬意もすっかりうち忘れ、人間に向かって、止められるものなら止めてみろ、とでも言わんばかりであった。おい、やめろよ 赤リス君 赤リス君たら。だが、彼らは私の言い分に耳を貸す気はまったくないのか、それともそんなものは頭から見くびっているのか、もはや手の施しようもないほど、つぎつぎと罵声を浴びせるのであった。  春いちばんのスズメ!  一年が以前にもまして、若々しい希望に燃えてはじまろうとしている!  ブルーバード、ウタスズメ、ワキアカツグミたちの弱々しい、銀鈴を鳴らすようなさえずりが、まだらに雪の消え残っている湿った野原を越えて聞こえてくる。冬の最後の雪片が、舞いおりながら触れあう音のように!  こんなとき、歴史や、年代記や、伝承や、文字で記されたあらゆる啓示がいったいなんだというのだろうか?  小川は春への祝ぎ歌と歓びの歌を口ずさむ。牧場を低く飛ぶハイイロチュウヒは、早くも目覚めたばかりのぬるぬるした生きものを探しまわっている。溶けかかった雪の崩れ落ちる音が、あちこちの谷間で聞こえ、氷は湖でどんどん溶けてゆく。丘の中腹では草が春の日のように燃えあがる ​ et ​ ​ primitus ​ ​ oritur ​ ​ herba ​ ​ imbribus ​ ​ primoribus ​ ​ evocata ​(「かくて草は、最初の雨にうながされ、いままさに萌え出んとする 5」)。あたかも大地が、戻ってきた太陽を迎えようと、内部の熱を送り出しているかのようだ。ただ、焰の色は黄色ではなく緑色であるが。永遠の青春の象徴である草の葉は、緑の長いリボンのように地面から夏に向かって流れ出し、たとえ霜に行く手を阻まれても、すぐまた前進し、地中にみなぎる新しい生命の力によって、去年、干し草として刈り取られた草の先端をもちあげる。草の葉は、小さなせせらぎが地中からにじみ出るように、着実に生長をつづける。この両者はほとんど同一といってよい。というのも、水が涸れてしまう六月の草の生長期には、草の葉がせせらぎの水路となるわけであり、年々、家畜の群れはこの永遠の緑の流れから水を飲み、草を刈る者は、そこからいち早く冬の飼料を み取るからだ。おなじように、われわれ人間の生命も、根元のほうまで枯れるだけであり、なおも永遠に向かって緑の葉を伸ばしてゆくのである。」

—『森の生活 下-(ウォールデン) (岩波文庫)』ソロー, 飯田 実著

「たった一度のやさしい雨が、草の緑色をいっそう深めてくれる。同様に、よい思想が到来すると、われわれの前途は明るくなる。もしわれわれが、つねに現在に生き、天から降ってくるわずかな露の感化をもありのままに表白する草のように、わが身に降りかかるあらゆる出来事をうまく活用できるならば、また、過去の好機を見のがしたことのつぐないに時間を費やして、それを義務の遂行と呼んだりしないならば、われわれは幸福になれるだろう。もう春は来ているというのに、われわれは冬をさまよっているのだ。すがすがしい春の朝には、すべての人間の罪が許される。こうした一日は悪徳への休戦日だ。春の太陽が燃えているあいだは、極悪非道の人間も故郷に帰ることが許されよう 9。われわれ自身がもう一度無垢になれば、隣人の無垢性もわかるようになる。昨日あなたは隣人のことを、泥棒、酔っ払い、好色漢と考え、彼に対してあわれみと軽 しかいだかず、世のなかに絶望していたかもしれない。だが、この最初の春の朝、太陽が明るくあたたかく輝いて世界をもう一度創りなおそうとしているとき、のどかな様子で仕事に精を出しているその男と出会い、疲れ果て堕落した彼の血管が、いまは静かな歓びにふくらんで、新しい日を祝福しつつ、幼いころのあどけなさで春の影響を感じ取っているのを目にすれば、その男のあらゆる欠陥は忘れられてしまう。彼の身辺には、単に善意の雰囲気がただよっているだけでなく、たとえ生まれたばかりの本能のように盲目的で頼りないものであるにせよ、神聖な香気すら発散の機会をうかがっているようであり、しばらくのあいだは南の丘の中腹も、下品な冗談にこだまを返したりはしなくなるのだ。見れば、彼の節くれ立った外皮からは無垢な美しい若枝が吹き出して、生えたての草木のようにやわらかいみずみずしい姿で新たな年に挑もうとしている。こうした男も「主」の歓びにあずかっているのだ 10。なにゆえ看守は牢獄のドアをあけ放っておかないのか なにゆえ判事は事件を却下しないのか なにゆえ説教師は集会を解散しないのか!  それというのも、彼らは神が与えてくれる暗黙の教えに従わず、神が万人に惜しみなくもたらす許しを受け入れようとしないからである。」

—『森の生活 下-(ウォールデン) (岩波文庫)』ソロー, 飯田 実著

0
2026年08月24日

Posted by ブクログ

下巻は、「森の生活」というタイトルにふさわしく、森での日々の自然観察に多くのページが費やされ、その中で生まれてくる思索が見事に織り込まれていきます。上巻同様、時代も場所も国民性も違う現代日本の読者には、すんなりとは理解しがたい皮肉や暗喩や例え話がちりばめられているので、読みやすいとは言えませんが、じっくりと取り組んでみると、深い味わいがあります。ここで語られているような生き方をそのまま実行することは難しいし、その必要もないと思います(ソロー自身、この生活は一時的な、実験的なものでした)。ただ折に触れて読み返すことで、欲に目のかすんだ自分を引き戻すことができる、そんな書です。

0
2025年02月26日

Posted by ブクログ

上巻ですでに深い感銘を受けていましたが、下巻(後半)はさらに感銘を受けました。特に最後の章「むすび」はそこだけでも人生指南書としての価値があります。ソローは悟りをひらいた人、物事の本質を掴んでいる人、仏教的にいうならば、彼岸の智慧を得た賢者と呼ぶにふさわしいでしょう。俗世間の名声や権力、お金は虚飾であり、真の幸福は別の所にある。彼はそれを「実在」と呼んでいますが、2年にわたる森の生活でソローは「実在」についての確信を得るわけです。
「汝の視力を内部に向けよ。やがてそこには、いまだ発見されざる、千もの領域が見つかるだろう。その世界を経巡り、身近な宇宙地理学の最高権威者となれ」
「もしひとが、みずからの夢の方向に自信を持って進み、頭に思い描いたとおりの人生を生きようとつとめるならば、ふだんは予想もしなかったほどの成功を収めることができる」
「われわれの内なる生命は、川の水のようなものである」
これらは最終章に書かれているメッセージですが、最後のメッセージにありますように、この本自体があたかも川の水のようで、読者の心に潤いを(生命を)与えてくれる存在だと思います。何度も読み返したい本でした。

0
2023年05月02日

Posted by ブクログ

名著です。何か、『隠遁生活のススメ』みたいな捉え方をされている向きもありますが、ソロー自身が

『僕が森に行ったのは、思慮深く生き、人生で最も大事なことだけに向き合い、人生が僕に教えようとするものを僕が学びとれるかどうか、また死に臨んだときに、自分が本当に生きたと言えるのかどうかを、確かめるためだった。』

と、本書で述べており、決して厭世思想ではありません。積極的に生きるための哲学として読まれることをおすすめします。

0
2020年09月13日

Posted by ブクログ

ウォールデンの森での生活の秋から春へかけて、そして圧巻の「むすび」。生き方はこれしかないと思っていないか?労働の奴隷となっていないか?人間には野生という強壮剤が必要だ。生活をもっと単純化すれば、貧しさは貧しさでなくなり、弱点は弱点でなくなるという考えかたも理解できるし、そうできればと思う反面、やはり家族との生活はそこにはなかった点が最後までひっかかる。子供の生き方の選択肢を自由を考える場合、ミニマムな生活から他の生活を選ぶことは可能なのだろうか?他の人の税金によってなりたっている教育や医療やインフラを寄生虫のように使って、自分は自由に生きていると叫ぶのか?どのようにそうでない社会をつくっていけば良いのだろう。労働の奴隷にならないように心を保つ難しさなど肯定的にも否定的も考えさせられる生き方満載の、これは森の実践的哲学書なのだった。若い時に読みたかった。

0
2019年06月16日

Posted by ブクログ

私にはほんとうの豊かさが味わえる貧しさを与えてほしいものだ。p48

努力からは叡智と純粋さが生まれ、怠惰からは無知と肉体的欲望が生まれる。学究にとって、肉体的欲望とは、だらけた精神の習慣である。不潔な人間は例外なく怠け者だ。ストーヴにかじりついていたり、日だまりに寝そべってたり、疲れてもいないのにうつらうつらしたり。不潔さとあらゆる罪とを避けたければ、ウマ小屋の掃除でもなんでもいいから、一心に働くことだ。生まれつきの本性を克服することはむつかしいが、それを克服することが肝心なのだ。p93

「汝の視力を内部に向けよ。やがてそこには、いまだ発見されざる、千もの領域が見つかるだろう。その世界を経巡り、身近な宇宙地理学の最高権威者となれ」p270

【解説より】
超越主義(transcendentalism):「実在を認識するにあたって、客観的経験よりも詩的直観的洞察力を重視する態度」p316 Cf. カント

0
2013年04月03日

Posted by ブクログ

理想の生き方を実践するために森に小屋を立てて2年間暮らした中で得たソローの経験と思想。
饒舌ながらも、くだけた流麗な語り口でさらさらと読める。ダジャレも見事な翻訳。

美しい自然描写もあれど、力点はあくまで人はどう生きるべきかという問答。

ウォールデン湖のように青いけど、少しばかりの生きる勇気と知恵を与えてくれる書物。

0
2010年08月28日

Posted by ブクログ

上巻に引き続き、具体的な植物や動物の名前などを多々用いて彼の体験した生活を臨場感も持って伝えているが、あまりにも具体的すぎて植物図鑑を読んでいるような気持ちになってしまう。
しかし、所々、この世界に生きている人間として学ぶべき事をしっかりと記してくれている。

0
2023年04月09日

Posted by ブクログ

前半に比べお説教が影を潜め、生き生きとした森の動物たちや、冬の湖の美しい描写には心を洗われた。森の中で静かに生活をしていたのかと思っていたけれど、大変活動的で恐れ入った。蟻たちが繰り広げた大戦争についての描写は臨場感満点でお見事でした。

0
2015年07月19日

Posted by ブクログ

静かに自然と共に生活する豊かな日々が語られる。愛情あふれる動物たちの観察がおもしろい。欲のためにあくせく働いて自らを酷使する私達に何のための仕事か立ち止まるきっかけを与えてくれる本。それにしても彼のギリシャ・ラテンや聖書、インド・中国の古典に精通した教養は素晴らしい。

0
2011年05月15日

Posted by ブクログ

自然があってこその人類の繁栄である。それを忘れてしまった社会に向けて異議を論じている。ソローが実際に2年間、森で自給自足した足跡を読むことができる。

0
2010年05月07日

Posted by ブクログ

静かに森に向き合い、そして森を去って行く著者の思考を想像しながら読んだ。国や時代背景など何もかもが今の自分の置かれた状況と異なりながらも、どんな意識で生きるかといった人生論に帰着した気がする。自分の人生の手綱を握るために、一定期間物理的にも様々なことから距離をおいて、問いを立て考えを巡らす時間があってもいいかもしれない。

0
2025年12月15日

Posted by ブクログ

ちょっと説教臭くて面倒臭かったとか言うと怒られるな。。まあ、考えてみれば、本なんて基本、説教だよな。

0
2019年05月21日

Posted by ブクログ

20170503 ようやく上下巻読み終えた。自分のこれからの生き方の参考にと思って読み始めた。比喩には付いていけないが気持ちでわかる部分が多い。本当に理解するにはどこかで一度一冬過ごしてみないとダメなのでは。機会を作ってやってみるか。

0
2017年05月03日

Posted by ブクログ

米国の作家ヘンリー・ソローが、マサチューセッツ州ボストン郊外のウォールデン湖のほとりで過ごした2年2か月の生活を綴り、1854年に発表した作品の下巻。
著者は、本書に以下のような様々な思いを記している。
「私は、一等船室に閉じこもって旅をするよりも、平水夫としてこの世界のマストの前に立ち、甲板上にとどまりたいと願っていた。そこにいると、山あいを照らす月の光がじつによく見えたからである。いまとなっては、もう船室におりてゆく気にはなれない」
「なぜわれわれは、こうもむきになって成功をいそぎ、事業に狂奔しなくてはならないのだろうか?・・・めいめいが自分の耳に聞こえてくる音楽にあわせて歩を進めようではないか。それがどんな旋律であろうと、またどれほど遠くから聞こえてこようと。リンゴやオークの木のように早く熟成することなど、人間にとっては重要ではない」
「仮に私がクモのように、終日、屋根裏部屋の片隅に閉じこめられていたとしても、自分の思想を失わないでいるかぎり、世界は少しも狭くなりはしない」
そして、「私は、森にはいったときとおなじように、それ相応の理由があって森を去った。おそらく、私にはまだ生きてみなくてはならない人生がいくつもあり、森の生活だけにあれ以上の時間を割くわけにはいかないと感じられたからであろう」と決心する。
「新たな夜明けが訪れようとしている。太陽は明けの明星にすぎない」

0
2016年01月11日

Posted by ブクログ

仕事に打ち込むこと、自分のペースを保つことなど、今に通じるものを感じます。
さすが古典の名著というところでしょうか。

自然に対する細かな描写などは、著者の自然への愛情を感じることができました。

しかし大変なボリュームや膨大な脚注など、やっと読み終えたというのが正直なところで、己の不勉強さを嘆きます。

0
2016年01月04日

Posted by ブクログ

自然の中での生活を描きながら、哲学や思想について語った本当。今の日本にはこのような思想が不足している気がする。生きることの喜びや本当の幸せについて考えさせられる一冊。
作者がなかなか個性的で、共感できない部分も多々あるけど、思想としては好きです。

0
2013年01月11日

「小説」ランキング