あらすじ
春さんが、帰ってこない――。
深夜一時半。
最愛の夫の帰りを待つ三津子。無理な残業をする彼を心配する彼女の心は、決して夫には届かない。
その想いを記した日記は、やがて幻聴、幻覚、幻影、幻想に飲まれていく。そして迎える《おしまいの日》に三津子は……。
春さんは、まだ、帰ってこない――。
正気と狂気の狭間を描く、サイコホラーの傑作!
感情タグBEST3
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Posted by ブクログ
最愛の夫の過労死を心配しすぎるあまりに、ちょっとづつ、でも確実に壊れていく専業主婦のみっちゃんのお話。
だいぶ前に読んでいて、新装幀が素敵でまた買っちゃった。秀逸。
みっちゃんの行動や思考がとんでもなくて怖いんだけど、最終的に失踪するという決断の、そこにいたる理由が、春さんが大好きだから、それを失う恐怖に耐えられないっていう。
正直、当時はイマイチ実感できなかったんだが(今も旦那では実感できないが)対象が「子ども」で、それを失うという事を考えたら、それはそれは恐ろしい。
考えるのをやめないと発狂しちゃうのはわかる。
で、思考(というか想像だね)を止められなければ、それが二倍になったら耐えられないというのは、実感を伴った。
あとがきも面白い。
時代ごとのあとがきが読めるのは良い。
携帯電話がなかったり、個人情報の緩さとか、気になる部分もあるけど、30年位前のお話なのでね、それはそういう社会だったよねって言う事で。
Posted by ブクログ
こちらもリバイバルで再読。初読時はこれほどSNSのようなインタラクティブなコミュニケーションツールが発達していなかった時代なので、三津子の孤独がリアルに伝わってきた。
日記のスミ塗り部分の仕上がりは新潮版単行本のほうに軍配。どう表現するか苦心しただけある。あのページを開いたときはゾッとした。
曖昧な自他境界と極端な白黒思考が状況(病状?)を悪化させたおもな要因だと思うけどそれが生来のものなのか生活環境によるものなのか。あるいは両方か。
住民票の閲覧制度が改正されたのが2006年でこの作品の出版年度が1992年なので、そのへんはどう想定しいたのだろう。手紙は忠春に見せないことにしていたようだし、探したりはしなかったんだろうか。とはいえ(決意はどうあれ)諸々かんがみても母子ともにハッピーエンドの結末は想像しにくいので、あまり突きつめないほうがよさそう。
Posted by ブクログ
何度目かの再読
日記の棒線消しがよりそれっぽくなっていて印刷技術の進歩はすごいなあと感心。
エピローグでどんでん返し、というよりはこうだと思っていた方向性は大体合っていて更にその底が抜けていく感じが恐ろしくて気持ちがいい。
旦那さんが好きすぎて、帰りの遅い旦那さんを心配しすぎておかしくなってしまった女の人の話、という大枠の更に外があったというか…。
みっちゃんは困った人、おかしい人という物語のつくりではあるけれど、周囲が読者が思っているより物事が見えていて更に覚悟が決まっている人物だった。
旦那の帰りが遅いのを心配する、ではなく(それもあるが)、旦那の臨終の報せに常に怯えている、怯えているがゆえに常に旦那の帰りを待たざるを得ない、とまで初読で読み込めた人はいないんじゃないだろうか。
(これが大打撃で再起不能になって後の物語が『ハッピー・バースデー』だと思う)。
日記の中のみならず、地の文でも「春さんが死んじゃう」と心配して主張しているのに忠春も久美も読者もきっとハイハイ心配性だね、と流してしまう。
実際、三津子が失踪して7年+2年後に過労死しているので忠春の享年は43歳前後、三津子の心配は正しかった。
エピローグにさらっと書いてあるけど忠春を心配して食事を胃液を血まで吐いたと。糾弾されていた「食事をしない」にはこの理由もあったのではなかろうか…。
食べたところで心配して吐いてしまう、だけど忠春といっしょに食べて同じ時間を過ごせるなら……哀しい。
おしまい、のその先を知りたいと思うのは反則だけれど、その代わりに消されて読めない下にある文章を読んでみたい。この作者ならその部分もきちんと用意している気がする。
をやめ が死 待つこともない しまえば 待 おびえな
ちらっと見せられるこれだけの文字、気になります…。
冒頭の日記が「おしまいの日」直前の日記だったり、現実に大きな出来事があると抜けがあったりということに改めて気がついた。
後半は妊娠による体調不良によるところも大きいのだろうが、忠春が今よりさらに帰りが遅くなると知った時には6日間空いているし、おそらくにゃおんとアイアンの件もこの間に起こっている。
不安を煽るアイテムとして出てくる刺繍クッション、おそらく普通サイズのものならば45*45に落穂拾いを全面刺繍して2日間で完成というのもなかなかに速いというか過集中というか…
自分用に用意したというデューラーのメランコリア・Ⅰもみっちゃんはなんだってこんな絵を…という内容の絵で調べてみて衝撃を受けた。これを刺繍するのは確かに大変そう、というか可能なのか。
にゃおんといえば、結構どんくさいのだろうか或いは春さんのためにがんばった三津子が意外に俊敏なのだろうか…とか思ったり。
そういえば7月22日の日記に、10月にいとこの結婚式があるとあったが、親族内でそこではどういう会話があったのだろう…まあ三津子の両親は欠席したかもしれないが…。三津子、というくらいだから三女か三番目の子なのかな?
エピローグは日記の文字とはフォントが違う、地の文と同じ。
日記と違ってここの部分の真偽は疑わなくていいですよ、ということかなと理解。日記にすら本当の本心は書いていないということが明かされたし
つまり三津子の本心はこのエピローグにしか無いのかもしれない。
日記にあった物騒な文字の数々は、思ってはいけないというよりも、本人の言う通りある意味「こうできたらいいな」の理想の行動だったのか。忠春を殺して、彼をもう待つこともなく、子供とだけ向き合って暮らす(日記を消したのは「おかしい」三津子なので妊娠を正しく把握していると解釈)。
エピローグを終えて失踪した三津子と子供はどこかで幸せに暮らしていた…とも素直に思えない周到なアイテム配置が凄まじい(強い風邪薬)。
自ら終わりを迎えたヒロインが想い人への想いを語る終わり方が、同作者の『緑幻想』と形は同じなのに全く違うそれでいて根底は似通っているような? 不思議な読後感であった。
Posted by ブクログ
とにかく気持ちの悪い後味が残る作品だった。
新井素子むかし読んだ記憶はあったけどなんとなく、じわじわと、啓示されているような、そんな気持ち悪さがあった。
人間が狂うのを読むのは好きだが狂わされているのはこっちなのでは?と思う感覚。
日記の持ち主、三津子の精神がおかしくなっていくところから何が本当で何が幻なのか何が何だかわからなくなってその“わからない”はわからないまま終わってしまった。
これを読んでこう感じろという名目がないことが本の良さだが自分が理解するにはまだ早いのかもしれない