あらすじ
春さんが、帰ってこない――。
深夜一時半。
最愛の夫の帰りを待つ三津子。無理な残業をする彼を心配する彼女の心は、決して夫には届かない。
その想いを記した日記は、やがて幻聴、幻覚、幻影、幻想に飲まれていく。そして迎える《おしまいの日》に三津子は……。
春さんは、まだ、帰ってこない――。
正気と狂気の狭間を描く、サイコホラーの傑作!
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最愛の夫の過労死を心配しすぎるあまりに、ちょっとづつ、でも確実に壊れていく専業主婦のみっちゃんのお話。
だいぶ前に読んでいて、新装幀が素敵でまた買っちゃった。秀逸。
みっちゃんの行動や思考がとんでもなくて怖いんだけど、最終的に失踪するという決断の、そこにいたる理由が、春さんが大好きだから、それを失う恐怖に耐えられないっていう。
正直、当時はイマイチ実感できなかったんだが(今も旦那では実感できないが)対象が「子ども」で、それを失うという事を考えたら、それはそれは恐ろしい。
考えるのをやめないと発狂しちゃうのはわかる。
で、思考(というか想像だね)を止められなければ、それが二倍になったら耐えられないというのは、実感を伴った。
あとがきも面白い。
時代ごとのあとがきが読めるのは良い。
携帯電話がなかったり、個人情報の緩さとか、気になる部分もあるけど、30年位前のお話なのでね、それはそういう社会だったよねって言う事で。
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新井素子さん、こう来るか。
ほぼ三津子の1人語り。
うすら寒くなるけれど、おしまいの日が絶望的に終わらないところ、紙一重でギリギリの線を保てていた三津子。
おしまいの日は、はじまりの日でもあったのかもしれない。
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わたし、新井素子さんの特徴的な文体を、モグモグ味わって、グングン読み進めた。←こんな感じの文体
主人公は専業主婦、小説が書かれたのは平成2年頃。
独身で社会人の自分にゃ遠い世界のはなしだけどそれもまたよし。と思って読み進めてたら、突如自分にとんがったナイフを突きつけられてこんなホラーある?てなった。
胸のざわつきがとれない。
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くますけといい、これをホラーというのはものすごく無理があると思いました。
ただ作者がホラーだと思って書いている節もあるのでそういう意味ではホラーなのかなと。
「82年生まれ、キムジヨン」の次に読んだからかもしれませんがどちらかというとフェミニズムという感じのような気がします。
男女がどうとかというより
社会全体が役割を押し付けて生き方を強要することへの継承だと思いました。
昔に比べて働き方改革など色々な面で改善されているのだと思いますが
この本がいまにも通じるように感じるのは
まだまだ改善の余地があるからだと信じたいです。
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こちらもリバイバルで再読。初読時はこれほどSNSのようなインタラクティブなコミュニケーションツールが発達していなかった時代なので、三津子の孤独がリアルに伝わってきた。
日記のスミ塗り部分の仕上がりは新潮版単行本のほうに軍配。どう表現するか苦心しただけある。あのページを開いたときはゾッとした。
曖昧な自他境界と極端な白黒思考が状況(病状?)を悪化させたおもな要因だと思うけどそれが生来のものなのか生活環境によるものなのか。あるいは両方か。
住民票の閲覧制度が改正されたのが2006年でこの作品の出版年度が1992年なので、そのへんはどう想定しいたのだろう。手紙は忠春に見せないことにしていたようだし、探したりはしなかったんだろうか。とはいえ(決意はどうあれ)諸々かんがみても母子ともにハッピーエンドの結末は想像しにくいので、あまり突きつめないほうがよさそう。
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くますけの隣にあり気になり購入しました。
だんだんと狂っていく主人公の日記がベースの話。なんとなく予想していた結末とは全然違った。狂っていたのは主人公なのかそれとも主人公の夫なのか、それとも社会なのか。最後まで読んでわからなくなった。まともってなんだろう。
帯に書いてあった「まともな時に読んでください」の意味がよくわかった。
2回目に読むと受け取り方が違ってきそうなのですぐに再読したい。
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散歩がてら入った本屋さんの『おすすめミステリ、ホラーコーナー』で気になって購入。
サイコホラーと紹介されていましたが、私には「純粋な愛が行きすぎてしまった物語」のように映りました。
すべてが愛情からくるもののようにも見える一方で、人によってはそうは受け取れず、私自身も不安を覚えたり、主人公の異常さを強く意識させられる場面もありました。
ラストで主人公を含めた登場人物たちの行動には、疑問を感じたり驚かされたりもしました。
それでも読み進めるうちに、主人公だけがおかしいわけではないのだとも思わされます。
物語を追うなかで、登場人物それぞれの言い分や気持ちが理解できてくる感覚があり、立場や視点によって見え方が変わるのだと、普段なら気付けないような視点を得られた気がします。
ラストはとても切なく、余韻が残り、読後もしばらく心に引っかかる作品でした。
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夫が仕事から帰るまで起きて待っている妻
私なら?
もしも専業主婦をやっていてもそんなことはしない。食べてお風呂に入って先に寝てるよ、きっと
でも
三津子さんの日記を読んでいると、おかしいと思う気持ちの片隅にはおかしくないかもという気持ちも生まれている気がするの
誰も彼もみんな少しずつ変なのさと思う
さて
三津子さんは……………
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とても強いショックを受ける作品だった。
まともなのは誰なのか、おかしいのは誰なのか。どの状態がおかしいのかまともなのか途中わからなくなった。
家庭の病理に蝕まれた生活をのぞいているみたいで面白かった。日記調で語られるところも個性的で飽きず、何より自分に合っていた。
多少気が狂った方が世の中生きやすいけど、まともに生きることから目を背けられない。絶対に道を踏み外せない。そうした強迫観念のような病に現代人も罹っているかもしれないと感じた。
Posted by ブクログ
何度目かの再読
日記の棒線消しがよりそれっぽくなっていて印刷技術の進歩はすごいなあと感心。
エピローグでどんでん返し、というよりはこうだと思っていた方向性は大体合っていて更にその底が抜けていく感じが恐ろしくて気持ちがいい。
旦那さんが好きすぎて、帰りの遅い旦那さんを心配しすぎておかしくなってしまった女の人の話、という大枠の更に外があったというか…。
みっちゃんは困った人、おかしい人という物語のつくりではあるけれど、周囲が読者が思っているより物事が見えていて更に覚悟が決まっている人物だった。
旦那の帰りが遅いのを心配する、ではなく(それもあるが)、旦那の臨終の報せに常に怯えている、怯えているがゆえに常に旦那の帰りを待たざるを得ない、とまで初読で読み込めた人はいないんじゃないだろうか。
(これが大打撃で再起不能になって後の物語が『ハッピー・バースデー』だと思う)。
日記の中のみならず、地の文でも「春さんが死んじゃう」と心配して主張しているのに忠春も久美も読者もきっとハイハイ心配性だね、と流してしまう。
実際、三津子が失踪して7年+2年後に過労死しているので忠春の享年は43歳前後、三津子の心配は正しかった。
エピローグにさらっと書いてあるけど忠春を心配して食事を胃液を血まで吐いたと。糾弾されていた「食事をしない」にはこの理由もあったのではなかろうか…。
食べたところで心配して吐いてしまう、だけど忠春といっしょに食べて同じ時間を過ごせるなら……哀しい。
おしまい、のその先を知りたいと思うのは反則だけれど、その代わりに消されて読めない下にある文章を読んでみたい。この作者ならその部分もきちんと用意している気がする。
をやめ が死 待つこともない しまえば 待 おびえな
ちらっと見せられるこれだけの文字、気になります…。
冒頭の日記が「おしまいの日」直前の日記だったり、現実に大きな出来事があると抜けがあったりということに改めて気がついた。
後半は妊娠による体調不良によるところも大きいのだろうが、忠春が今よりさらに帰りが遅くなると知った時には6日間空いているし、おそらくにゃおんとアイアンの件もこの間に起こっている。
不安を煽るアイテムとして出てくる刺繍クッション、おそらく普通サイズのものならば45*45に落穂拾いを全面刺繍して2日間で完成というのもなかなかに速いというか過集中というか…
自分用に用意したというデューラーのメランコリア・Ⅰもみっちゃんはなんだってこんな絵を…という内容の絵で調べてみて衝撃を受けた。これを刺繍するのは確かに大変そう、というか可能なのか。
にゃおんといえば、結構どんくさいのだろうか或いは春さんのためにがんばった三津子が意外に俊敏なのだろうか…とか思ったり。
そういえば7月22日の日記に、10月にいとこの結婚式があるとあったが、親族内でそこではどういう会話があったのだろう…まあ三津子の両親は欠席したかもしれないが…。三津子、というくらいだから三女か三番目の子なのかな?
エピローグは日記の文字とはフォントが違う、地の文と同じ。
日記と違ってここの部分の真偽は疑わなくていいですよ、ということかなと理解。日記にすら本当の本心は書いていないということが明かされたし
つまり三津子の本心はこのエピローグにしか無いのかもしれない。
日記にあった物騒な文字の数々は、思ってはいけないというよりも、本人の言う通りある意味「こうできたらいいな」の理想の行動だったのか。忠春を殺して、彼をもう待つこともなく、子供とだけ向き合って暮らす(日記を消したのは「おかしい」三津子なので妊娠を正しく把握していると解釈)。
エピローグを終えて失踪した三津子と子供はどこかで幸せに暮らしていた…とも素直に思えない周到なアイテム配置が凄まじい(強い風邪薬)。
自ら終わりを迎えたヒロインが想い人への想いを語る終わり方が、同作者の『緑幻想』と形は同じなのに全く違うそれでいて根底は似通っているような? 不思議な読後感であった。
Posted by ブクログ
狂気の世界。狂っている思考を日記の文体で見せられる。日記部分のフォントが、すでに不穏な雰囲気。
1992年に単行本の初版。1995年と 2012年に文庫版が出て、今年文庫の改版が発行されたので、もともとは今から30年以上も前の話!
まだ携帯電話もそこまで普及してないし、24時間戦えますか?の風潮がまだあった時代。いろいろな価値観が変わったけど、人の怖さって、変わらないなぁと思う。
依存し、執着し、自分だけの世界に閉じこもり、どんどん狂っていく主人公。でもたしかに、狂っているのはこの主人公だけだったのか……?
絶対に自分の中にないとは言い切れない狂気の一端を、ここに見た。
Posted by ブクログ
おしまいの日は、三津子の日記から始まる。
仕事人間である夫、忠春が帰ってこない。
ご飯を作り、春さんが帰ってくるまで食事も取らず寝もしないで待っている三津子。
そんな寂しい生活の中に、にゃおんという猫が三津子の元にやってくる。
三津子の友人である久美、その夫の俊幸。
二人の介入も虚しく、三津子はおしまいの日へと近づいていく。
日記と手紙の黒塗りの部分。
なんとかして読めないのかな…。
それを公開したバージョンも発売してほしい。
何がおかしいのか、誰がおかしいのか、最後の最後で疑問が生まれてしまったな。
本当におかしい人は、自分がおかしいって気づけないはずだし、でもやっぱり三津子もおかしいんだろうし。
夢だと思ってたあの出来事が、本当に起こったことなんだろうな。三津子は忘れられて良かったね。
Posted by ブクログ
あらすじにサイコホラーと書いてあったけど、ホラー要素は微塵もない。と私は思う。
旦那が好きすぎて、元の性格もあって病的なまでに旦那に尽くす三津子は、読者からするとイラッとくる時もある。
でも最後に三津子の手紙を読むと、確かに精神を病んではいたけど、でも真っ当なことを言っているような気がしてくる。
あんなに忙しい旦那じゃなければ、きっと幸せな生活だったのかもしれないと思うと、ちょっと哀れ。
「おしまいの日」には一体何が起こるのだろうとドキドキしていましたが、その点はでは期待ハズレ。でも面白かったです。
Posted by ブクログ
新井素子の本は、高校生のころに『チグリスとユーフラテス』を読んで以来。そのときも苦手な文体だなと思ったのを、これ読んで思い出した。苦手な文体です。話はまあまあ。
Posted by ブクログ
とにかく気持ちの悪い後味が残る作品だった。
新井素子むかし読んだ記憶はあったけどなんとなく、じわじわと、啓示されているような、そんな気持ち悪さがあった。
人間が狂うのを読むのは好きだが狂わされているのはこっちなのでは?と思う感覚。
日記の持ち主、三津子の精神がおかしくなっていくところから何が本当で何が幻なのか何が何だかわからなくなってその“わからない”はわからないまま終わってしまった。
これを読んでこう感じろという名目がないことが本の良さだが自分が理解するにはまだ早いのかもしれない