あらすじ
「本」が禁じられた世界、焚書官モンターグの仕事は、本を見つけて焼き払うことだった。人々は超小型ラジオや大画面テレビに支配され、本なしで満足に暮らしていたのだ。だが、ふと本を手にしたことから、モンターグの人生は大きく変わっていく……現代文明に対する鋭い批評を秘めた不朽の名作。
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Posted by ブクログ
この本を知ったきっかけはヨルシカの451から。
動機はタイトルがかっこよくて印象深かったのと、単純に興味だったが読んでいて主人公のモンターグに感情移入してしまった。
物語がどこに向かっていくのかの展開が読めずとても面白かった。
何より現代社会を見透かされているかのような発言は的を得ていてすごいと感じた。
死ぬまでに何か残したいなと思った。
Posted by ブクログ
「世の中に本がなくても困らない」「本を読まなくても平気」な人がいる(このサイトにはいないだろうけど)。そういう人だって情報はないと困るし、ネットニュースやSNSやTVなどで収集しているだろう。この小説で書かれる「書物」と「TV」は情報を得る媒体として何が違うのだろうか? 一つは読書という行為は受け身の人には敷居が高いということにあるのかも。ネットやTVは受け身でも何とかなるが、読書は受け手が何らかの「問い」を持たない限り、行為が発動しないという不親切さがあるのだと思う。この作品で燃やされる書物は、人間の「問い」の直喩であり、その背景にある「知性」のことだと締めくくられている。読む前はもっとシニカルでアイロニカルな文明批評なのかと思いきや、かなり作者の危機感や怒りが率直に感じられて意外だった。ちなみにこの作品で人間を無思考状態に陥らす「壁テレビ」は、従来のテレビではまだ生ぬるかったが、ほぼほぼ今のスマホで代替可能になった。スマホはTVと違って10時間を超える利用も可能。「考えるための余暇」も確実に奪い得るのだから。
Posted by ブクログ
昔のSF小説を読むと、人間社会の行く末を的確に予見した知性の働きに驚く。
本が禁止された世界で、焚書官モンターグの仕事は、本を焼き払うこと。人々は本を読み、物事の本質を捉えることをやめてしまい、物事を考えるいとまを持つこともなく、「幸せ」に暮らしている。
しかし、その世界には戦争が迫っている。テレビやラジオは戦争のことを語らず、のんきな人々は「戦争は誰か他の人が死ぬもの」と思い込んでいる。
実は、この世界では、初めに焚書官がいたのではなく、初めには本を読まなくなった人々がいた。
それから、本を忌み嫌う政権が生まれ、人々が惑わされないようにと本を選び禁止していった。
これは2000年代からの日本の話でしょうか。
本を読まなくなった人々。知性を忌み嫌う政権。
互いを監視し合う自粛警察。溢れる音楽と動画配信。暇や空白の時間を無くし、汲々と効率の良い生活を求め。私たちはせっせとディストピアを自らの手で建設しているように思えてなりません。
Posted by ブクログ
「ご存知かな?書物はすべて、ナツメグのように、異国から招来される香料のにおいがします。わしは子供のとき、書籍のにおいを嗅ぐのが大好きだった....」(p.165) ※この一文、自分がナツメグ好きなこともあって、ドンピシャに刺さった。
ディストピア小説で名高いだけあって、文句なしに面白かった!唯々諾々と受動的に生きてきた主人公が、ある少女との何気ない出会いで認識が一変し、自分の正気を保つために行動し...という話。自分が正気=世界が正気ではない、世界が正気=自分は狂気、という0か100かというとんでもない緊張を突きつけられ、人と出会い、一歩を踏み出していく、希望はあるエンディングだった。自分はちっぽけであることを忘れず(「書物のほこりよけのカバーみたいなもの、それ以上、何の意味ももってはおらん」p.307)、自分の中にある疑問や正義を問い続け、他者と協力していくこと、ディストピアに至らないようにというブラッドベリから警句だろうか。
我々の社会に欠けている、(書物はきっかけとなる)本質、閑暇、正しい行動、と言われた時に、今この私がいる社会は既にこの焚書の社会の一形態に突入しているというのが突きつけられる。とすれば、先程の0か100か問題も自分に向かってくるのである...
Posted by ブクログ
集中力がいる作品だが、今年一ワクワクして面白かった。
思想の統一 が焚書という非現実的な設定でまとめられているが、遠い未来こうしたことが起こらなくもないかもと思えた。
ネットで情報が拡散される今の世の中を舞台とした物語も読んでみたい。
映画版も観ようと思う。
Posted by ブクログ
本が禁止となった世界で本を燃やす仕事をしている主人公が自らの仕事に疑問を抱き始める。
現代のスマートフォンのようなものに人々は夢中であり娯楽はあるが空虚なディストピア的世界観。
Posted by ブクログ
この作品が六十年も前に書かれたことがまず驚き。
作品内で描かれている書物、テレビ、広告、ラジオ、選挙などと人間との関係性は、現代において全てフィクションとは言いきれないほどにリアリティーがある。娯楽の洪水に溺れて"考える"ことをやめてしまうのは簡単で楽だけど、本当にそれでいいのか。携帯やパソコンなしでは生活できない自分に、遠い昔から作者が問いかけてきたようだ。
Posted by ブクログ
本の所持が禁止された世界を舞台に、見つかった本を焼き払う”焚書官”の仕事をするモンターグの姿を描いたディストピアSF。
以前NHKの「クローズアップ現代」で読書について取り上げられているのを見ました。その番組の中の実験で普段読書をする学生としない学生でレポート課題に取り組む際どのような違いが見られるか、ということが実験されていたのですが、それがこの本の内容とシンクロしているような気がします。
モンターグはふとしたきっかけから衝動的に一冊の本を持ち帰り、その本を読み自分の仕事に疑問を持ち始め元大学教授のフェイバーに話を聞きにいきます。
フェイバーが語る書籍のない社会に欠けているもの。一つはものの本質をつかむ力。二つ目はその本質を消化する閑暇。そして三つ目が先の二つから学び取ったものを基礎において行動する力だそうです。
本が禁止された世界は、この小説の中ではこんな風に書かれています。
まず重要な役割を演じているのはテレビです。テレビは映像や音響の力で人間の想像力を縛ります。
また徹底したカットや編集、あらすじや概要だけを伝える省略化によって、視聴者にその番組の細かいところを想像させないようにし、また次の番組に移るという情報の意味を考えさせない工夫がされています。
また余暇はスポーツを徹底させて組織論を身体に覚えこませ、また身体を動かすことでふと物思いにふける時間を取らせないようにしています。
こんな世界だからこそ、人々は何も考えず与えられた情報をただ消費するだけになってしまい結果的に支配しやすくなるというわけです。
そして自分がNHKの番組とシンクロしていると感じたのはフェイバーが語る3つ目の理由。学び取ったものを基礎において行動する力です。
NHKの読書をする学生としない学生のレポート課題の取り組み方を調べる実験によって明らかになった違い。前者はネットで調べた後、本からさらに課題について知識を得、独自の観点を見つけそこから自分の意見を展開していったことに対し、
後者はネットで調べた多様なテーマをコピー貼り付けし、最終的にその多様なテーマを意見や考察に結びつけることなく簡単に数行で終わらせてしまう結果に終わったそうです。
こうしたところに学び取ったものを基礎において行動する力の限界が見えたように思いました。
ネットやSNSで簡略化された情報が次々と現れては消えていくようになった現代において、60年以上前に書かれたこの小説は今もなお警鐘を鳴らし続けているように思います。
警句的な意味でも名作ですが、ところどころに見られるブラッドベリらしい詩的なイメージや文章もさすが、と思いました。
そして徐々に本の重要性を知っていき、本を守るために命を懸けるモンターグの姿は本好きとして応援せずにいられなくなりました。そういう意味でとても共感しやすかったと思います。
Posted by ブクログ
書籍を持つことが禁じられた世界。書籍の一切を焼き払う「焚書官」という仕事に就くモンバーグは、近所に越してきた不思議な少女クラリスと出会い、また書籍とともに命を落とす老婆の存在を目の当たりにし、本を忌むこの世界に疑問を持ち始める。
思考すること・物事に疑問を持つことの重要性、思考の時間を奪われることの恐怖と弊害、さらには人間らしさとは何かを問う作品だと思う。
耳にはめた超小型ラジオや大画面テレビから、引っ切り無しに流れてくる情報の海。書籍から知識や思想を学び感じ取ることを禁じられ、物思いにふける時間すら悪とされる。
徹底的に思考を管理された世界は、確かに人と衝突することなく一見平和かもしれない。けれど刹那的で自身の意志を持たない「生」は、はたして「生きている」と言えるのか。
モンバーグの声に耳を貸そうとせずこの世界の規則に則ろうとする妻ミルドレッド、本に精通し知識にも長けながら本を真っ向から全否定する上司ビーティ、裏で本を肯定し冷静にモンバーグの想いに添う元大学教授フェイバーなど、モンバーグはそれぞれの意見に耳を傾け、自身の考えと立場に悩んでいく。
ある禁忌を犯してしまったモンバーグに降りかかる災難は、先が読めず一気読み必須です。
インターネットやスマートフォンが急速に普及し、溢れんばかりの膨大な情報が簡単に手に入る昨今。流れるように頭を駆け抜けていく情報にひとつひとつ向き合い、深く掘り下げる人はそう多くないはず。電車や歩道でスマートフォンに釘付けになっている人々の姿は、大画面テレビに没頭する妻ミルドレッドと重なる。
SFは苦手と読むのを後回しにしていたが、さすが巨匠ブラッド・ベリ、その中身は普遍的です。この作品のぞっとする怖さは現代に通じます。
~memo~
第一に大切なのは、われわれの知識がものの本質をつかむこと。
第二には、それを消化するだけの閑暇をもつこと。
第三には、最初の両者の相互作用から学び取ったものに基礎をおいて、正しい行動に出ることである。
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「火の色は愉しかった」
この冒頭の一文に惹かれ、一気に読みました。自分から何も考えずただ刺激的な快楽を受け取るだけの未来は、もう現在のことになっている。壁一面のテレビはスマートフォンに、テレビ中の「家族たち」はSNSの繋がりに姿を変えて。
Posted by ブクログ
米国のSF・幻想文学作家のレイ・ブラッドベリによる1953年発表の作品。
ジョージ・オーウェルの『1984年』などと並び、代表的なディストピア小説のひとつと言われる。ディストピア小説とは、SFなどで空想的な未来として、理想郷(=ユートピア)の正反対の社会(=ディストピア)を描いた小説で、その内容は政治的・社会的な様々な課題を背景としている場合が多い。
華氏451度とは、摂氏では233度にあたり、紙が自然発火する温度というが、本作品は本の所有や読書が禁じられた近未来の物語である。
主人公は「焚書官」として、人類の叡智の結晶である本を焼き尽くす仕事をしているが、その一方で人々は超小型ラジオや家の大型テレビで絶え間なく娯楽を提供されている。彼らが生きている社会では、ホイットマンもフォークナーも聖書も禁書とされ、人々は権力者の都合のいい刹那的な娯楽により飼いならされ、自ら考えることを自然に奪い取られている。
主人公は、その後、謎の少女クラリス、元大学教授フェイバーと知り合い、自分の仕事に疑問を持つようになり、書物の重要性に目覚めて、自分の上官を焼き殺して逃走する。そして、最後に、書物を自分の頭に焼き付けて未来へ伝承しようとしている老人の一団に出会う。
現代の世の中は(少なくとも日本は)、体制側の明示的な意図によって、個々人が自らの考える材料や機会を制限されることは殆どない。しかし、TVをつければ大多数のチャンネルでお笑い番組が流れ、ネットを見れば多くの人がアクセスしたサイトや、過去の自分のアクセス・購入履歴に基づいたサイトが自動的に表示される。。。体制側の焚書官がわざわざ書物を焼かなくても、自らが考えることを放棄するような状況を作り出しているのではあるまいか。。。
まさに現代において考えるべき、重いテーマを扱った作品である。
(2013年1月了)
Posted by ブクログ
ベンジャミンフランクリンの名前が出てきたから、某国で本当にあった話かと思って、いろんな歴史資料調べてしまった。そもそも「焚書」って言葉が存在すること自体なまなましい。。
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華氏451度とは摂氏233度で紙が燃え始める温度。
この物語の主役は昇火士(ファイアマン)ガイ・モンターグ。彼の仕事は政府が禁止した書物を発見し次第焼きつくすこと。しかし、彼は風変わりな少女との出会いや、本とともに自爆してしまう老女を目撃することで、禁止された本の中には何があるのか興味を持ち始め、こっそり本を集めるようになり、ひいては社会のゆがみを認知するに至る。
焚書が公然と行われる世界、というとどんな強権的な政府があるのかと想像するが、この作品世界の興味深いところは、民衆が自ら本のない世界を選んだことになっている点だ。禁止された本の中には聖書すら含まれているのだが、人の心を思索へ向かわせるもの、目に映る世界の下にもうひとつ、想像力を駆使することでしかたどりつけない世界の存在を示唆するものは、精神的な不快感を与えるという理由で世の中からどんどん排除されていった。詩の朗読によって引き起こされる心のふるえさえも不快感に含まれるというのだ。
結果として残されたのはラジオやテレビによる、人畜無害なドラマ(モンターグによれば、何か言葉はしゃべっているが内容は何もない)や、これまた意味のない音と光の刺激だけ。心のふるえを引き起こすような類の本は見つかり次第すぐに焼却。
1953年に出版されたこの本が想定した「近未来」は焚書のエピソードさえのぞけば、現実のものになりつつある。実際、世の中から本を消そうと思ったら、あるいは目の付かない場所へ追いやろうとするのは難しいことではない。ただ読まなければいいのだ。誰にも読まれない本はすぐに消える。
本が消え去りつつある世界はどうにもおかしい、と気づいたモンターグは、行動に移る。本を隠し持っているとおぼしき老教授に連絡を取り、彼の手助けを得て逃亡し、逃亡先で出版を試みるところまで話は進む。しかし、モンターグはすでに危険人物として上司にマークされており、たちまち追われる身となる。彼は身一つでとにかく逃げた。警察犬ロボットの追跡をまぬがれるため、河(ミシシッピ川)にとびこみ、流れ着いた先で本を記憶する人々に拾われ、彼らと行動をともにするようになったが、その矢先、モンターグが脱出して来た町は戦争のために爆撃されてしまう。
火で本(文化)を焼く仕事をしていたモンターグが目覚めた結果、河(水)に救われ、彼が捨ててきた虚妄の町が戦火で焼き尽くされるところが非常に象徴的で味わい深い。
Posted by ブクログ
焚書官ガイ・モンターグは密告をうけて本を焼くことを仕事としていた。ある日、隣に住むクラリスという少女と話をする。そこで問いかけられる。「あんた、幸福なの?」と。それ以降、身の回りの出来事に違和感を感じ始める。テレビに夢中になる妻、本のために自殺する老女、現状を肯定し知性を批判する上司、そして戦争に向かいつつある世界。
老女のもとから本を一冊だけ持ちだしたモンターグは元大学教授フェイバーに会いに行く。フェイバーは過去、政府による焚書に至る経緯におもてだって反対しなかった。結果、現在の状況を激しく後悔していた。そこで、モンターグに協力し焚書係の力を削ぎ、ほんの印刷を始めることに協力することにした。しかし、モンターグは妻や知人に自分が本を持っていることを明かしてしまう。その結果、妻の密告をうけて同僚に本を焼かれてしまう。
自宅の焚書の現場で上司のビーティ署長を焼き殺し、逃亡したモンターグはフェイバーから聞いていた浮浪者グループのもとに向かう。彼らは元大学教授などで、政府の方針に逆らう人たちだった。その頃、遂に戦争が始まり街にいた人たちの多くは死んでしまう。そしてモンターグらのグループは自分の知識をこれからの社会に役立てようと乗り出していく。
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華氏451度!摂氏だと233度!!あっつ!!!
冗談はさておき、焚書もビビるがそれ以上に部屋の3方向をスクリーンに覆われた部屋とか海の貝の方が数倍ビビった。「破壊の恐怖」より「無知の恐怖」。しかもこれ、認めたくないが現在進行形だろうし、現に今イヤホンを耳に突っ込んでPCに収められたお気に入りの音楽を聴きながらネサフしてる私はすでにブラッドベリ・ワールドの住人なのでは(強制終了)
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本の所持が禁止された世の中で、後世に本の内容を伝えていくために人々がとった方法に感動。ちなみに華氏451度ってのは紙が燃え始める温度だそうです。
Posted by ブクログ
本を読むのはもちろん、持っているだけでもダメ、本があるのが見つかったら全て焼かれてしまう、そんな世界を描いたディストピアもの。
ジョージオーウェルの「一九八四年」も同じような世界観だが、読者の掴み方はブラッドベリの方が上では、と思うぐらい一気に引き込まれる。
今のネット社会からすると、禁書の世界はあまり共感できる世界観ではないかもしれない、本好き以外は。
本を焼く側の主人公が本の素晴らしさを知り、追われる身になり、迷う、これにドキドキさせられながら、主人公に気持ちに入り込んでいく。
感情のなかったところに感情が芽生えていく様に心動かされたからだろう。
ただ少し残念だったのは、ラストの展開がグダグダだったなぁ。
もうちょっとスッキリしてれば。
Posted by ブクログ
この手の名作がいつだってそうであるように、この本は数十年前に出版された昔の本にもかかわらず提起される警鐘は今でも通用する。「本」が許されない世界。本作では、本が消されていた理由は、思考を促すため。本は政権に、社会に、歴史に、批判的な思考を促してきた。現代社会を映すように「」に入る単語を変えるのであればなんだろうか。独裁政権では分かりやすい。「」に入るのは情報。インターネットが普及した現在では本が担ってきた役割がインターネットによって一部置換されている。そのインターネットが運ぶ情報の内、独裁政権では都合の悪い部分を検閲している。民主主義社会はどうだろうか。あからさまな検閲はないにせよ、現代では逆にSNSのショート動画に依存させる事で、思考を促す力が奪われているような気がする。この本が繰り出すディストピアは決して身から離れた遠い世界の話ではない。自覚を持っていきたい。
Posted by ブクログ
アメリカの作家「レイ・ブラッドベリ」の長篇SF作品『華氏451度(原題:Fahrenheit 451)』を読みました。
ここのところSF作品が続いていますね。
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焚書官「モンターグ」の仕事は、世界が禁じている“本”を見つけて焼き払うことだった。
本は忌むべき禁制品とされていたのだ。
人々は耳にはめた超小型ラジオや大画面テレビを通して与えられるものを無条件に受けいれ、本なしで満足に暮らしていた。
だが、ふとした拍子に本を手にしたことから、「モンターグ」の人生は大きく変わってゆく―SFの抒情詩人が、持てるかぎりの感受性と叡智をこめて現代文明を諷刺した不朽の名作。
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1953年(昭和28年)に発表され、1966年(昭和41年)に「フランソワ・トリュフォー監督」によって『華氏451』として映画化された作品、、、
本の所持や読書が禁じられた、架空の社会における人間模様が描かれており、タイトルは(本の素材である)紙が燃え始める温度(華氏451度≒摂氏233度)を意味しているそうです。
■第一部 炉床と火トカゲ
■第二部 ふるいと砂
■第三部 火はあかるく燃えて
■解説 佐野眞一
舞台は、情報が全て超小型ラジオや大画面テレビによる画像や音声などの感覚的なものばかりの社会… そこでは本の所持が禁止されており、発見された場合はただちにファイアマン(焚書官)と呼ばれる機関が出動して焼却し、所有者は逮捕されることになっていた、、、
(表向きの)理由は、本によって有害な情報が善良な市民にもたらされ、社会の秩序と安寧が損なわれることを防ぐためだとされていた… 密告が奨励され、市民が相互監視する社会が形成され、表面上は穏やかな社会が築かれていた。
だがその結果、人々は思考力と記憶力を失い、わずか数年前のできごとさえ曖昧な形でしか覚えることができない愚民になっていた… そのファイアマンの一人である「ガイ・モンターグ」は、当初は模範的な隊員だったが、ある日「クラリス」という女性と知り合い、彼女との交友を通じて、それまでの自分の所業に疑問を感じ始めた、、、
「ガイ」は仕事の現場で拾った数々の本を読み始め、社会への疑問が高まっていく… そして、「ガイ」は追われる身となっていく……。
SNSや動画配信サービスにより過去の文化が破壊されつつある現代文明を予見していたような作品でしたね… これが70年近く前に描かれた作品なんですからねー 驚きです、、、
活字が、本が、スマホにより駆逐されつつある社会に警笛を鳴らす作品ですね… 現代文明に対する鋭い批評を秘めた名作でした。
以下、主な登場人物です。
「ガイ・モンターグ」
主人公。焚書の仕事をしているファイアマン(焚書官)
「クラリス・マックルラン」
モンターグ家の隣に引っ越してきた少女。17歳
「ミルドレッド」
モンターグの妻
「ビーティ」
モンターグの上司で署長。
「フェイバー」
元カレッジの英語教師の老教授
「老女」
本を隠し持っていたため、隣人の密告により処罰対象となる
「ストーンマン」
モンターグの同僚のファイアマン
「ブラック」
モンターグの同僚のファイアマン
「フェルプス夫人」
ミルドレッドの友人
「ボウルズ夫人」
ミルドレッドの友人
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ALTER EGOのエスが勧めてくれたので読んでみた。
本が禁止され焚書される世界の話で、紙の発火温度がタイトルになっていることにセンスを感じて読み始めた。
正直物語は面白くない。描写が詩的で仰々しいため進むのが遅い。350ページ近くあるが短編小説でも消化できるほどの物語しかない。しかも最後は戦争がすべてリセットしてぶん投げエンド。
ただ問題提起は凄まじく正しい。現在の人々の殆どが直面している課題に直撃している。
受動的にダラダラとインプットされる情報、思考する暇のない絶え間ない情報とそれに対する中毒、人生において死ぬまでにすべきこととはなにか。
まさしく今私がどうにかすべきと思っていた課題であり、その解決策として本を読むことと記録を付けることが提案されている。
私はまずは読書を始め、簡単なアウトプットを行うこととする。
Posted by ブクログ
本を読むことを禁じられた近未来の世界。本を燃やすのが仕事の主人公が小型ラジオ、大型テレビによって深く考えることをしない市民を飼い慣らす社会に疑問を持ち始める。近未来といいつつもう現代社会に起こっていることだと思う。
Posted by ブクログ
本が禁じられた近未来の世界の話。
その世界では、本は焚書官によって焼かれるのです。
「焚書」なんて言葉は、
中国・秦の時代に行われた焚書坑儒を習ったとき以来に
目にしました。
解説によれば、
華氏451度は摂氏233度にあたり、
紙が自然発火する温度だそう。
ある意味、主人公ガイ・モンターグの中で
何かが自然発火することの暗喩のようにも読めたりしそうです。
主人公モンターグは焚書官であり、
本を焼く仕事をしているのですが、
ひょんなきっかけでそれまで見えていた世界がぐらつくんですね。
そして痛みを伴いながら、
個人のあたまのパラダイムがシフトしていく。
そして、あるとき、本を手にしたことで人生が変わっていきます。
本を禁じられた世界で生きている普通の人びとは、
スピード狂で、テレビ狂で、空虚な日常を送っています。
それまるで、この小説が書かれた50年以上前の時代から、
現代を風刺しているかのようでもあります。
本が無いという極端な設定にしたことで、
本があることのメリットがわかるようになっています。
また、本のメリットが意味すること、
たとえば、暇ってものが大事だよ、という問いかけがありました。
ここでの、「暇」は「退屈」とくっつかない「暇」のことです。
考える時間、感じる時間、
いやいや、ぼーっとする時間でもいいでしょう、
それはそれで創造性につながりますから。
そういった「暇」を、
現代の騒がしさやスピードが隅に追いやろうとしている。
そんな時代の相のスケッチのように読めました。
文章は、きっと地の文章が英語的すぎて
翻訳しにくい箇所があるのだと思いました。
ごつごつしていて、読みにくさもありますが、
勢いと、強いイメージに基づいて書かれていますから、
ぐいぐい引っ張っていく、言葉にする以前のパワーがあります。
聖書が引用されていたり、
いろいろな著述を残した偉人達の名前や引用があったりしました。
そういうところ、情報小説としての要素を満たしてもいるんですよね。
僕は書き方を学ぼうとしても読んでいますから、
そういうところ、なるほどなあ、力入れてるなあと感じました。
Posted by ブクログ
1953年作品。本の中に50年前のV2ロケットの映画・・・という文章があるところを見ると、舞台はほぼ今の時代ということになる。
著者が想像した現在の姿は、海の貝と呼ばれるイヤホン型ラジオを常時耳にさし(ウォークマン?)、低俗なテレビに一日中見入り、若者は面白くないことがあるとスピードに酔いしれ(暴走族?)、無意味な殺人を行う。見事なほどの現在のカリカチュアである。
その世界を舞台に進められる話は、最初は面白い。しかし、後半になるにつれやや冗長で、時代の古さを感じさせる。また、SF詩人ブラッドベリ特有の文章が鼻についてくる。長篇ではなく、中篇レベルにすればもっと迫力が出るのにとおもえた
Posted by ブクログ
ぞっとした。
政府によって本の所持が禁止され、イヤホンから流される放送と壁一面のテレビと『家族』に夢中にさせられて、考える時間を奪われた人たち。
今、現実の世界で私たちは、自ら読書を避け、インターネットやスマートフォンの世界やゲームにのめり込み、自ら考える時間を放棄している。
ほんと怖いです。
Posted by ブクログ
本を見つけたら焼く仕事をする焚書官のモンターグ。消防士の格好でホースから火を吹かせるのだ。不思議な少女との出会いから、本を焼く為に出動した先での老婆の自殺からモンターグは始めて自分や妻の事を考えるようになって…
無知を生産する世の中で、知識人は頭の中に本の内容を暗記するようになり、人々に伝えていく決意をするラスト。本は物事の本質を知る手段であり知的好奇心を満足させるものでもある。自分は無知だと気付く事が大事だ。
Posted by ブクログ
西尾維新『恋物語』の新聞全面広告から。『ひたぎサラマンダー』の「サラマンダー」のわけも読んでみて分かった。しかしガハラさんの言う通りこれをボーイミーツガールとは読めない。クラリスは凄く好きになっただけに出番が序盤だけだったのが残念。
焚書について扱った小説。『1984年』、『沈黙の春』とかと同じ系統になるのか。1950年代から見た未来で現在だと違和感があるところも。管理体制が甘さが現代からみると考えにくい。車の延長線上の高速マシンはあるが、監視カメラがまったくない。携帯のような端末もなくラジオがポータブル化したものがあるだけ。これは作者の予想が間違っていることを指摘するものではなく現実における社会の変化の激しさに驚くもの。今から50年後の未来も想像とは全然違ったものになっているだろうし。
舞台となっている場所が地理的にアメリカなのは分かるが政府の存在が薄い。また戦争をしている相手もよくわからない、解説では内戦と書かれていたが詳しい説明は無かった。西暦にすると何年になるのかも分からない。
焚書の対象がほぼすべての本というのも謎。特定の思想や民族に関する本だけというのなら歴史上あったことがだ無差別に全てが禁止ということはあり得るだろうか。学校は映像教育のようで本を書くことも禁止。そうなると高い文化レベルを維持しているのがなぜかという疑問が出てくる。
実体のない映像を写し人々を骨抜きにする作中の「テレビ」は現代のテレビやゲームに当てはまるところがある。それを見ているときは楽しいが裏返すと考える時間を奪われ現状に満足してしまう。本を読む大切さは現代においてますます増していると思う。
最後に、文の中に現実と夢の区別が付きにくかったりして読みにくい個所があった。また訳が変にひらがなが多いのも気になった。