あらすじ
3200円という高値ながら13万部以上売上げた伝説的名著「確率思考の戦略論 USJでも実証された数学マーケティングの力」の第2弾。
前作では、事業を立ち上げる前に「需要予測」を行うこと=「確率思考」の重要性が説かれたが、今回のテーマはまさに本丸というべき、「売上の増やし方」=「選ばれる確率の増やし方」である。
なぜヒットは生まれるのか?
意図的にヒットを仕掛けるにはどうしたらいいのか?
その秘密を理詰めでわかりやすく解説する。
西武園ゆうえんち、ネスタリゾート神戸、丸亀製麺、ニップン、高血圧イーメディカル等、刀が取り組んできた多くの実例を紹介。取り組んだ案件は絶対に失敗しない刀の強さの本質を明かす。
コトラーの「ターゲット理論」を数学的に論破するなど話題性も十分。
特に本書で重視されるのは「コンセプト」を立てることの重要性。これが成功の最大のカギを握ることを熱く語る。
理系読者が読んで唸る高度な内容ながら、文系読者が読んでも大枠を理解できるわかりやすさ。
新しい時代の「マーケティングの教科書」である。
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Posted by ブクログ
自社ブランドが選ばれる確率をどうやって増やすのか!? その最大の鍵となるのは「コンセプト」です。その「コンセプト」は、どうやってつくればいいのだろう!? この本は、その問いにわかりやすく応えるための書籍です。事業の大小にかかわらず、あらゆる商売を成功に導く決定的なノウハウです。新たな知見を得ることで自らをパワーアップしたい人は、ぜひこの本を読んでください。きっと、これまでのビジネスが、昨日までとは違う明るい景色に変わるはずです。
■メロンパンの悲劇
ある週末の話しです。太りやすい体質の私が、各週に一度と決めて楽しみにしている炭水化物の解禁日のことです。御夫婦で経営されている関西の小さなパン屋さんで、目の前に並ぶ400kcal超級のまぶしい強敵たちと私は楽しくにらめっこしていました……。チョコがびっちり詰まったこのコロネルにしようか!? それともクッキー生地に工夫を凝らした新商品チョコチップ・メロンパンにしようか!?〝サックリ〟と〝もっちり〟のツンデレがたまらないっクロワッサンにしようか!? おっさんの目が最高潮にキラキラしていたそのときです。
それは小さな乾いた声でしたが、確かな重さで私の耳をとらえました。奥からご主人のつぶやきが聞こえたのです。
「どうしたらもっと売れるんやろ……」
めくるめく〝炭水化物ファンタジー〟で浮かれていた私の頭は、ガランガランと一瞬で現実へと切り替わりました……。私が感じたのは、圧し掛かる固定費の重み、上がっていく小麦や乳製品など原材料の重み、そして毎日3時起きで積み上げてきた御夫婦の何十年もの努力の重み……。私は思わずコロネルとメロンパンの両方をトレイに入れ、さらにクロワッサン6つも加えてお会計に。しかし1消費者としてささやかに売上に貢献するよりも、自分にはなすべきことがあるように思ったのです。
私は知っているのです。どうすればこの店がもっと人に選んでもらえるようになるのかを……。実は、もっと人に選んでもらうためにやるべきことの核心は、個人事業だろうが大企業だろうが、経営規模の大小にかかわらず、まったく同じです。
それは強い「コンセプト」をつくること。このパン屋さんは、パン生地を練るよりも前に、コンセプトをもっとしっかり練らないといけません! それをちゃんとやれば、来客数も売上も大きく飛躍します。そのやり方の上達につれて願いは確実に叶っていくのです。間違いありません。なぜなら、人に選んでもらうための最大の〝変数〟が「コンセプト」だからです。
ちなみにこの場合は、最初にお店の屋号、つまり〝ブランド〟のコンセプトを、消費者に選ばれやすいように設計しなければなりません。お店を選んでもらえないなら、そのチョコチップ・メロンパンに出会う確率はゼロだからです。このパン屋さんのように、ブランド・コンセプトの不明確さを放置しながら、新商品開発ばかりに力を入れているお店は多いものです。しかし屋号であるブランドを強化しないとお店は増えません。いくら工夫して新商品を並べたところで、同じ店の同じ財布の中だけの食い合いに終わります。残念ながら、そのメロンパンの悲劇は出す前から確定しています。この残酷な世界では、努力が報われるのではなく、正しい努力だけが報われるのです。
コンセプトが弱いせいで努力が報われないのは、このパン屋さんだけではありません。商品がもっと売れてほしい! 店にもっと多くの人が来てほしい! フォロワー数をもっと伸ばしたい! チャンネル登録者数をもっと伸ばしたい! この日本には、そんな切実な願いをもちながら努力を積み重ねてまだ報われない人がたくさんいます。
ビジネスが上手く行かない原因の大半は、実はコンセプトが間違っている場合が一番多いのです。ブランドのコンセプトが明確でなければ、顔がないのと同じ。価値は伝わりませんし、覚えてすらもらえません。人間でも同じです。印象が薄い人は、名前を覚えることすら難しいでしょう。
何事においても本質というものは実にシンプルな顔をしていると、笑われはいつもそう思います。要するに「プレファレンス」こそが、この世界の市場構造を決定しているDNAだったのです。だから、すべての経営資源をより良くプレファレンスの向上に集中できる構造にもっていくことが経営であり、我々はそれが他社よりも相対的にどれだけより良くできるかどうかの「ゲーム」にエントリーしていたのです。
このゲームに勝つためには消費者視点で考えることが何よりも大切。技術志向や誰かの思いつきに左右されやすいHOWからではなく、必ずWHATの組み合わせでプレファレンスのポテンシャルが決まってしまうからです。できるだけ大きなWHOにその強いWHATを届ける手段として、ようやく最後にHOW(プロダクト開発、広告宣伝など)を考え始めるのだと。
我々が機会あるごとにそうやって一貫してお伝えしてきたことは、企業が経営資源をプレファレンスに集中させるためのフレームワークに他ならないのです。
自分のやりたいようにやるのは「趣味」であって、もはやビジネスではありません。ビジネスとは事業として持続させるために消費者や顧客のためにやるものです。自分のやりたいことだけで頭を一杯にせずに、そのアイデアを投げ込む市場の「構造」をちゃんと読み解かねば、成功する確率を上げることはできないのです。勝てない戦いは避けて、できるだけ勝てる戦いを探す。あるいは一見して勝てなさそうな戦いでも、何の条件をどう克服すれば勝てるのかを、まずは落ち着いて考えるべきです。
このジビエはたとえ話ですが、多くの企業やマーケターも似たような間違いを犯していないでしょうか? 無意識のうちに「ジビエを売る」ことが、なぜか所与の条件、あるいは目的化してしまっているのです。この根本に通底する素人的な発想こそが、自分が売りたいモノから考え、考えやすいプロダクトから発想する「HOW思考」です。悪意はないことはわかっていますが、その思考には自覚もありません。これは極めて〝独善的〟なので〝確率の神様〟は失敗という罰を与えてきます。正しくは、誰を幸福にするのか(WHO)、何を解決して幸福にするのか(WHAT)の順番で考えるのが先で、便益を満たす方法論に過ぎないプロダクト(HOWの1つ:どのように幸福にするのか)を考えるのはその後です。
しかしながら、私が今までのいくつもの著作の中で何度も指摘させていただいたように、製造業はもちろん、世の中にはプロダクト開発がマーケティング機能のコントロール下に入っていない企業で溢れています。技術開発の延長線上や製品開発部が企画した「所与の条件」に縛られるところから発想し、多くの人々が「ジビエ」を売ることへの疑問すら議論できずに、消費者価値からズレた仕事を毎日しています。そんな企業が多い日本経済は、凋落していてむしろ当たり前なのです。
読者の皆さんにも立場や場面は違っても、似たような状況に追い込まれたことはありませんか? やることだらけで何から手をつけて良いかわからない状態……。そんなときは、油断していると、まるで壮絶な〝ゴミ屋敷〟にポツンと1人で佇むような無力感に吞まれてしまいますよね。
しかし、私は、たとえゴミ屋敷にポツンと1人で向き合っても、「構造」をより良く知るための調査や分析はしますが、目に見えるものから手足を動かしてとりあえず片づけ始める……なんてことは決してしないのです。
なぜならば、問題というものは、最初にどう定義するかによって、解決できるか否かの確率が大きく変わるからです。そのためには、目に見える「現象」に反応するのではなく、その「現象」を生み出している「構造」を診なければいけません。現象を追いかけても、まして数多くの現象に広く薄く戦力を分散させられてしまったら、最初から問題解決の勝ち目はなくなるのです。ここを見極めて、みんなを勝たせるためにみんなをどこに集中させるのか、戦略家の仕事は「構造」を診て「焦点」を定めることなのです。
では何をするのか? 最初に「重心」を探すことに集中します。何十個もあるように見える喫緊課題の中から、それぞれの課題の因果関係を読み解いて、全体が劇的に片づけやすくなる最重要な1点を探します。私の場合は、「重心」が見つかるまでは、本当は自分の指一本も動かしたくないのです。大切な仲間たちの時間や労力や情熱を徒労で終わらせたくないので、とにかく必死に絡み合った諸問題の〝センターピン〟を見極めようとします。
しかし、ビジネスにおいて実際に大きな差が生まれてくるのは実はそこからです。「集客」を改善させればほとんどの問題は解決すると、そのあたりまえを指摘すれば、多くの人は「確かにそうだよね」となります。しかし、そのあと、これから申し上げることが実行できない人がほとんどなのです。ここで最も大きな差が生まれます。それはリソースを「重心」に極端に集中すること。これが実行できない個人と組織がほとんどです。「重心」がわかったとしても、自身の共同体にその「重心」への集中を説得して実行させることができないマーケターがほとんどなのです。
本来、「重心」がわかれば、一切の他の領域からリソースをできるだけかき集めて、全賭けで取り組むのみです。しかし、ほとんどの人は、「重心」が見えないだけでなく、見えていたとしてもそこまでの1点賭けが怖くてできません。ほとんどの人間は、選ぶストレスに耐え切れず、リスクを回避しようとして、あちこちに分散して張った方がむしろ安心します。理由は、人間の自己保存の本能が常に最悪を避けたがるからです。餓死を避けることを最優先に発達した動物としての人間の本能は、100点や80点を諦めても、20点や30点が取れて確実に0点を避けられる方が喜ぶように本能ができているのです。この強烈な本能の重力に逆らうには、理性による決断力の研鑽を多く積んでいないと極めて難しい。優先順位をつけず、怒られることや失敗することを極度に恐れ、上から言われてことを選ばずに何でも忠犬のようにやる人が蔓延しているのは、最悪を避けたい動物としての本能なのです。
大前提を確認しておきます。ブランド戦略を考える上で、最重要なものは何か? それが消費者理解であることを度重ねて我々は申上げてきました。なぜならば、WHOの設定はもちろん、WHOを喜ばす価値そのものであるWHATの設定も、深い消費者理解なしには成立しないからです。そしてその深さは相対的により深くある必要があります。つまり、あなたの競合よりもずっと深く消費者を理解していないと競争には勝てないということです。消費者理解の深さであなたが競合マーケターに勝てないのであれば、あなたのブランドが競合に勝てる道理はありません。だから本物の消費者理解に本気になってください。
本物の消費者理解とは、本人の自覚なしに消費者を支配している〝本能〟と、消費者の〝購買行動(カテゴリー、ブランドの選択)〟の因果関係を明瞭に解き明かすことです。そのカテゴリーにおいて、消費者が答えるような表層的な理由ではなく、消費者の本能が何を求めてその選択をしているのか? カテゴリーが満たしている本能からの欲求が何なのか? ここに明確な仮説を持てることが重要です。その上で、カテゴリーにいくつか存在する衝くべき本能のオプションの中から、自社ブランドにとって最も高確率でプレファレンス(選ばれる確率M)を上げることができる「価値」を定義するのです。
その「価値」を自社ブランドの記号性として明確に所有(Own)できるように、自社ブランドとその「価値」との記号的な繋がりを強めるように、あらゆる消費者との接点をコントロールしていく。カテゴリーにおける消費者の選択の軸となる「価値」を、自社ブランドが他社よりも第一想起される確率を高めること。これがブランディングであり、ブランディングの結果としての消費者の脳内に創られていく、複数の価値軸の組み合わせで定まっていく、競合に対する自社ブランドの相対的な意味づけこそが、ブランド・ポジショニングです。
我々マーケターの中に深い消費者理解があれば、誰に(WHO)、何の価値(WHAT)を提供すれば、いかほどの売り上げが作れるのかおよその見通しが立てられるようになります。詳細精緻な需要予測がなくても、WHOとWHATのどの組み合わせがより強いプレファレンスをつくれるのかの仮説が立つようになっています。逆に、量的調査で答え合わせをする前に、その仮説が立つくらいまでは消費者を理解しているべきなのは当然のことです。
その人の世界は、その人の認識のみで成立している。人という生き物は、脳が知覚したものでしか世界を認識できないので、構造としてはどうしようもなく、現実にそうなっています。だから、私たちはみんなで同じ世界に住んでいると錯覚しがちですが、実は一人一人の世界は異なっているのです。時間軸としては〝同時代〟に生きていることは間違いないですが、一人一人は別々の認識世界に住んでいる。共通部分もあるけれども、読者のあなたと私の世界もそれぞれ固有の別物だということです。
一人一人の世界は違っていて、その世界はその人の認識しだいで創られ、そして変わるということ。このことをちゃんと理解しておくことは、マーケティングの巧拙を遥かにに超えて、人間をより良く理解するための大切なスタートラインだと私は捉えています。
では、その「認識世界」はどのようにつくられるのか? もう少し踏み込んで構造をお話ししましょう。実は、1人の人間の「認識世界」は、別にある2つの世界が影響を与えることでつくられています。つまり、1人の人間には、認識世界に加えて、あと2つ、合計で3つの世界が併存しているのです。その3つは、現実世界、認識世界、そして記号世界です。それぞれを解説します。
まず、人間が認識できないことも含めて実在している「現実世界」。現実世界は、人の認識とは無関係に存在しますので、現実世界だけはすべての人にとって共通です。信長が知る前の広大な大陸や大洋も、あなたが知っている正しい地理情報も、あなたが知らない今朝の私の体重も、すべて「現実世界」に属している情報です。今こうしている間にも、人類がまだ知らない現実世界は圧倒的な情報量をもち、その瞬間には想像すらできないほどです。我々は現実世界の本の砂粒1つもまだ知らないというのが実情でしょう。
次に、その人の脳内世界である「認識世界」。「認識世界」は、認識することのみで成立するその人の固有の世界です。正しいか間違っているかにかかわらず、膨大な現実世界の理解として「正しい」と認識したことで主に構成されています。人は、自身の五感を通してさまざまな情報を得ることで、「現実世界」を知覚し、脳内に「認識世界」を構築するのです。しかしここに大問題があります。それは、膨大な現実世界を少しでも知りたいと願う人間の好奇心に比べて、1人の人間の時間と能力があまりに不足していること。1人で知ることは物理的に限界があるのです。たとえば、私はマーケティング領域における現実世界を少しでも知るために人生を使ってきましたが、エンジニアリング領域については全くの素人です。そこで人間は、「自分以外の人間が知り得た現実世界に関する情報(つまり他人の認識世界)」を知ることで、自分の認識世界を少しでも現実世界に近づけようとしてきました。そこで3つの世界が最後の1つが必要になります。
3つ目は、他の人に伝えるために生み出される「記号世界」。「記号世界」は認識(≒伝えたいこと)の内容を言語や映像などに変換した、文字どおり〝記号〟の世界です。たとえば、この本も「記号世界」の1つです。私自身が直接「現実世界」に触れて得てきたコンセプトについての認識(森岡の認識世界)を、四苦八苦しながら文字に記号変換してつくったものです。本のように書かれている文字、人が話す言葉、書かれた絵画や音楽などの芸術、動画による表現など、誰かが自分の認識世界を変換してつくり出した著作などの創作物もまたすべて「記号世界」の住人です。
また、記号世界は、他人の認識世界を吸収して取り込むためだけでなく、自分自身が現実世界に直接触れたときの知覚を整理するための決定的な道具としても使われます。自分の中にある思索や感覚、それらは混沌としていて、記号を使って整理しないと自分自身でも明瞭に認識することが困難です。私の場合も、言語や数字などの記号を使わずに、マーケティングの現実世界を自身の認識世界に取り込むのは不可能です。現実世界を数値化することで把握したり、自分の理解の整理や思考を深めたりするのに記号(日本語、英語、数字、数式など)がどうしても必要になります。日記をつける習慣のある人は、誰かに読ませるためでなくても、頭の中にあるものを書き出して客観視するだけで、心が落ち着く効用を体感していると思いますが、それも同じことをやっています。記号には、脳内にあるモヤモヤしたものを明確化して自分自身で認識しやすくする力があるのです。
人の「認識世界」がつくられるには、主に2通りのルートがあります。1つはその人が直接的に現実世界に触れて何かを感じとることで認識がつくられる〝実体験ルート〟。これはその人の「認識世界」に占める情報範囲は狭いですが、「百聞は一見に如かず」というとおり実体験ルートで創られた認識は極めて強固です。そしてもう1つは、他人が生み出した「記号世界」に触れることで認識がつくられる〝伝聞ルート〟。さまざまな記号世界の産物による情報の渦の中で生きる現代人は、伝聞ルートの方が実体験ルートよりも自身の認識世界に占める割合としては圧倒的に多くなります。実体験したことはほとんど無いのに、多くのことをさも知ったような気になっているのが現代人の実相です。
ここで知っておくべき大切な認識構造があります。現実世界、認識世界、記号世界……。それら3つの世界を往来するときに、〝エラー〟が起こる可能性が極めて大きいこと。「現実世界」と、誰かがその現実世界に触れてつくる「認識世界」には、少なくないズレが生じるのです。勘違いや事実誤認によって、現実世界の解釈が大きくズレることはザラにあります。また、同じ景色を見ても人によって感じ方が違うように、その人の主観のフィルターによってどうしても認識にバイアス(偏見/歪み)がかかります。それらは人間が物事の認識するときに完全に回避することが難しい〝解釈のエラー〟です。解釈のエラーは、自分の認識世界に何かをインプットするときに発生するのです。
さらに、そうやってある人によって創られた「認識世界」が「記号世界」に変換されるときにも、今度は〝翻訳のエラー〟が生じます。言いたいことを言葉でなかなか言い表せない、絵にしても、音楽でも、なかなか表現できない。表現したとしても、オリジナルの認識世界のほんの一部しか伝えることができていない気がして、表現というのは極めて〝もどかしい〟ものです。翻訳のエラーは、自分の認識世界から何かをアウトプットするときに発生します。
伝えたいのに伝えられないことの「表現のもどかしさ」だけでも断崖なのに、実はもう1つの厄介な絶壁もあるのです。それは「主観によるバイアス(偏見/先入観)」です。正直にあるがままを伝えようとしても、実際の認識世界の翻訳にはその「記号世界」の作者の主観による意図や歪み、あるいは思いや願いがどうしても入り込むものです。意図的な嘘や誇張を出きるだけ排除しようとしてもそうなりますが、ほとんどの人は、意識的にも、あるいは無意識でも、自分に都合の良い伝わり方を狙ってしまう生き物です。これも集団の中で自己保存せずにはいられないヒトに備わった本能ですから、主観バイアスを完全に排除して「記号世界」を創り上げるのは不可能なのではないかと私は考えています。
私も自身の執筆活動を通してこの〝解釈/翻訳のエラー〟の連鎖を常に感じており、本の企画の度にできる限り気をつけながら書いています。1回目のエラーの可能性は、私が現実世界に直接触れるときに存在します。私自身が自分の「認識世界」を創るとき(現実世界⇒認識世界)に起こる〝解釈のエラー〟です。これに関しては出来るだけ科学的な検証によって、複眼的に辻褄の合う結論で自分の認識の客観性を担保しようと心がけてきましたが、それでも完璧にはならないはずです。
2回目のエラーの可能性は、その認識世界を私が執筆しているとき(認識世界⇒記号世界)に起こる〝翻訳のエラー〟。「表現のもどかしさ」と「主観のバイアス」にいつも苦しんで言語化しています。私がビジネス書作家としては珍しくライターさんを全く使わないのは、ライターさんを入れるとさらに翻訳のエラーの確率が高まるからです。もちろん国語が苦手だった私が暑苦しい文体で書くのではなく、テクニックに恵まれたライターさんに書いてもらえば、もっとオシャレで万人に対して柔らかい本がもっとたくさん創れることはわかっています。しかし、私は本の数ではなく、より長く人の役に立つものを創りたい。10年や20年で陳腐化しない価値ある書籍を生み出したいのです。そのために、柔らかさよりも、本質を射抜いた精度を最重視します。ですから〝解釈/翻訳のエラー〟を最小化できる自分自身で一言一句書くしかありません。
最後の3回目のエラーは、読者の皆さんが私の書いた文章を読解するとき(記号世界⇒認識世界)に起こる〝解釈のエラー〟です。もちろん、私が書く課題特有の複雑性や情報量の割には、多くの方に正しい解釈をしていただけているという手応えを感じています。本質に焦点を当てて体系化・言語化させる私なりのアプローチを御評価いただく多くの声に背中を押していただいています。それでもやはり、正しく伝わっていないと実感する機会もそれなりにあるのです。しかも、近年は4回目・5回目のエラーも高速で飛び交う時代……。
あと、一部の読者が私の著作から得た認識をYouTubeやSNSなどで発信(これも1つの記号世界)する際などに、拙著の意図や内容とは違う〝解釈のエラー〟に満ちた誤情報がかなり出回っています。しかも人を介するたびにそれらのエラーは重なって歪みは増幅する構造にあります。私は社会に資する目的で自らのノウハウを公開してきましたので、間違った解釈を信じた人たちに実害が起こることを危惧しています。その人の感想ならば構いませんが、「森岡がこう言っている」という前提に立つならば、せめて原文に忠実に引用していただけないかと願っています。
このように、人間の認識とは、それぞれの世界を行き来するたびに〝解釈のエラー〟と〝翻訳のエラー〟を交互に繰り返す構造を避けられません。実体験ルートでさえも解釈のエラーを、伝聞ルートであればさらにその3倍以上もエラー。なかなか正しい情報が伝わらない、伝えられない、まるで無茶な伝言ゲームのような構造になっています。現実世界を正しく認識することや、それをちゃんと記号に変換することや、他人の認識世界を正しく理解することは、実はとても難しいことなのです。
私はそのエラーを起こす人間の本質とは何だろう?とよく考えることがあります。今の私の見解は主に2つ。1つは感覚器のエラーです。黒く見えた気がしたが、現実には茶色い猫だったというパターン。もう1つは、人間の本能が解釈や認識に「バイアス(偏見)」をかけていることです。言い換えれば、現実を認識するときに、そのど真ん中の正しい理解よりも、自己保存の本能にとって「思い切り楽観的に解釈したい」か、あるいは「思い切り悲観的に解釈したい」か、そのどちらかに振れやすい特徴が人間本来に備わっているとしか思えないのです。
自分に都合よく物事を解釈してしまうクセのある人も、いつも最悪の可能性ばかりを考えてしまう心配性な人も、動物としての人間に備わっている自己保存の構造が、感覚器のエラーよりも実は大きな原因なのではないか?と考えています。「人は高度な知性ゆえに、自己保存の本能に基づいて、現実を歪めて認識する習性のある動物である」。そもそも論として、人の意図というものは、ちゃんと考えて工夫しなければ、自然状態では相手には正しく伝わらないものだと考えておくべきなのでしょう。
人は、自分の〝本能のキャッチャーミット〟に飛んできた球は、避けることができずにどうしても捕らざるをえない、しかも捕ったときの衝撃を実相以上に大きく感じてしまう習性があります。なぜか? 人間の生存確率を高めるために備わったプログラムが「本能」だからです。だから自分にとって信じたいことは実相以上に信じてしまいますし、自分にとっての脅威は実相以上に恐れてしまうのです。
マーケティング・コンセプトは「本能にぶっ刺す」。マーケティング・コンセプトというものは、消費者の本能に語りかけるように、特定の本能を狙って強い球を投げ込むように、つくります。商品の機能便益に対して明らかな消費者ニーズなど、表層的な価値を狙って投げ込むだけでは甚だしく不充分なのです。マーケティング・コンセプトは、むしろそれら消費者ニーズのもっとずっと遠く深い奥底にある本能の1点を見つめ投げ込めば、商品は結果的に「当たる」のです。正射必中、正しくやれば当たるのです。〝当てる〟のではなくて、〝当たる〟のです。
ここで大切な定義です。重要性が高いエクイティの中で、集中して強化していくために選んだ極めて重要なエクイティのことを、そのブランドの「戦略エクイティ(Strategic Equity)」と呼びます。戦略エクイティは、人々がそのブランドを選ぶときの核となる理由と一致していなければなりません。それがデザイン性であるブランドは、「デザインが優れている」という軸に沿って戦略エクイティを強くしていかねばなりません。それが値ごろ感であるブランドは、「バリューがある(品質の割に安い)」という戦略エクイティを消費者の中で大切に育てなければなりません。
そしてこの項の結論になります。マーケティング・コンセプトの最も重要な目的は、この戦略エクイティを消費者の脳内に構築することです。
消費者が何かを選ぶときにより重視する価値を「戦略エクイティ」として自分のものにしたブランドが勝つ。それがビジネスのルールです。したがって、戦略エクイティとして何を選ぶのか? この見極めと選択に自らのビジネスの未来は懸かっています。戦略エクイティこそが、前述したブランド・ポジショニングの核心です。
では、何を自社ブランドの戦略エクイティにするか? 戦略エクイティは、そのブランドが属している商品カテゴリーで最も重視されている価値領域から選ぶのが定石です。自分のビジネスで、消費者がブランドを選ぶときに重視している価値は何か? その中で大きいものは何なのか? それが住宅メーカーであれば、「安全性(構造強度)」であったり、夢を叶える「設計能力」であったり……。テーマパークであれば「happiness(幸福感)」であったり、「excitement(興奮)」であったり……。家電量販店においては、基本的に主要メーカーの同じ製品を売るわけですから製品そのもので差をつけにくく、小売店としてのサービス価値である、「品揃え」、「安さ」、「利便性(店舗アクセスなど)」、「安心(配送設置、アフターサービス)」などの価値の奪い合いになっています。
あるカテゴリーにおいて消費者により重視される「価値」であるほど、その争奪戦はより激しいものになります。同じ戦略エクイティで争うときには、その切り口や、信ぴょう性などに工夫を凝らして、なんとか有利なそのエクイティを自分のものにしようとします。だからマーケターは、常に突き詰めて考えなくてはなりません。本当の競争相手は誰なのか? どの「価値(≒エクイティ)を誰と奪い合っているのか? 狙っている戦略エクイティをこの時点で強く所有している競合は誰で、このままだと3年後にはどうなっていくであろうか? 自分の知能の限りを尽くすことによって作り上げたい3年後のブランド・エクイティはどうあるべきなのか? それらのことを自分の思い込みではなく、消費者の脳内(心の中)をよく診て考えます。自ブランドの戦略エクイティの陣取り合戦を上空から俯瞰して見ている。常にそんな意識で自ブランドを有利にする策を練るのです。
その際に注意すべき基本の1つがあります。「お客様」と「消費者」は違うということです。マーケターが最重要視して診なくてはならないのは「消費者」です。お客様は、今の段階で顧客になってくれているありがたい存在ですが、市場全体の一部分に過ぎません。これから売上を上げていくためには、むしろ本気で知らねばならないのは、今の段階でお客様になっていない人たちを含んだ〝消費者全体〟のポテンシャルです。「消費者=お客様+まだ顧客化できていない膨大な可能性」だからです。
さまざまな商品やサービスの概念をまとめようとして、あるいは宣伝広告のコピーのようなものを意図して、多くの人が〝なんとなく〟コンセプトという言葉を用いています。しかし、それらのほとんどが「マーケティング・コンセプト」としては実際には役に立っていないのです。その最たる原因は、マーケティング・コンセプトの目的であるはずの「ブランド・エクイティ(中でも戦略エクイティ)」が事前に明確にされていないことです。信じられないことですが、ほとんどのビジネスがそうなっているように私の目には見えています。消費者の脳内に中長期で何を形成させたいのかを考えずに、目先の商品やサービスを売るコンセプト?ばかりを一生懸命考えている。商品コンセプトばかりを考えて、ブランド・エクイティを考えないことが習慣になっています。
どんな「版画」を描くか明確になっていないのに、「版木」を行き当たりばったり彫るのはさすがにダメなことはわかりますよね。目的を明確化せずに、とりあえず考えやすい具体から考え始めたり、落ち着かないので手足を動かし始めたりするのは、勝率が低い〝戦略的ではない人〟の特徴です。それでは勝てません。狙いをつけずに鉄砲を打っても、まぐれでもなかなか当たりません。それと同じように、ビジネスも、ブランド・エクイティを見定めていないなら、奇跡の確率を除けば、中長期で報われることはありません。これは途方もない無駄働きであるばかりか、多くの場合は〝負のブランド・エクイティ〟をもたらす悲劇となります。〝負のブランド・エクイティ〟とは、創りたいイメージの妨げになってしまうマイナスイメージのことです。
たとえば、「某寿司チェーンのブランド」がある時期になぜかハンバーガー!?を大々的に売ろうとしたことも、プレミアムイメージが大切なはずの「某化粧品ブランド」が大幅ディスカウントの価格訴求のみで初回トライアルを取ろうとしたことも、負のブランド・エクイティに帰結します。他人事だと思って聞くと、それらの施策は血迷ったように感じるかもしれません。しかし、現実には多くの企業や事業者がこういうことを平気でやってしまいます。自社のブランド・エクイティについて明確な設計図がないので、何をすればエクイティが育ち、何をすれば破壊されるのかがわかっていないのです。
ここは重要ですので、読者の皆様には「自分は大丈夫」と即断しないでください。ちょっと確認してみましょうか。ご自身のさまざまな仕事にこの質問を当てはめてみてください。その仕事は、一体どのブランド・エクイティを強化する目的で行うのか? すぐに答えられるでしょうか? そしてその答えは一緒に仕事をしている仲間たちと一致するでしょうか? もしも、すぐに答えられないのであれば、あなたもブランド・エクイティの完成図を意識して働けていないということです。状況によってはあなたも寿司バーガーを出してしまうかもしれません。
規模の大小にかかわらず伸び悩んでいるビジネスのほとんどが、強化すべきエクイティを意識できていません。さらに、伸びているビジネスでさえそうなっていることが多い。だから次第に伸びなくなっていくのですが、そしてついに既存ビジネスの売上が徐々に下がっていく……。当人たちは「なぜだかわからない!?」と異口同音におっしゃいますが、その「なぜか!?」は明確です。昨日よりも今日、強くするべき戦略エクイティが強くなっていない日々が続いてきたからです。正しい戦略エクイティを伸ばし続けないビジネスの成長は止まり、凋落するのが自然の摂理ですから何も不思議なことはないのです。
広告コミュニケーションは、商品使用体験と双璧をなす代表的な、知覚化されたマーケティング・コンセプトそのもの。したがって「広告」と「ブランド・エクイティ」も、まさに「版木」と「版画」の関係性にあるのです。つまり広告とは消費者の脳内にブランド・エクイティを築くために存在するということ。では、どうしてブランド・エクイティを構築できる広告コミュニケーションが、それだけ多くの企業で正しくつくれないのか? なぜだと思いますか? 広告代理店が無能だからでしょうか!?
私は俯瞰してこう考えています。一番多い理由は、広告代理店の能力云々の以前に、むしろ発注側(企業側のマーケター)の問題です。広告主側が、ブランド・エクイティを明確に定義できておらず、広告代理店に明確にオーダーできないのです。その広告で訴求する戦略エクイティは何なのか? 何を伝えなくてはならないのか!? その1点を見極めることができていない。ビジネスを伸ばさない広告しか使えない企業は、広告以前にブランド設計そのものに問題あります。最も多いのは、ブランドの設計がそもそも存在しないという問題。つまり消費者から見るとブランドの「顔がない」、だから覚えられない、選べないという状態になっています。残りは、ブランドはあれども、そのブランドが消費者視点で設計されていないという問題。消費者の本能を衝かずに、作り手の目線や、経営者や会社側のエゴや思い込みに過ぎないブランド定義になってしまっていることです。
最初のSTEPとしてやるべきことは、徹底した消費者理解です。何度もお伝えしてきたように、我々が最重要視して活用すべき市場構造は、消費者の脳内構造なのだから、これ以上に大切なことはありません。消費者の脳内をポジティブに貫通してトライアルを起こさせるために、我々はどのようにマーケティング・コンセプトを紡げばよいのか? その思索世界を歩けるようになるためには、まずは歩こうとするその地形を深く知らねばなりません。
もちろん消費者の脳内構造以外にも、前作でも声高にお伝えした通り、その市場において勝敗の確率に影響力の強い他のさまざまな構造的特徴も把握する必要があります。基本的な視点は5C分析(Company:自社の特徴、Consumer:消費者、Customer:顧客、Competitor:競合、Community:社会・法律・世論など)で構いません。
マーケターとして成功しようと思う人は、活用できるさまざまな有利な条件や、避けるべきさまざまな不利な条件、さらには一見して〝不利〟な条件を〝有利〟にひっくり返す可能性、これら〝構造的特徴〟を探知し続けることを習慣化すべきです。まるで空気を吸うように、これらの構造的特徴をつい探してしまう職業病的習慣の有無が、良将と凡将の分かれ道になっているように思います。アイデアを捻り出せるかどうかは、いかに構造的な特徴を自分の目的のために活用できるかにかかっているからです。
しかし、その5つのCの中でも、私のやり方はとにかく最重要な構造であるConsumer(消費者)の理解に傾斜的にリソースを集中します。消費者プレファレンスこそがマーケターが操作できる最大の変数だと考えているからです。本当にそうなのでお伝えしますが、「強いコンセプトは消費者理解がすべて」です。9割ではありません、すべてです。これ以上に大切なことはありません。
プレファレンスを最大化できそうなWHO(だれに)・WHAT(なんの価値を)・HOW(どのように)提供するのかの組み合わせの仮説。それをSTEP3(マーケティング・コンセプトの策定)までに生み出すために、消費者理解の深さがほぼすべてと言っても過言ではないでしょう。凡庸な仮説のままSTEP4以降の検証段階に進んでも意味がないので、STEP1の消費者理解において、いかに情熱ある密度の高い時間を注げるか? 私のマーケティング・コンセプトのつくり方を理解したい方は、まさにConsumerこそが勝負だと心得てください。
したがって、自分達の提供しようとしている商品やサービスが消費者の本能のどこに刺し得るのかを洞察するために、私は消費者理解に尋常でない時間と精神力を投資します。優秀なマーケターたちは、それぞれ独自のやり方を持っており、さまざまなやり方があります。どんな方法を選ぶにしても、消費者理解に十分な時間と情熱を注げていない、あるいはFGI(フォーカスグループインタビュー)などの質的調査だけ参加して、消費者のことをわかった気になっているようでは、マーケターとしては残念なのです。
なぜモニタールームでの質的調査だけではまずいのか? それは、答えている消費者自身が自分の行動の本当の理由をよくわかっていないからです。もし考えがあったとしても「翻訳のエラー」で必ずしも正しく言語化でいないからです。
もちろん消費者自身が明確に認識できている内容であれば、FGIや1オン1インタビューなどでわかることも多いです。商品の使用習慣や、目の前で見せられたコンセプトやパッケージが好きか嫌いかなどは答えられるのです。しかし、彼らがなぜその商品を使っているのか、なぜそのブランドが好きなのかという本当の理由は、質問して彼らに本当の理由を答えさせるのは困難です。それは、消費者を突き動かしている根源が、彼らが認識できる〝意識〟ではなく、無意識の〝本能〟からくる衝動だからです。
認識すらできていない、あるいは認識できていたとしてもうまく言語化できないことは、本当は消費者にもわからない。モデレーター(調査員)に聞かれて彼らが答えている内容は嘘だとは言いませんが、本人すらわかっていな本能による選択を、意識が事後に取り繕ってその場で説明しているに過ぎないのです。したがって、一般的な質的調査は消費者の認識を効率的に理解するには適していますが、消費者がモニタールームで語っていることすら認識全体の氷山の一角であり、さらにその発言も質問者の期待に応えるためのバイアスがかかっています。
質的調査バイアスについて。まず、そもそも調査に参加している消費者は、周囲と上手くやることで生存効率を高めようとする社会的動物です。FGI(グループ調査)などは、他の参加者の意見や考えと違っていても、その影響を受けたり、同調したりする意識が働くものです。また、目の前のモデレーターに対して、遠慮する心理はもちろん、自分の受け答えによってモデレーターを喜ばせようとするバイアスもかかっていること非常に多いのです。まあ、モデレーターと被験者の密室での〝談合〟のようなものだと思っていてください。それをわかった上で上手く使えばよいのですが、質的調査だけで必要な消費者理解の深遠に辿りつくことはできないのです。
ちなみに自社製品を会社の福利厚生などで、タダであるいは大幅な割引で買えるようにしている企業がよくありますが、あれはやめたほうが良いと思います。社員が正規の値段で自社商品を買うせっかくの経験機会を奪っていては、消費者視点も減ったくれもないからです。テーマパークでも福利厚生として、社員にタダチケットを配って家族連れで遊ばせているところが多いですが、ほとんどの社員は毎年配られるそのチケットを待つようになって、自腹でパークに行こうとはしなくなるものです。そんなことをやっていては、高い入場料を払った後に長い時間待たされる消費者の心理なんてわかるはずがありません。
そもそも論として、社員ですら正規価格で買わない自社商品って非常にまずいのではないでしょうか? 消費者感覚を奪う福利厚生はやめたほうが良いと思います。社員には日頃からちゃんと競争力ある年俸で報いてあげていれば良いだけではないでしょうか。
すでに各種メディアで報じられたとおり、丸亀製麺と刀は2018年秋から協業し、既存店の売上が落ち込んでいたトレンドをV字に曲げる成果を出すことができました。そのときに起爆剤となったのは「丸亀製麺は1店舗1店舗、すべての店で粉から作ってうどんを提供している」という事実を活用した、「できたてにこだわっているブランド」であることを訴求した新たなマーケティング・コンセプトでした。
ここでの本題は、そのドラスティックな業績回復の結果自体よりも、「1店舗1店舗、粉から作っているという事実がプレファレンスを高める消費者価値として非常に強い」ということをどうして発見することができたのか?という点でしょう。これも先ほどのネスタのバギーと同じで、決してHOWから一発の思い付きではないのです。むしろHOWからの発想では決して思いつくことはできなかったと私は確信します。やみくもに砂漠でダイヤモンドを見つけることはできないからです。繰り返しますがWHO→WHAT→HOWの順で発想するアプローチこそが確率高い戦略構築にとても重要です。
このブランド便益であるWHATを〝言い当てる〟こと、戦略的に定義することをマーケティング用語で「ベネフィット・アーティキュレーション(Benefit Articulation)」と言います。優秀なマーケターは、このベネフィット・アーティキュレーションが上手いのです。だから消費者の本能を衝いて、ブランドのプレファレンスを上げることができる。
戦略的に定義するとは、その価値の領域と輪郭を明確にするということであり、決してコピーライターが考えたような「うまい言い方」のことではありません。ブランド・エクイティ・ピラミッド上においては、広告に登場するようないわゆるキャッチコピーのような〝表現された言葉〟ではなくて良く、むしろそうでない方が良いのです。というのも、特定の表現によってブランドの便益をここで定義してしまうと、その表現しか使えなくなり、長期的に便益領域のHOWの展開が難しくなるからです。同じことを切り口を変えて言い当てる表現ができなくなり、ずっと同じことについて同じ言い方しかできなくなってしまいます。
たとえば、とある〝クッキー〟のブランドがあったとして、そのブランドのエクイティ・ピラミッドでWHATの定義を考えてみます。このクッキーは、昔ならではの手間暇かけた製法にこだわっていて、派手さはないけれども上質で素朴な美味しさが特徴だったとします。そのときに、WHATにおいて便益を「懐かしい美味しさ」と定義するのか、「メアリーおばあちゃんの手作りのおいしさ」と定義してしまうのか、その2つは大きな違いを生むのです。〝戦略的定義〟とは前者であり、〝表現された定義〟とは後者のことです。たとえ最初の広告にメアリーおばあちゃんが登場するとしても、ブランド・エクイティの定義では戦略的定義にしておくべきです。
理由は「不易流行」をしっかりと考えておかねばならないからです。変えてはいけないもの「不易」と、状況に合わせて変えていかねばならないこと「流行」。ブランドの設計とは、その境界をどこに設定するのかを突き詰めて考えることに他なりません。基本的にブランド・エクイティとして定義する要素(ブランド・エクイティ・ピラミッド上に記入する内容)は、それが長期間一貫して消費者の脳内に構築したいことなのだから、よほどのことがない限りコロコロ変えたりすべきではないのです。
どれだけ上手なキャッチコピーも、爆撃の威力(≒Mの総数、プレファレンスの大きさ)はともかく、爆撃範囲(≒ペネトレーション)自体は戦略的定義よりもどうしても狭くなりますし、飽きられずに半永続的に続けられる表現もなかなか創れない。だからメアリーおばあちゃんをずっと使い続ける(たとえば、メアリーおばあちゃんが特別に美味しいクッキーをつくる権威であった場合など)覚悟がないならば、1キャンペーンや1表現の戦術レベルのことで上位戦略であるブランド・エクイティを縛ってはいけないのです。長期的に変えてはいけない「不易」のみで可能な限りブランド・エクイティを設計すること、それがとても大切です。
「インテル、入ってる」、「ピンクの小粒、コーラック♪」、「セブン・イレブン、いい気分♪」、「ここのうどんは生きている。丸亀製麺」、「世界最高を。お届けしたい。ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」……。それらはどれも強力な「表現したいコピー」ではありますが、そういう〝表現〟をブランド・エクイティ・ピラミッドの中心であるWHATには書きません。それらはWHATをクリエイティブに展開したHOWの戦術要素、つまり広告表現なのでWHATを表現したマーケティング・コンセプトの1つではありますが、WHATそのものではないからです。
ここまでずっと文脈を操る話をしてきました。自分が売ろうとする価値を、どんな文脈に置いたならば、消費者の脳がその価値をより高く評価してくれるのか。このテーマに沿って、価値を高めるシーンを脳内で明確化するSTC(Setting The Context)のやり方や、脳に衝撃を与える新情報や感情の切り口である消費者インサイトを用いたSTCのやり方について述べてきました。そして今からは文脈を操るシリーズの最後になる「消費者が掛けている眼鏡を変えるSTC」、つまり、〝期待値の操作〟について解説します。
期待値は、脳が価値判断をするときの文脈の1つです。脳は「これはこんなものだろう」という相場観のベンチマークをもっています。それが期待値です。脳は正直でシンプルです。価値判断が期待値を超えると大いに喜び、期待値付近であればそこそこ満足し、期待値を顕著に下回ると落胆します。期待値が高いとトライアルを取るのには有利ですが、その期待値にある程度合致したプロダクト体験でないと満足度が下がり、リピートだけでなくSNS時代においては評判(ユーザーのレビュー)などがトライアルにも影響します。我々マーケターは、慎重にこの期待値ラインを設定し、消費者をトライアルさせ、満足させ、リピートさせ、ブランドを創ります。ブランディングとは、消費者の期待値マネジメントとも言えるでしょう。
理解しなくてはならないのは、新カテゴリーを創造する〝New To The World商品(カテゴリー自体がまったく新しい商品)〟でもない限り、消費者はすでに脳内に期待値をもっているということです。その多くは、該当するカテゴリーの商品を実際に何度も購入して使用した経験の記憶が累積して出来上がっています。
ちなみに〝New To The World商品〟の場合は、消費者の脳内にはもともと期待値がありませんので、その期待値を利用したマーケティングができない分、消費者にその商品の使用体験や価値を脳内で想起させる難易度が相当に高くなります。脳がそのカテゴリーをそもそも知らなければ第一関門の重要性においてシャットアウトされる確率が高く、幸い重要かもと思わせて第二関門まで辿り着いたとしても比較対象になるベンチマークも期待値もないので好き嫌いの価値判断は難しく、そんな状態ですから第三関門においても「システム2」の全警戒を浴びることになります。脳にとって想像しにくいものを買わせるのは大変厳しい挑戦なのです。
さて多くの場合、すでに存在する「カテゴリーの期待値」は短期的には動かし難い与件ですので、私がこれから話すのは「ブランドの期待値」をどのように操作するかということです。カテゴリーへの期待値そのものはほぼ動かし難い定数ですが、自ブランドへの期待値はマーケターが動かせる変数です。カテゴリーへの相場観(その他多数の競合ブランドの価値の平均値のようなもの)をよく理解して、それを消費者の脳内において自ブランドの価値としてどうやって上回るのか? そのために必要な文脈としての期待値設定に私がよく使う2つの方法(FocusとReplace)についてお話しましょう。
Focus(フォーカス)とは、消費者の期待をこちらが注目させたい焦点に絞り込ませることで、価値評価に有利なところに認識を誘導し、見てほしくないところに認識がいかないように期待値を設定することで、自ブランドへの価値判断を有利にするテクニックです。レンズのピントを絞ることに似ているのでFocusと私が名づけました。
わかりやすい例でいうと、先述したレストランのギャルソンやソムリエのトークはこのFocusのテクニックを用いていることが多いです。「どんなこだわりの食材を、どのように調理して、何のポイントをお楽しみください……」というトークは、注目してもらいたい評価ポイントに脳の注意を誘導し、そこに期待値を集中させているのです。
もしもその期待値を絞らせなければ、客は気がつかずに食べてしまって、それらのこだわりポイントを認識せずに価値判断してしまうことになり、ちゃんと強みに誘導できた場合に比べて顕著な差がつくことになります。また、脳はどこかに注目するとそれ以外への注意力が半自動的に下がります。どこかに注意の焦点を引っ張ることは、同時に隠したいことへの目隠しにもなります。
マーケティング・コンセプトにおいては、見せたいものにピントを絞って誘導し、見せたくないものはボカして隠す。消費者のレンズを調整してSTCをつくります。
もしもコア・ターゲットの具体的な固有名詞の1人の深い脳内地図がまだ鮮明に描けないのであれば、STEP1の消費者理解からやり直しです。消費者を〝人間〟としてまだ十分に理解できていないということ。この期に及んでまだその状態だということは、ご自身の消費者理解に向き合う努力水準自体が低すぎる可能性も自ら疑うべきかと思います。もう少し踏み込むと、人間そのものへの〝興味〟というか、〝愛〟のようなものが足らないことが根本原因かもしれません。何度も申し上げますが、消費者を理解することに情熱をもてないならば、マーケターには向いていません。
マーケターとして悪い意味で慣れてしまわないように、我々は自らを戒めねばならないのではないでしょうか。何よりも大切なはずの〝消費者〟という概念を、まるで業務用語のように無機的に呼称するようになると、我々の目にはもはや価値貫通ルートが見えるはずもありません。くどいようにお伝えしていますが、マーケティング・コンセプトは消費者理解がすべてであり、〝消費者〟とはすなわち人間です。かけがえのない固有名詞です。そこには一人一人の暮らしと喜怒哀楽があり、これまでの歩み、葛藤、本人すらも意識できない欲求に満ちています。そこに1人の血の通った人間がいる、自分のできる限りを駆使して、その人をなんとかもっと幸せにしたい! 価値の想像とはそういうシンプルな動機なしでは成らないもの。マーケティングの本質とはそういうことなのではないでしょうか。
話を元に戻してまとめます。あなたは、なんとか1人の実在の人が絶対に勝ってくれると確信ができるマーケティング・コンセプトを創れているとしましょう。そのマーケティング・コンセプトが1人の実在の人物(の脳)にとって〝見逃し難い価値〟を成立させられているということ。少なくとも、強いマーケでイング・コンセプトの重要な必要条件の1つである「整合性」がそれなりに高いということ。
強いマーケティング・コンセプトは、セットとしてのWHO→WHAT→HOWの組み合わせの因果関係が強いのです。「この人だからこそ、この価値!」とか「この価値だからこそ、こうやって伝えねば!」のように、WHO・WHAT・HOWのそれぞれが強い必然性で繋がっていて、そこに強い「整合性」が生まれています。機械がランダムに判定したような組み合わせには決してならないのです。絶対に買うと思える実在の1人がいるかどうかをチェックすることは、結果的にその強い「整合性」があるかどうかの極めて有効な確認手段となります。
逆に、深い消費者理解を前提として、自分が作ったマーケティング・コンセプトに、絶対に買ってもらえるだろうと確信が持てる実在の固有名詞がこの広い世界でたった1人ですら思い浮かばないなら、そのマーケティング・コンセプトはイケてないと判断しましょう。
私はFGI(フォーカスグループインタビュー)などの質的調査においても、モニタールームから拝見しながら一人一人の調査対象に対して、「この人には一言で何といえば買ってくれるかな?」と常に考えています。(実在の)あの人を喜ばせるように、絶対に買いたいと思わせるように、マーケティング・コンセプトをどんどん練り上げていく。マーケティング・コンセプトは絶対に買う実在の1人の顔を思い浮かべながら行うセルフチェックを入れながら創り出しています。
そうやって仮説を生み出した後の検証を経て、あなたがついに創り出したマーケティング・コンセプト。それと実際のビジネス結果の〝答え合わせの場数の数〟をどんどん踏んでいってください。・あなたのマーケター脳に、生きた実戦経験を意図的にどんどん食わせていくのです。よいものをつくれる確率は階段を上がるように上がっていきます。もちろん踊り場は苦しいですし、たくさんの失敗と、たくさんある大失敗も避けては通れない。しかし決して恐れないでください。自身のなかに貯えていく実戦経験だけが強いマーケターをつくるとい
Posted by ブクログ
・コンセプトには最終的に消費者の脳内に蓄積したいブランドイメージとしてのコンセプトと、それを蓄積するためのwhatを効果的に伝えるための、狭義のコンセプトがある
・whoとwhatとhow。whatが価値でhowがそれの具体化の仕方。whatのコンセプトを決める際はニーズ作り的な前文を含めて考えると考えやすい。英語教育サービスを売るとして、その相手に最も刺さる前段階のフレーズは何なのか。競争的な価値観が強くて、旦那への軽蔑があり、自分自身はさして学歴がない(がプライドはある)ような一般的な教育ママを想像したら、「旦那みたくお子さんを育てたくありませんよね?(これは直接的すぎる)」「賢い人なら選ぶ」などが良いのではないか等。たぶんここから、「賢い親御さんのための〇〇」みたいな狭義のコンセプトが出来て、それが消費者の脳内に積み上がるコンセプトになっていく。