あらすじ
2025年、NHK大河ドラマは「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~」。
その主人公である江戸の出版プロデューサー・蔦屋重三郎の波瀾万丈人生を描く、傑作歴史長編小説!
寄る年波には勝てず、店仕舞いしようとしていた地本問屋・丸屋小兵衛のもとを、才気迸る若い男が訪ねてくる。この店に毎年二十両払うから、雇われ人となって自分を手伝ってほしい、という申し出に面食らう小兵衛。
「一緒にやりませんか。もう一度この世間をひっくり返しましょうよ」
その男こそ、吉原随一の本屋、飛ぶ鳥を落とす勢いの蔦屋重三郎だった――。
飲むときはとことん飲み、遊ぶときはとことん遊ぶ。商売の波に軽々と乗り、つねに新しいものを作りたい、と意気込む重三郎。重三郎の周りには、太田南畝、朋誠堂喜三二、山東京伝、恋川春町ら売れっ子戯作者や狂歌師が出入りするが、腐れ縁の絵師・喜多川歌麿には、特別な感情をもっている。
やがて松平定信による文武奨励政治が始まると、時代の流れは予期せぬ方向へ――。
蔦屋重三郎の型破りの半生を、父親ほども年が離れた小兵衛を通して描く。最強バディが江戸の街を闊歩する、極上エンターテインメント小説。
単行本を大幅に改稿し、著者によるあとがき「文庫化までの長い言い訳」を特別収録。
単行本 2014年4月 学研パブリッシング刊
文庫版 2024年10月 文春文庫刊
※この電子書籍は、文春文庫版を底本としています。
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面白い!
「吉原の埒を壊して、不埒者になりたい。吉原を江戸に、江戸を吉原にしたい」そう言った、蔦屋重三郎という男の生き様を描いた作品。文章と、ストーリーに、スピード感が有って、ぐんぐん引き込まれて、あっと言う間に読んでしまった。
Posted by ブクログ
蔦屋
著者:谷津矢車
発行:2024年10月10日
文春文庫
初出:2014年4月、単行本(学研パブリッシング刊)
NHKの大河ドラマ、来年は江戸の版元(出版社)の蔦屋重三郎の話ということで、蔦屋関連の書籍が随分出ているらしい。しかし、本書は外せないと思う。10年前に出た小説で、今年、文庫化された。文庫化にあたって追加された著者あとがきによると、10年前に出た「蔦屋」のお陰で、常に「蔦屋」の谷津矢車と紹介されてきて、その呪縛から逃れたかったらしい。だから、蔦屋が嫌いだったという。とはいえ、今は好きなようである。最初は連作短編にするつもりだったが、小兵衛のキャラに惹かれて長編になったらしい。
物語は、日本橋で豊仙堂を営む丸屋小兵衛が、廃業を決めて店を売りに出していたところ、蔦屋重三郎が訪ねてきて、信じられないような条件で買いたいと言ってきたところからはじまる。
重三郎と小兵衛のキャラの違いを鮮明に出し、ドラマにも小説にもぴったりというつくりになっている。今年出た同じ著者の「憧れ写楽」と2冊、ドラマを見るには必読、きっと、ぐっと面白く見ることができるはず。
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(読書メモ。ネタ割れ注意。全ストーリー)
第1章
廃業を決めた豊仙堂を訪ねた蔦屋重三郎。店の買収を申し出る。二本を表示。
200両?日本橋の一等地でそれは足許見すぎだろ、と小兵衛。違う違う、20両だと。20両ずつ払う、と。何回払う?(15回で300両なら相場だなあと心の中で思う小兵衛)。ずっと払う、あんたが生きているうちは、と提案する蔦屋。つまり、あんたを雇いたい、という。
取引成立したが、この日本橋の店でどんな本を売るか決めかねている蔦重は、毎日、店がある吉原の引手茶屋で小兵衛を誘って酒宴を張るばかり。そこに、蔦重の知り合いのただ酒大好き男たちが集まる。実はその正体は、狂歌師の宿屋飯盛、文人の大田南畝(四方赤良)、戯作者の朋誠堂喜三二など、名だたるメンバーだった。驚く小兵衛。
ところで、小兵衛のところには、絵師の卵である北川勇助が雇ってくれと言ってくる。給金はなし、飯と墨と紙だけくれれば、炊事洗濯などなんでもするという。かれは、蔦重の遠縁であり、後に喜多川歌麿となる人物。
ついにひらめいた、重三郎。彼らをつかって狂歌本を出す、勇助の絵で惹きつける。
第2章
耕書堂日本橋店が開店した。1年ぶりに開く日本橋の店。初日から客が列をなし、新編狂歌集は売れまくった。重三郎の妻のお春も店に出る。もともと日本橋の呉服屋の娘だけに、客あしらいもうまい。しかし、重三郎は出版までしかせず、奥から出てこない。小兵衛は大福帳つけに忙しい。狂歌本は売り切れ、増刷に。どうしてこう売れるのか、みんなどこで知ってきたのか、小兵衛には不思議だった。普通の版元は、じわじわと1年かけて売り切るのに、重三郎のやり方は違う、わっと売って、増刷する、を繰り返す。
お春が、重三郎が浮気をしているのではないかと心配する。頼まれた小兵は、歌麿を巻き込んで調べる。すると、重三郎は最近、一軒の女郎屋に通っていることが分かった。ついに現場を押さえた小兵衛。しかし、そこは地味な部屋で、それなりの年の地味な女がいただけだった。お雅という遣り手で、狂歌集の宣伝チラシを山東京伝の絵で豪華につくり、吉原で撒きたいとお雅に相談していたのだった。お雅は、重三郎が子供のころからお世話になった人だった。吉原はいろんな人が来るから、幅広い層に宣伝できる場だったのである。
第3章
前年の天明6年に将軍徳川家治が死に、べったりだった田沼意次が老中をくびに。その後釜に面倒な人物がついた。白河の殿様・松平定信。田安家の出身で、吉宗公の孫にあたる。徳川家係累の血筋と譜代大名家の家柄を両刀にし、堅物ぶりを発揮。吉宗公に倣って質素倹約を公言した。
次の展開を車座になって会議するも、アイデアが出ない。耕書堂は次々と狂歌本を出し、売れている。他の版元も追従してきたが、吉原耕書堂の「吉原細見」と日本橋耕書堂の狂歌本は二枚看板となった。こんなにヒットしているのに、どうして3本目の柱が欲しいのか、小兵衛は小首をかしげる。「金儲けがしたいのではない、新しいものを作りたい、吉原から江戸を驚かせたい」と重三郎。
棒手振りの助八が現れた。助八は落語や講談は好きで聞くが、本は読まないという。庶民が喜ぶような本。これが次の柱になりそうだ。重三郎は、三人の戯作者を引手茶屋に招いた。喜三郎、不埒、京伝。そして、驚天動地の案を提案した。黄表紙を書いて欲しいとの提案。恋川春町自画自作の「近々先生栄花夢」が大当たりして黄表紙が認知された。提案を受けたのは喜三郎だった。
天明8年正月、十丁の草双紙に黒山の人だかり。喜三郎が書いた「文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)」。それは、平和になって源頼朝が武士を箱根に集めて文に優れる武士、武に秀でた武士を選別し、どちらにも秀でていない「のらくら武士」に対して叱りつける。これは、松平定信がしている文武に優れた武士を顕彰し、過去に不届きのやったお武士を叱っている「文武奨励策」を揶揄したもの。
増刷を重ねて1万部以上も売れる大ヒットとなった。しかし、喜三郎は冴えなかった。彼が留守居役を務める家中から注意を受けた。これ以上書くと、守りたいが守れない、と。公儀から圧力がかかっている。まさか松平定信が読んでいる?読みかねない。そういう結論に達して、続編の依頼は受けなかった。
続編にあたる黄表紙は、不埒が恋川春町として書いた。「鸚鵡返(おうむがえし)文武二道」。翌年の正月作品。前年をしのぐ、1万5千部を売り切る空前の流行を見た。
第4章
寛政元(1789)年、恋川春町が公儀に二度にわたって召還を受けた。家名断絶か切腹かの選択を迫られた。春町は最後まで戯作の矜持を保ち、墨に毒を混ぜ、それを舐めることによる服毒自殺を図った。
この年は、怒濤の一年になった。売れっ子作家だった喜三二、春町、南畝が離脱し、草双紙や狂歌集に大きな穴が。
翌年の正月の売り出しは新刊の数冊を減らして挑むことに。かつての活気はなかったが、京伝の草双紙は売れ、一番の売れっ子となった。二位は歌麿に。
寛政2年5月、老中による本の取締りが本格的に。触書を出し、時事を扱う戯作類や浮世絵の禁止、卑猥な内容を含む新規創作と昔に刊行された好色物も絶版、過去に材を取りながら今を揶揄する内容の禁止、さらには、「本を新たに仕立てる必要はない。もし作るのならば奉行所の指図を受けること」の一条があり、小兵衛を苛立たせた。しかし、重三郎は突っ走る。
山東京伝が戯作をやめたが、重三郎は通って頼み、引き受けさせる。寛政3年、京伝の戯作が数点発表され、客が買いに走る。3月、ついに強制捜査となり、重三郎も京伝もひっぱられる。結局、重三郎は罰金、京伝は手鎖50日。
第五章
寛政3年秋、小兵衛が倒れた。
それから2年たった小兵衛の話。
寛政4年、歌麿は美人画「当時三美人」を当てている。その歌麿が見舞いに来た。廊下には吉蔵が立っている。後日、一緒に散歩する。
山東京伝が来た。重三郎のところで戯作を出したいという相談だった。手の疼きがあり、手鎖の痛手に勝ってきたという。
重三郎が来た。絵師を見つけたという。つい2ヶ月前に勝川春朗(北斎)という若手絵師を見つけて絵を見せに来たが、速くも見放している。師匠の勝川春章風が抜けきれず、伸びしろがないと判断した。それにかわって、クセのある團十郎の大首絵を描く絵師を発見したという。猿楽役者、東洲斎写楽だった。
写楽の絵を見せに来た。最初に見たのとは少しタッチが違うのが小兵衛には不思議だった。しかし、外を歩けば派手派手しくその絵がまちを賑わせている。重三郎が吉原から売ったに違いない。大田南畝も絶賛している。
小兵衛には、妻と息子がいたが、宝暦(天明の前)時代に流行病でなくしてしまった。墓参りをしていると、お春がまちでみかけたとつけてきていた。小兵衛は仕事ばかりで妻子をほったらかしにしていたことを後悔していた。
正月に出した写楽の絵と、3月に出す予定だという写楽の絵があるが、全然だめになっていた。重三郎は、自分がだめにしたと言っている。
寛政8年12月、重三郎が倒れた。
売り物変更で、草双紙を書いていた戯作者や、挿絵を描いていた絵師に、実学本や子供向け儒学本などの仕事を頼むようになった。反発もあった。説明会で毎日のように宴会をくりかえし、碌に眠らないまま店頭に立っていた。
重三郎とも喧嘩別れをしていた歌麿が、病床を訪ねてきた。
第6章
歌麿は重三郎の病床を覗いたが、動かない。危篤だった。そこで、歌麿は小兵衛に昔話を始めた。重三郎は吉原大門の茶屋などを経営する北川の養子だった。その茶屋は、本当に茶や菓子を出す茶屋だった。歌麿(勇助)は職が長く続かず、くびになるたびに重三郎を便りにして職探しをしてもらった。そんな重三郎が逆に歌麿(勇助)を頼りにしに来た。義父から縁談が来たが、自分は日本橋の呉服商の娘、お春といい仲だという。しかし、お春の父親から反対されている。
勇助はブツブツいいながらも、お春の父親を説得しようとするが、だめだった。そこで弱みを握り、強請った。うまくいった。そんな話の中で、重三郎がどうして仕事をしているのか、それは吉原の埒を壊したかったということがわかる。そして、ずっと日本橋丸屋をずっとひいきしていたことも。
小兵衛も歌麿とは喧嘩別れしていたが、そんな話を聞いていたら、もう一度耕書堂に戻って仕事をしてくれないかと頭を下げた。歌麿は戻ることにした。
実は、重三郎は危篤ではなかった。歌麿が訪ねてくるだろうと思い、小兵衛と仲直りさせるチャンスだと考えて危篤のふりをしたのだった。
エピローグ
二年後、日本橋耕書堂は活気に満ちていた。18歳になった吉蔵も父親譲りの口調で歌麿に接する。お春も商人になっていた。重三郎は2年前に死亡。
そして、小兵衛もなくなる。
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丸屋小兵衞:日本橋の地本問屋・豊仙堂の店主、51歳、店をたたむ決意
蔦屋重三郎:吉原の地本問屋・耕書堂の店主、豊仙堂を買い取り小兵衛の雇い主になる
伍作:丸屋の刷師
与六:丸屋の紙すき
北川勇助:重三郎の遠縁、喜多川歌麿、北川豊章
お春:重三郎内儀
吉蔵:息子
六樹:町人風、狂歌師の宿屋飯盛、家業の公事宿が繁盛
寝惚:武家髷、大田南畝、四方赤良、無役だが御家人当主
喜の字:戯作者の朋誠堂喜三二、40代後半、武家髷、さる家中の江戸留守居役
伝蔵:煙草数寄「京屋」、売り出し中の戯作者、山東京伝
酒上不埒:武家で狂歌師、ベストセラー戯作者の恋川春町、さる家中で役職につく(江戸詰年寄本役)、
○有名絵師
鳥山石燕:歌麿の師匠、妖怪画で有名、狩野派で学ぶ
鳥居清長:美人画の浮世絵師
勝川春朗:重三郎が売ろうとしている若手絵師、勝川春章の弟子
○狂歌三名人
唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)
朱楽菅江(あけらかんこう)
四方赤良(よものあから)=大田南畝
鶴屋喜右衛門:大版元・鱗形屋と覇を競いあった老舗、江戸の地本問屋の顔役