【感想・ネタバレ】在野と独学の近代 ダーウィン、マルクスから南方熊楠、牧野富太郎までのレビュー

あらすじ

近代に入り、大学をはじめ研究機関が整備される中、在野で独学に打ちこむ道を歩んだひとびともいた――。本書は、柳田国男に「日本人の可能性の極限」と評された南方熊楠を軸に、ダーウィン、マルクスから福来友吉、牧野富太郎、三田村鳶魚ら、英日の独学者たちの姿を活写する。さらに郵便、辞書、雑誌、図書館といった「知」のインフラやシステムにも着目。彼らの営為と、変化する環境を通し、学問の意味や可能性を探る。

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Posted by ブクログ

 著者がこれまでずっと専門としてきた熊楠を話題の中心としつつ、大学の枠にとらわれず独学で学び続け、発表し続け、生きて死んでいった人々を辿り直し、これからの在野と官学の関係性を問う本。
 熊楠も、ダーウィンも、三田村鳶魚も、恵まれた家庭環境に育った人であった。本人たちとしては苦汁をなめた日々を過ごしたことであろうし、本人たちがこの世を去った今我々が彼らの書いたものを読んでもそこは共感できるのだが、日々働きながら、その隙間時間を学問にあてる、という生き方をしている身としては、全面的に共感できるとまでは言い難い。(でも、そうはいっても、この人たちは、私とは違って、お金持ちのボンボンだからなあ。おぼっちゃんだったんだからなあ。働かずに一生を過ごせたなんて、いいご身分だこと)と思ってしまうのである。
 柳田國男や牧野富太郎は、熊楠との軋轢で知られる。が、それ以上に、彼ら自身の功績で今も語られ、参照され続ける。でも、それは無数のアマチュアの仕事と人生を、柳田や牧野が実質的には搾取しむしり取り続けた結果でもあった。NHKの朝ドラのように美しい生き方ではなかったのだ。
 柳田や牧野と、熊楠との関係がどうして拗れたのか。著者は、柳田や牧野が、官と民のどちらでもあり、どちらでもない立場にあったことを一因とする。だが、より本質的な指摘は「植物学であろうが民俗学であろうが、情報収集の中心にいるのは、ひとりで充分なのである」(p145)という著者の指摘だ。ほんとにそうだ。そして、その、ひとりの名前だけ後世に遺り、彼に情報を提供した無数のアマチュアたちの名前は消え去り、忘れ去られていくのだ。じゃあ、彼ら彼女らの、学問への情熱は無意味だったのか。そんなわけはない。彼ら彼女らは、名前を遺すために学問に取り組んでいたわけではないだろう。愉しいから取り組んでいたのだろう。
 大学や、大学の教員の価値が、つい最近までの日本では過剰に高かった。今、大学が潰れたり、ネット上で独学者たちが発表をしてそれが注目を集めたりしている。著者はそれを肯定的にとらえている。学問それ自体の厳密性やカテゴリーも、時代時代で変化していく。細分化の時代を経て、かつての博物学がもっていたような総合的な学問の発展に、私は期待したい。

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2025年03月13日

Posted by ブクログ

 研究と言えば大学教授やシンクタンクの研究者が行うもの。このような固定観念を持っている人は多いだろう。在野で個人的に研究を行ういわゆる「アマチュア」がいないわけではないが、「プロ」としての研究者とは隔絶された世界にいると言っても過言ではない。しかし戦前にはその垣根を超えて研究に励んだ人がいる。本書はそういった在野の研究者に焦点を当てたものである。
 
 本書では著者の研究テーマである南方熊楠を半ば狂言回しのような役割に据えることでダーウィン・マルクス・牧野富太郎・柳田国男らについて論じている。いずれも大学で王道的な教育を経て研究の道に入ったとは言い難く、彼らがどのようにして研究を進めていたか、またどのように研究の輪を広げていったかが論じられている。
 
 本書で挙げられた人物の中で私が特に注目したのが2人にジェイムズ・マレーと福来友吉だ。マレーはオックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリー(OED)の編纂に尽力した1人である。彼はほぼ独学で知識に関する素養を身につけ、OEDの完成に多大なる貢献を行った。福来友吉はオカルト本などでは有名なのでご存知の方も多いかもしれないが、かの「千里眼事件」後も研究者生命は絶たれず、長く研究の道に携わった。現代であれば社会的に抹殺されてもおかしくない一大スキャンダルではあるし、全く科学的根拠もないのだが、科学と心霊現象の境界があいまいだった時代における彼の社会的評価は非常に興味深い。誤解を恐れず言えば、心霊現象や超常現象を馬鹿真面目に論証しようとすることもまた科学とも言えるのではないだろうか。

 現代における研究体制について考えされられるとともに、学ぶとは何かについても色々と考えされられる一冊となっている。

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2025年03月09日

Posted by ブクログ

ネタバレ

説明がわかりやすくて良かった。学術的な研究は、あくまでプロの学者がするものという先入観を崩されたような気がした。
南方熊楠と柳田国男が対照的なキャリアを歩みつつも、やり取りを深めともに日本における民俗学を確立させていく過程が興味深かった。

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2024年11月18日

Posted by ブクログ

思考はぐるぐるし、ここに辿り着く。

学費の無償化は子育て世帯の負担を軽くするが、進学率が上がっても、子育てそのものの負担が軽減されなければ、高学歴女子は気軽に出産できない。そもそも、出産が期待される高学歴女子はダブルインカムで金はあるのだ。論点がズレている部分がある。結婚できない層がターゲットだとしても、日本の高校進学率は現状99%、これ以上、進学率を上げるという話にはならない。結婚できない理由に直接アプローチする方が良いのでは。

で、在野の学問だ。大学名で人生が左右される状況を変えなければならない。これは例えば、就職テストや効果的な面接を行ってそこで学力を測れば良いだけでは、という話。または研究内容で評価するにも、在野の成果を認めろと。テスト自体は既に大多数の企業でも実施しているが、エントリー段階での偏差値による「足切り」が問題。少子化により、この足切りを緩和して、もう少し偏差値の低い大学まで間口を広げようかなんて議論は、ファシズム的な匂いすらする。

大学の権威を重視し過ぎていて、決まったレールから外れた場合の軌道修正が難しく、在野や独学からの挑戦もハードルが高い。大学ネットワークのコネの重要性を排し、ドロップアウトした人間でも、年齢やそこまでの経歴に関係なく、就職テストにチャレンジできるようになれば良いのだが。そうすれば、出産育児の不労期間もハンデにはならない。民主主義的手続きにより、権威主義の形を変える。ルールを支配するものが譲らない場合に残された手段は通常革命だが、単に自壊していく路線もあり得る。権威の無効化は難しいが、先ずは権威の間口を広げ、権威の質を変える。

本書は、そんな在野や独学の権威について問い直す一冊。私は独学が好きなので、レールを走り易くする政策よりも、レールの乗り降りをし易くする政策が、優先されるべきという考えだ。

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2024年10月27日

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