あらすじ
「私」とは何か? 「世界」とは何か? 人生の終末期を迎え、痴呆状態にある老人たちを通して見えてくる、正常と異常のあいだ。そこに介在する文化と倫理の根源的差異をとらえ、人間がどのように現実を仮構しているのかを、医学・哲学の両義からあざやかに解き明かす。「つながり」から「自立」へ――、生物として生存戦略の一大転換期におかれた現代日本人の危うさを浮き彫りにする画期的論考。
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
新書やビジネス書を読むときは、面白いと思った箇所に
付箋を貼ったりするのだけれど、これほどたくさんの付箋
を貼った新書はこれまでになかったと思う。気づきを与えて
くれた点や、思わず唸って納得したりする点が随所にあって、
得るものが多かった一冊。
この本の内容をタイトルだけで推測するのは早計。なぜなら、
扱う範囲は「痴呆老人」にとどまらなくて、「認知能力の低下
に対する怖れ」という事象をキーワードに、現在の日本と
日本人が抱えている問題にまで及んでいるのだから。
アプローチは、医学的見地をベースに、哲学や宗教の考え方
を絶妙にブレンドしたもの。哲学や宗教の部分は少し難しい
けれど、このブレンドのおかげで説得力が増しているのは
間違いない。
第一章 わたしと認知症
第二章 「痴呆」と文化差
第三章 コミュニケーションという方法論
第四章 環境と認識をめぐって
第五章 「私」とは何か
第六章 「私」の人格
第七章 現代の社会と生存戦略
最終章 日本人の「私」
付箋を貼った箇所の中でいちばん印象に残ったのは、第七章
で「ひきこもり」について触れた部分。
元々、日本の育児法は伝統的に他者とのつながりを重視
するものだったけれど、20世紀後半になってこの国は「自立」
した人間を育てるという方針に舵をきった。そこで何が起きたか
というと、疑問を解くため、あるいは判断をするための判断
基準を求める子どもに対して、親や教師は回答を与えずに
「自分で考えなさい」と返すようになった。まだ自己決定に
必要な能力を育んでいない子どもはそこで悶々として、
自己決定をしなければいけない場面から意識的に遠ざかる
ようになってしまった。これが「ひきこもり」の始まりだ、
というのが筆者の指摘。
そして、こんな事態を防ぐには、「判断基準というものが
どこにあるのかを子どもに教え込む作業が、前もって、
または同時進行的に行われなければならない」と説く。
この作業をきちんと行う重い責任が大人たちにはある。
Posted by ブクログ
タイトルの付け方がうまいが、内容も高齢者だけでなく、人間万人に通じる深さを持っている。知性にもました情動の大切さ、自立の強調の偏狭さの指摘は身につまされた。一種の文明論である。痴呆老人やひきこもりだけでなく、乳幼児、知的障がい者からも同じ様な洞察が導かれるのではないかと感じた。「つながり」から「自立」へ急激に転換することの危うさ。
・認知症が延命努力に値しない惨めな状態…日本「迷惑をかけるから」、米「自分の独立性を失うから」
・認知症ならば延命措置を断る、というのは乱暴。
・夜中に騒ぐのは、家族との人間関係。
・一番良い経済環境は、老人か家族が全てを出すのではなく、双方が負担するのが発現率が低い。
・偽会話=情動の共有
・理解することではなく、やさしい声音でうなづく。
・一貫した態度をとる。
・「我々の味方でない者は敵だ」は、パニックに陥ったときの認知症の老人の反応と同一。判断能力を超えた不安を感じたから。
・知力低下が進むほど、その人の人格は若い時分に戻っていく。
・人間が人格的まとまりを保ちながら生きるために、自信、誇り、自尊心といった、現在の自我を支える心理作用あるいは自我防御機制が働いている。
・人類史的には人格の単一説は比較的新しい。
・知覚は期待(記憶も)によって操られている。
・「わたしは生きている」のではなく、「いのちが私をしている」。
・うまいつながり…1:周囲が年長者への敬意を常に示す。2:ゆったりとした時間を共有。3:彼らの認知機能を試すようなことはしない。4:好きなあるいはできる仕事をしてもらう。5:言語ではなく、情動的コミュニケーションを活用する
・どの経験にもなにがしかの学びと苦痛と楽しさの要素が含まれている。
・ひきこもりから。見落とされていたのは、現代社会において「自立」することがとても重要であり、そのこと自体に問題などあるわけはないと認識されていて、それを実現させることに疑う余地はないと思われている。
Posted by ブクログ
認知症という抽象的な呼び名で、その実態を不明確にしてしまった高齢者の痴呆を赤裸々に描写しつつ、そこにある種の愛情さえも感じさせられる著者の眼差しに共感を覚える。
Posted by ブクログ
差別用語に当るとされる「痴呆」をあえてタイトルに、「我々は皆、
程度の異なる「痴呆」である」という一文を帯に据えているため、
一見、とても挑発的な内容に思えます。しかし、実際は、極めて真
摯な態度で書かれた好著です(勿論、何故、あえて「痴呆」という
言葉を使うかについては、本書に説明があります)。
「世界とつながって生きるのは大変な作業である、と思うようにな
りました」という一文で始まる本書は、「つながり」のあり方をテ
ーマにしています。それは、痴呆=認知症が、記憶が定かでなくな
ることによって、世界とのつながりがほどけてゆく過程である、と
著者が捉えているからからです。
つながりを喪失することの不安。これは何も認知症の高齢者に限っ
たことではないでしょう。およそ人間である限り誰もが抱える極め
て普遍的で根源的な不安だと思います。
だからこそ、つながりを喪失することの不安におびえ、存在のあわ
いを生きる痴呆老人を見つめることは、私達自身のつながりのあり
方を考えることになるのです。
実際、「話を通じさせる、ではなく、心を通わすのが、認知症の老
人とのコミュニケーション(意思疎通)の極意である」というよう
な一文は、普段の私達のコミュニケーションの場面において忘れら
れがちな大切なことを思い出させてくれます。
もっとも、私が一番心を動かされたのは、米国帰りのエリート医学
者であった著者が、痴呆老人に出会うことによって、自身のそれま
で拠って立っていた価値観を根底から突き崩されるような衝撃を受
けたことを告白している箇所でした。
その時の衝撃を「寒くて薄暗い部屋で汚れた布団に寝ている半身不
随の老人は、わたしのエゴイスティックで誇り高い自負心を一挙に
萎縮させる展望であり、アメリカという競争社会で植えつけられた
能力主義的価値意識を根底からゆさぶるものでした」と著者は述べ
ています。
恐らく人は、自分が理解できないものに出会い、それまで拠って立
っていた価値観に破れが生じた時、成熟の扉を開けるのでしょう。
その意味で、私は、本書を、若きエリート医者が辿ってきた成熟の
物語であり、「医学」ではなく「医療」を選んできた著者の信仰告
白であり、認知能力の衰えを自覚できるまで生きることのできた感
謝を捧げる祈りの書として読みました。その点に本書の最大の魅力
があったのだと思います。
仏教哲学の解説など、一部、非常に難解な箇所もあり、新書にして
はかなり読み応えがありますが、人と関わり合うことの意味につい
て考えさせてくれる好著です。是非、読んでみてください。
=====================================================
▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
=====================================================
「痴呆」になったら延命措置を拒否する理由として、日本では圧倒
的多数が「家族や周囲の人に迷惑をかけたくないから」と答える、
と述べました。・・しかし、アメリカを中心とした英語の文献から
うかがわれる「痴呆を怖れる理由」は、圧倒的に「自己の自立性が
失われるから」でした。
コミュニケーションという名詞には、コミュニケイトという英語の
動詞が対応しており、ラテン語のコミュニカレに由来します。これ
には情報を共有する、という現代人が理解する意味と同時に「共に
楽しむ」という古義があり、「楽しい」という情動(感情)を共有
するという含意があります。
幼稚園児にお母さんと一緒の図を描かせると、大多数はお母さんと
並んで手をつないでいる図になります。親しい人との自然な位置関
係は、相対峙するのではなく、二人が一緒に同じ方向を向いている
もののようです。
一般に痴呆症の男性は誇り高く、人間関係を結ぶことが下手で孤高
を守ることが多いのです。
ここで注意しておきたいのは、彼らにとって「現実」は「事物」で
はなく「意味」であることです。・・・しかし世の中の「介護者」
には、老人の「事物誤認」を叱り、矯正しようという教育的情熱に
溢れた人がじつに多いのです。そのため老人は、せっかく見つけた
「意味」を見失い、混乱してしまいます。
論理より雰囲気、情報より情動が、生存にとって基本的に重要なの
です。それは生物進化の道筋からも窺われます。哺乳動物だけが情
動という働きを発達させたのは、情動のない生物(爬虫類など)よ
りも生存に有利だからでしょう。
成長を環境・世界とのつながりを形成していく過程、老化をつなが
りを失っていく過程、と解釈することも可能です。
外界とのつながりを断念した人が、過去の記憶の世界につながりを
求めようとするのは、自然な心理作用であると思います。・・・
「私」は、現在の情報にせよ、過去の記憶にせよ、なにかに「つな
がっている」必要があるのです。
年齢に伴う機能低下や、はっきりした病気があっても、自分が家族
や友人を含む広い意味での社会環境とうまくつながって生きている
という感覚があれば、その人は「健康」でありうる。・・・認知能
力の低下した老人に対しても敬意を払うというマナーは、その人が
自分の人生は価値あるものだったと感ずる上で意味を持ちます。
認知能力の落ちた高齢者にとっての「うまいつながり」とは、・・
(1)周囲が年長者への敬意を常に示すこと、(2)ゆったりとし
た時間を共有すること、(3)彼らの認知機能を試したりしないこ
と、(4)好きなあるいはできる仕事をしてもらうこと、(5)言
語的コミュニケーションではなく情動的コミュニケーションを活用
すること、などによって形成されるものと考えられます。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
●[2]編集後記
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」。これ
は江戸時代の稚児の段階的養育方法を教えることわざだそうです。
(越川禮子著『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』講談社+α新書)
江戸時代の賢者達は、人間は脳と身体と心とから成り、心は、脳と
身体を結びつける、操り糸のようなものと考えたそうです。「三つ
心」とは、数え三歳までにこの心の糸をしっかりと張らせるという
ことで、1日1本、3年間で 365×3=約1000本の糸が張れるように心
がけたのだそうです。
そして、六歳までに、その心の糸の上手な動かし方を手取り足取り
まねをさせ、身体に覚えこませる。それが躾です。
このことわざに影響されてというわけではないですが、とにかくま
ずは心の糸を張り巡らせる、そのためには、何でもやらせてみて、
経験させてみて、感じさせてみる。それが、数えで三歳になる娘に
対する我が家の方針です。
が、さすがに、二歳になる頃から、目に余る行為が増えてきました。
そこで、数え三歳だし、ぼちぼち真剣に躾をしようと、不当な行為
に対しては、厳しくあたるようになりました。特に食事中の行為に
ついては、相当に厳しく接するようにしています。
その一つが、食事中の姿勢。ふんぞり返ったり、テーブルに足を乗
せたりするのは、厳禁です。足を乗せようものなら、思いっきりは
たき落とします。躾の効果が出てきたのか、最近は、以前よりもち
ゃんとするようになってきました。
遠慮することなく、ダメなことはダメと強く出ればいいんだな、と
思っていた矢先、今度は私が娘にダメ出しされるという苦い経験を
しました。
それはこの週末、書斎で読書をしていた時のことです。私、実は、
勉強机に足を投げ上げて、椅子にもたれて本を読むのが大好きです。
私の書斎にちょこちょこと入ってきた娘は、何食わぬ顔で私のとこ
ろまで来ると、「足、ダメ!」と真顔でダメ出しするではないです
か。
当たり前ですが、決して叱るだけでは躾はできないのですね。自分
の立ち居振る舞いが試されているのだな、と我が身を振り返ったの
ですが、その一方で、本を読む時くらいリラックスさせてよ、とい
う思いもあり、なかなか悩ましいものです。
Posted by ブクログ
認知症であると診断された肉親などを持つ方々だけでなく、多くの人に読んでもらいたい本だと思いました。老人だけでなくひろく人間というものに必要なものがなにかを教えてくれます。
この本を読んでいるのといないのとでは、身内に認知症患者やその他引きこもりや統合失調症などの精神疾患患者が出た時のショックの度合いや接し方が絶対に違うと思います。立ち返ればごく基本的なことですが、その一見誰にでもわかるようなことを手に入れられないときに人は心を病んでしまうものなのだろうなと思います。もしも親が認知症だと言われたら、もう一度この本を手にとって読み返してみたいと思いました。
Posted by ブクログ
この本を読むと、きっと人に優しくなれる。
改めて人の一生を考えさせてくれる一冊。
前半は痴呆老人の現実。
後半はそれをもたらす深層心理についてで、
ユングや池田晶子を簡単にしたような感じ。
すごくわかりやすい。
自分たちの思考回路が、
日本人という人間であることに深く起因していることに気づく。
Posted by ブクログ
この本に救われた。
大好きな祖父がボケ始めたのは、私のせいだ。
14年前、私のつくったストレス状態が、脳梗塞を招いたのだ。
退院した祖父は痴呆症状を徐々に悪化させていった。
しばらく伯母の家にいたのだが、
手に負えなくなり、施設に入ることになった。
会いに行くと、祖父が帰りたいと言って涙を流すので、
母は祖父に会いたがらない。
私が実家に帰っても、
祖父に会う時間は数日間のうち1時間もなかった。
最期の10年間、一緒にいた時間は半日もない。
そのほとんどが、祖父が死んだ病院に入院してからの時間だ。
祖父は、私のことを覚えていなかった。
他人というより、祖父の姿をした宇宙人のような気がした。
私のことを思い出して欲しいなんて
贅沢なことは思わなかったけど、
一度でいいから通じ合いたいと思っていた。
祖父が亡くなってから、この本を知った。
いわゆる痴呆老人は、なぜ徘徊するのか。
なぜおかしなことを言うのか。
なぜ妄想にとりつかれているのか。
たくさんの「なぜ」が丁寧に紐解かれていった。
これまで読んだ本にはない新しい視点だった。
祖父は宇宙人ではなく、
最後まで祖父だったんだとわかった時、
心がスッと楽になった。
たくさん謝りたいことはあるけど、
祖父なら許してくれるはずだ。
祖父は私のことが好きだったのだし、
最後まで祖父は祖父だったのだから。
Posted by ブクログ
ただの認知症解説の本ではありません。痴呆を入口として自己のあり方、日本文化へと広がっていきますので読み手は後半考えさせられますね。第5章あたりから。終末期医療で無力感を感じるときに。噂には聞いてたけどこの著者はスゴイ方です。
Posted by ブクログ
痴呆老人への診療体験を通して「自我」について考察.人が「私」をつくる過程では社会•他者とのつながりが重要で,認知症の老人にも何かしらつながりを与えると自我を捉えることができ落ち着くらしい.認知症への不安についての問いかけで,欧米人は自分の自立性がなくなることが不安と答えるのに対して,日本人は他者への迷惑が不安と答えるとのこと.文化の差異が出ていておもしろい.
最終章はちょっと話が変わってしまった感じもするが,全体的におもしろかった.
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
「私」とは何か?
「世界」とは何か?
人生の終末期を迎え、痴呆状態にある老人たちを通して見えてくる、正常と異常のあいだ。
そこに介在する文化と倫理の根源的差異をとらえ、人間がどのように現実を仮構しているのかを、医学・哲学の両義からあざやかに解き明かす。
「つながり」から「自立」へ―、生物として生存戦略の一大転換期におかれた現代日本人の危うさを浮き彫りにする画期的論考。
[ 目次 ]
第1章 わたしと認知症
第2章 「痴呆」と文化差
第3章 コミュニケーションという方法論
第4章 環境と認識をめぐって
第5章 「私」とは何か
第6章 「私」の人格
第7章 現代の社会と生存戦略
最終章 日本人の「私」
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
痴呆老人の奇異な言動の背景には、痴呆老人独特の世界の解釈方法が存在する。というのは、痴呆老人はそれまでの人生におけるアイデンティティを発揮できるような環境の構造を、そのまま今の状況にあてはめ、それに沿った行動をとることが多い、ということ。以上が筆者の痴呆に対する考察だと思われる。(人間とは、自分の置かれた環境や状況の中で自我を拡張していきたがる存在という前提があり、それについても詳しく説明されている。)
具体的なコミュニケーション方法論は少なく、また痴呆の概念や関する記述は定説ではなくて筆者個人の意見である印象をうけた。しかしそれでも、痴呆に対して気が楽になる考え方を提示してもらえたと感じている。
あと老いる事に対する文化差の話しが面白かった。
最後の日本社会に関する考察を展開している章は、痴呆とは直接的には関係ない話だし、筆者の憶測にすぎないのであまりいらなかったかな。あと文章が論理的というより感情的だったのが残念な点。
Posted by ブクログ
著者の大井玄さんは、医者で、終末期医療や痴呆(「認知症」という言葉は使わないそうです)について見識の深い方。
その著者が、この本では、痴呆の要因や、痴呆老人がどのように現実の世界と関わっているかについて考察しています。 また、そこから派生して、“「私」とは何か”“多重人格”“ひきこもり”についても述べられています。
(「痴呆」についてはもちろん面白かったのですが、「ひきこもりの考察(“つながり”と“自立”の関係)」もかなり面白かった)
Posted by ブクログ
勧められたんで読んでみました。
痴呆と関わる中で触れる心の動き、情動が影響する行動の意味を読み解きつつ、今の日本、日本人が立ち帰る場所を示唆してる様に感じました。またボケが誰にでも起こり得る事象、起こる事象であることを理解しいち個人として対応することで介護する側される側が共に好い関係でいられるという事も同時に語られてた様に思えた事は介護の仕事に携わる端くれとして勉強になる本だったと言えます。
Posted by ブクログ
痴呆によって認知能力が低下したとしても、それが譫妄や徘徊などの周辺症状を生むのは、痴呆老人と周囲の世界の関わりに問題があるからだ、と説く。確かに、画期的な論考。介護の現場に活かされれば、介護のあり方が根本から変わるだろう。
ただ、随所に見られる床屋政談は余計だ。
Posted by ブクログ
2008/1
タイトルから福祉の本と思ったら大間違い。導入こそ福祉的な視点だが、次第にどんどん思想や哲学的な話に展開していく。
正直1回読んだだけでは理解しづらい部分もあり、もう一度じっくり読んでみたいということで、異例に評価は高くしている。
Posted by ブクログ
ある地域では痴呆の中核症状は出ていても問題行動はないという話しが面白かった。介護の仕事しているので大いに参考になった。周りの人の理解、というか敬老思想って中国ではないけれど大事な事なのですね。当たり前の事を当たり前には言えない時代……
Posted by ブクログ
□認知症が延命努力に値しない理由の考え方。日本:迷惑をかけるから。英米:自分の独立性、自律性をうしなうから。
□認知症の明確な診断はできない。
□競争のなかでは自我を拡張し自己と他者の絆を断ちきる必要かある。
□表面上は同じ行為でも心理的反応はそれぞれ。
□週末期ケアでは医療・看護・介護のすべてを一緒に考える必要がある。
□他罰的な風潮と本人、家族の意向。
□話を通じさせるのではなく、心を通わせる。
□会話内容ではなく情動を一致させる。
□認知能力が衰えたひとは敵と味方を区別する(白黒付けたがる)
□相手がどのような世界に住んでいるのか知り、共有する。
□家庭や施設での異常行動自体と、周りの対応の仕方を把握して今後の対応を決める。
□敬老的言語構造がある地域は認知症の周辺症状を表しにくい。
□「世界を開くパスワード」は何か。最大限の敬意を払う。
□環境と環境世界は違う。見たいと思っているものを見る。一水四見。ひとは最も苦痛の少ない状態を選ぶ。
□過去の経験の記憶が行動を支える行動認識になっている。話を聞かなければ始まらない。
Posted by ブクログ
終末期医療全般に関わっている医者が、自分の終末期に「痴呆」などについて考察した一冊。「痴呆」以外の内容も興味深いが、とくに沖縄と東京の「痴呆」の周辺行動の比較などがおもしろかったです。一読の価値あり。
Posted by ブクログ
「一水四見」
ただの水でも見方によって、異なる意味となる。
この言葉に象徴されるように、一人一人見ている世界は違うが、痴呆の老人への医療を通して、痴呆老人が見ている世界を考える。
その過程で「周囲とのつながり」で自己を保っていることを指摘し、周囲とつながってることについて、価値観や文化の違いから焦点を当てていく。
痴呆老人についても書いてあるが、主な内容は社会における周囲とのつながりからの影響だろうか。
最後の方では、つながりから見た社会のあり方なども述べている。
Posted by ブクログ
糸井重里氏の『ほぼ日新聞』の書評で良い評価だったので読んでみた。
題名は「痴呆老人は-」なので、最初は認知症(この表現の不適切さを著者は本書で訴えているが)についての本かと思っていた。
確かに出だしは認知症だが、それがコミュニケーション論⇒人格論⇒引きこもり問題⇒日本文化論とテーマが移っていくので密度はかなり濃い。(その分各論についての十分な説明がなされていないような気がするが、紙面の関係上仕方ないと思う。)
そして各論、特に後半部分は記述内容が結構難しく、僕には(能力的にという意味で)ちょっと理解できなかったのが残念である。
ただし、前半部分である、痴呆についての洞察は素晴らしく、「痴呆ではなぜ『若返り現象』がよく発症するのか?」というところなんかは、いわゆる「目から鱗」だった。
痴呆や引きこもり等のテーマに興味がある方、かなり難しい個所もあるけれど、「ぼけ防止」のつもりで、トライして見られては如何?
Posted by ブクログ
なんでぼけるのがイヤなのか 日本人は迷惑をかけるから 他の国では自分自身がなくなるから日本人にとって 対人関係はとても大切で痴呆というのは 人間関係の問題だということが わかりました
Posted by ブクログ
認知症の患者が文化や環境でその症状が変わるという導入部分はわかりやすかった。日本人もこれからは、認知症になれば、人に迷惑をかけるから、自立性が損なわれると考える人が増えるだろう。
哲学書だったのですね。難しいはずだ...。
Posted by ブクログ
著者は臨床医として1979年から「ぼけ老人・寝たきり老人」と呼ばれる人たちを診ることになり、その人々の中では何が起こっているのかを考えるようになる。
本書はある機関紙の連載として「痴呆症」が「認知症」に変えられる前から始まっていたということと、「「認知症」が用語としてきわめて不完全であることから、必要な場合には「痴呆」を残しました。その最大の理由は、われわれは皆、程度の異なる「痴呆」であるからです」ということからこの題名となった。カバーの折り返しに「終末期を迎え、痴呆状態にある老人たちを通して見えてくる、正常と異常のあいだ、そこに介在する文化と倫理の根源的差異をとらえ、人間がどのように現実を仮構しているのかを、医学・哲学の両義からあざやかに解き明かす」とあるのが、内容をよく要約している。
2005年春から、「痴呆症」の代わりに「認知症」という呼称が使われるようになったが、それに対する著者の意見には同意できる。「「痴呆症」という言葉に、差別的意味合いがあるからといわれます……結局、「差別」をもたらす名称とは、その社会で「異質」であり、社会の多数派から疎まれる対象に貼られた「ラベル」と理解されているようです。換言すれば、多数派が好まぬ異質な特性を連想させる表象です。とすれば、差別の本当の原因は、ラベルそのものより「異質で厭わしい特性」にあります。病気はその好個の例で……差別用語を非差別用語へ変えたところで、その特質――「異質で厭わしい」という「認識」自体が変わらないなら、単なるラベルの貼り替えにすぎません。」
人の心のあり方を仏教の唯識の考え方で説明しているが、「つながりの自己」がキーワードになると思う。日本人は「家族や周囲の人に迷惑をかけたくない」と考え、また一方では「引きとめようとする周囲の力」もある。「年齢に伴う機能低下や、はっきりした病気があっても、自分が家族や友人を含む広い意味での社会環境とうまくつながって生きている、という感覚があればその人は「健康」でありうる」のだという。実際、著者が純粋痴呆とよぶ、知力が低下した老人が他人に迷惑な周辺症状を現すことなく、おだやかにふつうに過ごすことができる例がある。
と、ここまで書いたが、本書の全体像をうまく伝えられない。読み終わって、目が開かれたような気もするが、なにやら霧がかかったまま終わってしまったようにも思える。著者は、読者を啓蒙しようとするのでもなく、認知症の扱い方を説こうとするのでもなく、自分も認知能力の中核である記憶力が衰え始めた一人の高齢者として、人の心の中で何がおきるのかにただ迫ろうとしているせいなのかもしれない。