あらすじ
「私」とは何か? 「世界」とは何か? 人生の終末期を迎え、痴呆状態にある老人たちを通して見えてくる、正常と異常のあいだ。そこに介在する文化と倫理の根源的差異をとらえ、人間がどのように現実を仮構しているのかを、医学・哲学の両義からあざやかに解き明かす。「つながり」から「自立」へ――、生物として生存戦略の一大転換期におかれた現代日本人の危うさを浮き彫りにする画期的論考。
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Posted by ブクログ
差別用語に当るとされる「痴呆」をあえてタイトルに、「我々は皆、
程度の異なる「痴呆」である」という一文を帯に据えているため、
一見、とても挑発的な内容に思えます。しかし、実際は、極めて真
摯な態度で書かれた好著です(勿論、何故、あえて「痴呆」という
言葉を使うかについては、本書に説明があります)。
「世界とつながって生きるのは大変な作業である、と思うようにな
りました」という一文で始まる本書は、「つながり」のあり方をテ
ーマにしています。それは、痴呆=認知症が、記憶が定かでなくな
ることによって、世界とのつながりがほどけてゆく過程である、と
著者が捉えているからからです。
つながりを喪失することの不安。これは何も認知症の高齢者に限っ
たことではないでしょう。およそ人間である限り誰もが抱える極め
て普遍的で根源的な不安だと思います。
だからこそ、つながりを喪失することの不安におびえ、存在のあわ
いを生きる痴呆老人を見つめることは、私達自身のつながりのあり
方を考えることになるのです。
実際、「話を通じさせる、ではなく、心を通わすのが、認知症の老
人とのコミュニケーション(意思疎通)の極意である」というよう
な一文は、普段の私達のコミュニケーションの場面において忘れら
れがちな大切なことを思い出させてくれます。
もっとも、私が一番心を動かされたのは、米国帰りのエリート医学
者であった著者が、痴呆老人に出会うことによって、自身のそれま
で拠って立っていた価値観を根底から突き崩されるような衝撃を受
けたことを告白している箇所でした。
その時の衝撃を「寒くて薄暗い部屋で汚れた布団に寝ている半身不
随の老人は、わたしのエゴイスティックで誇り高い自負心を一挙に
萎縮させる展望であり、アメリカという競争社会で植えつけられた
能力主義的価値意識を根底からゆさぶるものでした」と著者は述べ
ています。
恐らく人は、自分が理解できないものに出会い、それまで拠って立
っていた価値観に破れが生じた時、成熟の扉を開けるのでしょう。
その意味で、私は、本書を、若きエリート医者が辿ってきた成熟の
物語であり、「医学」ではなく「医療」を選んできた著者の信仰告
白であり、認知能力の衰えを自覚できるまで生きることのできた感
謝を捧げる祈りの書として読みました。その点に本書の最大の魅力
があったのだと思います。
仏教哲学の解説など、一部、非常に難解な箇所もあり、新書にして
はかなり読み応えがありますが、人と関わり合うことの意味につい
て考えさせてくれる好著です。是非、読んでみてください。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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「痴呆」になったら延命措置を拒否する理由として、日本では圧倒
的多数が「家族や周囲の人に迷惑をかけたくないから」と答える、
と述べました。・・しかし、アメリカを中心とした英語の文献から
うかがわれる「痴呆を怖れる理由」は、圧倒的に「自己の自立性が
失われるから」でした。
コミュニケーションという名詞には、コミュニケイトという英語の
動詞が対応しており、ラテン語のコミュニカレに由来します。これ
には情報を共有する、という現代人が理解する意味と同時に「共に
楽しむ」という古義があり、「楽しい」という情動(感情)を共有
するという含意があります。
幼稚園児にお母さんと一緒の図を描かせると、大多数はお母さんと
並んで手をつないでいる図になります。親しい人との自然な位置関
係は、相対峙するのではなく、二人が一緒に同じ方向を向いている
もののようです。
一般に痴呆症の男性は誇り高く、人間関係を結ぶことが下手で孤高
を守ることが多いのです。
ここで注意しておきたいのは、彼らにとって「現実」は「事物」で
はなく「意味」であることです。・・・しかし世の中の「介護者」
には、老人の「事物誤認」を叱り、矯正しようという教育的情熱に
溢れた人がじつに多いのです。そのため老人は、せっかく見つけた
「意味」を見失い、混乱してしまいます。
論理より雰囲気、情報より情動が、生存にとって基本的に重要なの
です。それは生物進化の道筋からも窺われます。哺乳動物だけが情
動という働きを発達させたのは、情動のない生物(爬虫類など)よ
りも生存に有利だからでしょう。
成長を環境・世界とのつながりを形成していく過程、老化をつなが
りを失っていく過程、と解釈することも可能です。
外界とのつながりを断念した人が、過去の記憶の世界につながりを
求めようとするのは、自然な心理作用であると思います。・・・
「私」は、現在の情報にせよ、過去の記憶にせよ、なにかに「つな
がっている」必要があるのです。
年齢に伴う機能低下や、はっきりした病気があっても、自分が家族
や友人を含む広い意味での社会環境とうまくつながって生きている
という感覚があれば、その人は「健康」でありうる。・・・認知能
力の低下した老人に対しても敬意を払うというマナーは、その人が
自分の人生は価値あるものだったと感ずる上で意味を持ちます。
認知能力の落ちた高齢者にとっての「うまいつながり」とは、・・
(1)周囲が年長者への敬意を常に示すこと、(2)ゆったりとし
た時間を共有すること、(3)彼らの認知機能を試したりしないこ
と、(4)好きなあるいはできる仕事をしてもらうこと、(5)言
語的コミュニケーションではなく情動的コミュニケーションを活用
すること、などによって形成されるものと考えられます。
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●[2]編集後記
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「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」。これ
は江戸時代の稚児の段階的養育方法を教えることわざだそうです。
(越川禮子著『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』講談社+α新書)
江戸時代の賢者達は、人間は脳と身体と心とから成り、心は、脳と
身体を結びつける、操り糸のようなものと考えたそうです。「三つ
心」とは、数え三歳までにこの心の糸をしっかりと張らせるという
ことで、1日1本、3年間で 365×3=約1000本の糸が張れるように心
がけたのだそうです。
そして、六歳までに、その心の糸の上手な動かし方を手取り足取り
まねをさせ、身体に覚えこませる。それが躾です。
このことわざに影響されてというわけではないですが、とにかくま
ずは心の糸を張り巡らせる、そのためには、何でもやらせてみて、
経験させてみて、感じさせてみる。それが、数えで三歳になる娘に
対する我が家の方針です。
が、さすがに、二歳になる頃から、目に余る行為が増えてきました。
そこで、数え三歳だし、ぼちぼち真剣に躾をしようと、不当な行為
に対しては、厳しくあたるようになりました。特に食事中の行為に
ついては、相当に厳しく接するようにしています。
その一つが、食事中の姿勢。ふんぞり返ったり、テーブルに足を乗
せたりするのは、厳禁です。足を乗せようものなら、思いっきりは
たき落とします。躾の効果が出てきたのか、最近は、以前よりもち
ゃんとするようになってきました。
遠慮することなく、ダメなことはダメと強く出ればいいんだな、と
思っていた矢先、今度は私が娘にダメ出しされるという苦い経験を
しました。
それはこの週末、書斎で読書をしていた時のことです。私、実は、
勉強机に足を投げ上げて、椅子にもたれて本を読むのが大好きです。
私の書斎にちょこちょこと入ってきた娘は、何食わぬ顔で私のとこ
ろまで来ると、「足、ダメ!」と真顔でダメ出しするではないです
か。
当たり前ですが、決して叱るだけでは躾はできないのですね。自分
の立ち居振る舞いが試されているのだな、と我が身を振り返ったの
ですが、その一方で、本を読む時くらいリラックスさせてよ、とい
う思いもあり、なかなか悩ましいものです。
Posted by ブクログ
□認知症が延命努力に値しない理由の考え方。日本:迷惑をかけるから。英米:自分の独立性、自律性をうしなうから。
□認知症の明確な診断はできない。
□競争のなかでは自我を拡張し自己と他者の絆を断ちきる必要かある。
□表面上は同じ行為でも心理的反応はそれぞれ。
□週末期ケアでは医療・看護・介護のすべてを一緒に考える必要がある。
□他罰的な風潮と本人、家族の意向。
□話を通じさせるのではなく、心を通わせる。
□会話内容ではなく情動を一致させる。
□認知能力が衰えたひとは敵と味方を区別する(白黒付けたがる)
□相手がどのような世界に住んでいるのか知り、共有する。
□家庭や施設での異常行動自体と、周りの対応の仕方を把握して今後の対応を決める。
□敬老的言語構造がある地域は認知症の周辺症状を表しにくい。
□「世界を開くパスワード」は何か。最大限の敬意を払う。
□環境と環境世界は違う。見たいと思っているものを見る。一水四見。ひとは最も苦痛の少ない状態を選ぶ。
□過去の経験の記憶が行動を支える行動認識になっている。話を聞かなければ始まらない。