あらすじ
「わたしの家も,この街も,置いていけばゴミになるの?」 「ゴミ」「星」「林檎」……戦争の体験は人が言葉に抱く意味を変えてしまった.ウクライナを代表する詩人が避難者の証言を聴き取り,77の単語と物語で構成した文芸ドキュメント.ロバート キャンベルが現地を訪ねて思索した手記とともに,自ら翻訳して紹介.
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匿名
この本に収められているウクライナの人達の言葉は、深刻なのに時に可笑しくも美しい。日常に戦争が入り込んでしまった人たちにとっては、普通の言葉や単語ですら重い物語を持つのだと実感させられました。
Posted by ブクログ
書店で見かけた一冊。
ウクライナ終戦が、早まるかと思った今年(2025)だったが、各国の思惑が錯綜し、なかなか実現されない。終戦後の秩序模索を謳った書籍もチラホラではじめている中、敢えての火中の栗……でもないが、戦禍の下で拾った、現場感、臨場感あふれる生の言葉を集めた本書。
戦争語彙とは? 冒頭に訳者が列記している「疎開」、「学徒動員」「千人針」「慰問袋」といった今ではお目に書かれない単語に、「予科練」「焼夷弾」「空襲」「予科練」といった軍事、武器に関わる言葉もそれに含まれる。
そういった、ある種特異な語彙集かと思って頁を繰ると、その予想は裏切られる。あらゆる日常の単語が、戦時下においては意味が変わって来る。あるいは、普段、あまり注意を払わず、当たり前にあることで口の端にすらのぼらないような言葉が、強烈なイメージを伴ってくる場合もある。
そんな、戦争の非日常さを、改めて浮かび上がらせる強烈な語彙集だ。
「空」НЕбО が広がるようすは、ウクライナ語では「開けっぴろげの空の下」、疎開先のポーランドでは「裸の空の下」と表現するらしい。ミサイルが飛び交う今、それは、無防備を意味すると嘆く。自動車の「ナンバープレート」НОМЕРИ は、車中で砲撃されて死亡した身元不明の人の墓標に代わりだ。
突然、戦争が始まった2022年の2月24日。ミサイルの砲撃を受け、「ここを出なければなりません。けれど、ゴミを出さなければなりません。」と、日常と非日常の境にある心情を綴った「ゴミ」СМIТТЯは、真に迫る。
ここは訳の妙だと思うが、「爆ウケ」や「爆上がり」という爆撃の「爆」を使うことば使えなくなったという証言もある「今は言えません。禁句になったんです」と。(「禁句」ТАбУ)。
「身体」ТIЛОの証言者は、「身体のことに一番意識が向くのは痛いときじゃないかな? それがることを一番感じるから。わたし、自分の国のことを身体のように感じるようになるなんて、考えたこともなかったわ」と語る。
ウクライナ語のアルファベット順に語彙の並ぶ前半と、後半は、訳者ロバート・キャンベルによるウクライナ来訪レポだ。上記の単語の発言者にも会って、その背景を聴くなど生々しく実態を明らかにしていく。
文芸誌の編集者は、戦時下言葉の意味、語彙が変わった他に、どんな言葉が現実を伝え得るかを語る。
「私はいつも難しい意味を探し、難解な文学作品を探求し、かなり困難な文学研究をしてきました。しかし今、言葉そのもの、裸の言葉こそが、私の経験を伝える最も強力な道具かもしれません。それが今の私の経験の核心だと思います」
現地の大学でティーチ・インの機会を得た訳者だが、会場の若者の次の発言に返す言葉を失う。
「先生(キャンベル)はさきほどから平和が訪れたらとか、「平和にならないと」とか、何度も口にしていますけれど、「平和」の代わりに「勝利」と言ってみていただけませんか。ふわっとした着地点の見えない「平和」では、むしろわたしたちの言葉も文化も、わたしたちの生命すら脅かされかねないからです」
現地に居るものと、外にいる者との意識の差、現実の捉え方には大きな違いがあることは分かってはいたが、言葉のひとつ一つを見てみても、こうも捉え方が違うのかと驚く。
その一方で、戦地ウクライナで発せられるそうした言葉、言語は違えど、その人にとって大切な言葉は、我々にとっても大切な言葉になり得る。言葉を通じて繋がる、共有しあえる思いがたくさん本書には詰まっていた。
なにより、ウクライナ語とロシア語は、その字面だけ追ってみても、ほとんど方言どうしくらいの差がないことに改めて驚かされる。
可愛さ余って、ではないが、同族嫌悪の最たるものではなかろうかと、遥か遠く日本から本を開きながら思いを馳せるが、今、何を祈ろうか、その語彙が容易に浮かんでこない。
Posted by ブクログ
読みながら記入。
ずっと気になっていた本で、おすすめされとうとう開いてみた。前書きに書かれた、原書?との向き合い方から誠実さが伝わってきて、いいなと思った。
自分の目で見たものの力はやっぱり大きくて、どんな知識人であっても想像を遥かに超えてくるはず。今日ちょうどそんな話をしていたこともあって、興味深く読んだ。
正確な意味が取れない文章もあり、でもそれは自分が戦争を経験していない、恵まれた環境だからだなと思ったりもした。
バスタブの話を読んで。
戦時下にあると聞くと、どうしても映画などで見る避難中の状況が浮かぶ。でも戦争が日常に侵食してくるということ。他の本を読んだ際にも感じていて、もう何度目か分からないけど、このことをまた思い知った。
シャワーと砲撃が一緒に語られるのを意外に感じてしまう。このふたつは遠くにあると、平和の中で暮らす自分はそう思い込んでいた。
反省…ともきっとまたちょっと違って。うまく言えないけど申し訳ない気持ちになる。
無自覚に、どこかで他人事だと思ってしまっていた自分にまた気付かされた。
きっと読み取りきれてないけど、今読めてよかったのだと思う。
生
振り返ると、着弾地点から遠くない建物の入口付近にあるベンチで、ピンクの毛布にくるまって座っている人を見かけました。日間ぼっこをしているのかな、と思ったら、ベンチの上にもたれかかって不自然な恰好で倒れるのが目に入りました。
今年の三月八日、女性たちには生と死が配られることになりました。わたしたちは、生の方をもらいました。
ニュース
つまりそれは、僕らの街からは見えないけれど、聞こえてくる戦況のことです。今日起きた恐ろしい出来事を聞き逃してはいけないからと、小さな喜びを分かち合うことさえ怖がっている始末です。
その時に気づくんです。何もかも、以前とは違うのだと。朝ご飯も、犬の散歩も、表面や膜に過ぎないのだと。では、膜の内側にはいったい何が入っているのだろう?戦争が始まる前にそこにあったものは、一体何だったのだろう?
"わたくしが短期間の滞在中に覚えた漠とした不安と緊張は、そこに住むすべての人々の肩と心につねに硬く冷たい現実としてのしかかっていることを改めて思い知りました。"