【感想・ネタバレ】戦争語彙集のレビュー

あらすじ

「わたしの家も,この街も,置いていけばゴミになるの?」 「ゴミ」「星」「林檎」……戦争の体験は人が言葉に抱く意味を変えてしまった.ウクライナを代表する詩人が避難者の証言を聴き取り,77の単語と物語で構成した文芸ドキュメント.ロバート キャンベルが現地を訪ねて思索した手記とともに,自ら翻訳して紹介.

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Posted by ブクログ

紐解き始めてみて、頁を繰る手を停めることが出来なくなってしまった。強く惹かれてドンドン読み進んだ。或いは、ウクライナ関係のモノということでは「こういうモノこそ読みたかった」というような気もしている。
ウクライナの詩人でエッセイストでもあり、様々な活動をしているオスタップ・スリヴィンスキーの作品を、米国出身で、日本で活動する日本文学研究者で大学教員でもあるロバート・キャンベルが翻訳し、併せてロバート・キャンベルがウクライナを訪ねての経験を題材とするエッセイが収録されている。「2部構成」のようでもあるが、完成形になった作品を前半に示しながら、それが登場する迄の経過が関連する挿話を綴ったモノが後半に在るという、「両者で1つ」というように自身は理解した。
オスタップ・スリヴィンスキーは主にウクライナ西部のリヴィウで活動している。ロシア・ウクライナ戦争が始まり、戦禍を逃れようとする人達がリヴィウに集まる中、その人達を支援する活動に携わるのだが、そうした中で聴いた多くの話しを記憶に留めて、掌篇として書き綴り続けた。話しのキーワードを綴った篇の題名とした。そしてその各篇の題名を辞書の要領で、アルファベット順に並べる形で発表した。題して『戦争語彙集』である。全体で77篇在る。何れも1ページ、2ページというような次元の、正しく掌篇である。
ロバート・キャンベルはこの作品に惹かれ、翻訳して日本で紹介することを思い立ち、準備に取り掛かった。ネットでの通信でオスタップ・スリヴィンスキーと遣り取りをし、ウクライナを訪ねて御本人や、他の様々な人達に会うという計画もした。そして英語版を基に日本語翻訳を起こし、ウクライナ語・ウクライナ文学の研究者の助力を得て、ウクライナ語原版と対照する検討も加え、本書の前半の部分は完成したという。
日本語訳された各篇は「ランダムに並んでいる?」というように見えるが、全て原版のウクライナ語の辞書の要領(=アルファベット順)で並べたモノをそのまま写している。各ページにはウクライナ語で篇の題名に用いられた単語が示されている。
「戦争の語彙」とでも聞けば、所謂“軍事関係”な用語が多く出て来るのかと思わないでもない。が、本作『戦争語彙集』はそういうことではない。示される語彙は、一般的に誰でも使うような日常の語である。それらが「戦争」という様子の中で人々から発せられる時、そうした普通の語彙に「如何いう意味が込められる?」というようなこと、その語彙のキーワードで「何が語られる?」というようなことが主眼だ。
ゆっくりとこの作品の部分を読んだ上で、ロバート・キャンベルによるウクライナ訪問のエッセイを読んだ。
このエッセイの部分では、オスタップ・スリヴィンスキーが『戦争語彙集』を綴るに至った経過、その活動での心象の変遷というようなことが詳しく語られる。更に、オスタップ・スリヴィンスキーに綴るべき話しを提供した人達の話しも在る。
深く考えさせられたのは“沈黙”ということや、戦禍の中での文化や芸術の意味というようなことだった。
本当に疲れ果てて、言葉を発する気力も失うような中での“沈黙”というモノに、戦禍を潜り抜けた人達は包まれてしまう場合が在る。戦禍は文化活動のようなモノを吹き飛ばす、或いは塗潰すという面を持っているかもしれない。が、それでも表現する、それを観るというようなこと、何かを読んで考えて語らうようなことという文化活動は人には求められるのかもしれない。そういう話題の提起が在って考えさせられた。
そして大学教員でもあるロバート・キャンベルは、リヴィウ大学関係者と連絡を取って、大学で学生や教員への講演を行い、質疑応答や意見交換が為された。加えて『戦争語彙集』を事前課題として参加者に読んで頂き、それを題材とした対話も行っている。このリヴィウ大学関係の部分は興味深く読んだ。或いは「語彙」ということになるのかもしれないが、「平和」という語に対し「それは“勝利”に替えるべきだ」という意見が参加者から在った。こういう現在の事態に関する幾つも在る観方の一環が少し直截的に伝わった。
正直、2022年2月に事態が動いた時の連日のような情報発信に比べ、最近はウクライナの事態に関して少し静かになっているようには思う。が、当時の「とりあえずロシア非難」というような言説が喧伝されていて、何が如何なっているのか静かに観て考えようということを排撃するかのような調子よりは好いかもしれない。現場はウクライナで、ロシア側は「特定軍事行動」と称しているが、如何いうように観ても「大規模な軍事侵攻」で、それに抗う戦闘行為が発生すれば、そういうのは「戦争」と呼ぶ他に無い。戦争になれば、最も困るのは現地に在る普通の人達である筈だ。それでも「とりあえずロシア非難」というような言説が喧伝されていたような頃、ウクライナの人々の苦境を思いやるようなことを軽視するかのような感さえ否定出来ず、個人的には不快感を禁じ得なかった。過去の経過の故に、個人的な次元では縁者が両国に散って在る例も多く、事態に複雑な想いを抱いている人達も非常に多いというようにも思う。そして「非難!」と拳を突き上げるだけでは、事態の収拾を目指すこともし悪いようにも思う。
こういうような考えを持っているので、「人々に寄り添う」というようにして話しを聴いて掌篇を綴ったという本作は強く惹かれる。本作の原版が登場した時点で、2022年2月から1年半程度であった。もう直ぐ2年で、何処迄、如何続くのか、如何幕引きが為されるのか判り悪い状況ではある。そうなれば、更に「人々の話し」は出て来るであろう。オスタップ・スリヴィンスキーはそれらを更に綴り続けるという意向のようではある。興味深い反面、戦禍の少しでも早い幕引きを願うので、何時までもこの「語彙集」が綴られ続ける状況というのも考え物ではあろう。が、戦禍の幕引きの中での「語彙」というモノもまた在り得るかもしれない。
ウクライナの事態に少しでも関心が在るのであれば、本作は是非読むべきだと思う。非常に貴重な一冊だと思う。

1
2024年01月24日

Posted by ブクログ

バスタブのシェヘラザード、黄色いランプ、林檎の落ちる音。
人々の祈るような語りは美しく、鮮やかで、凄まじい。

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2025年06月19日

Posted by ブクログ

現実と違って、どこかユーモラス。
コントや漫才の一場面みたいな。

この本が出版された後も、まだまだ戦争は続いている。

0
2025年06月04日

Posted by ブクログ

国の傷みと体の痛みが連動して感じられる能力、他人を全く恐れることなく自信と信頼を持って関われるようになる能力、通常の状態では発揮されない精神の飛躍がある。
環境の変化がニュータイプを生むという発想は正しい。
しかしそれが戦争という過酷な状況でしか生まれないのは何とも悲しいことだ。

他者の中にこそ、私性は宿るというこの当たり前の事実が、先々事実として認識されるようになると良いな。

0
2025年03月12日

Posted by ブクログ

言葉がシェルターになる。
戦争・侵略は、言葉の意味を変える。

避難してきた方々から、溢れでる言葉から、感じ、想像する様々な感情、風景。

そして、単なる語彙集とせず、現地を訪れ、その語彙の周りも丁寧に取材され、記録されたロバートさんの手記で、その語彙の奥行きが深まる。

この語彙集は、本望では無いにしろ、続巻が出るのだろう。そして、必ず読む。他人事ではなく、隣人のこと。

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2024年07月24日

Posted by ブクログ

ロシアに侵略を受けたウクライナ、市井の人々の体験、ロバートキャンベル氏の思索。言葉の持つ力、言葉は第二のシェルター。戦争解説ではなく、イデオロギーはまったくない。ウクライナの人々・戦争被害者の困難な状況、戦争の終わり・平和、はつまり勝利への思いが言葉で伝わる。

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2024年05月06日

Posted by ブクログ

この本におさめられているウクライナの市井の人たちの言葉は、とても深刻で、時に可笑しくも美しくもあります。日常生活に戦争が入り込んでしまった人たちにとっては、普通の言葉、単語ですらとても重い物語を持つのだと実感されました。ただそのような言葉、物語を語ることで救われることもあるのでしょう。キャンベルさんの、「言葉もシェルターになれるのではないか」という問いがとても響きます。

0
2024年02月23日

Posted by ブクログ

 先に読んだ鷲田清一さんのエッセイ「「透明」になんかされるものか」の中の一文で紹介されていたので気になった本です。
 著者のオスタップ・スリヴィンスキーさんはウクライナの詩人。本書は、ロシアによるウクライナへの侵攻下、国内各地から彼が住むリヴィウに避難してきた人々の声をそのままに書き起こした著作です
 本の中に並ぶ淡々とした表題のあとにつづく言葉の背後には、それこそ極限状態の感情の吐露が感じられます。

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2025年11月15日

Posted by ブクログ

戦禍にあるウクライナの人の生の声。それと日本語翻訳を担当したキャンベルさんのウクライナ訪問記という2部構成。日本にはいま時代を逆行する憲法「改悪」の流れがあるが、どうせやるなら権力者や資本家や役人が国民を害する決定を下せないことを明文化する「改正」のムーブメントを起こせないものだろうか。

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2025年08月24日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 書店で見かけた一冊。
 ウクライナ終戦が、早まるかと思った今年(2025)だったが、各国の思惑が錯綜し、なかなか実現されない。終戦後の秩序模索を謳った書籍もチラホラではじめている中、敢えての火中の栗……でもないが、戦禍の下で拾った、現場感、臨場感あふれる生の言葉を集めた本書。

 戦争語彙とは? 冒頭に訳者が列記している「疎開」、「学徒動員」「千人針」「慰問袋」といった今ではお目に書かれない単語に、「予科練」「焼夷弾」「空襲」「予科練」といった軍事、武器に関わる言葉もそれに含まれる。
そういった、ある種特異な語彙集かと思って頁を繰ると、その予想は裏切られる。あらゆる日常の単語が、戦時下においては意味が変わって来る。あるいは、普段、あまり注意を払わず、当たり前にあることで口の端にすらのぼらないような言葉が、強烈なイメージを伴ってくる場合もある。
 そんな、戦争の非日常さを、改めて浮かび上がらせる強烈な語彙集だ。

 「空」НЕбО が広がるようすは、ウクライナ語では「開けっぴろげの空の下」、疎開先のポーランドでは「裸の空の下」と表現するらしい。ミサイルが飛び交う今、それは、無防備を意味すると嘆く。自動車の「ナンバープレート」НОМЕРИ は、車中で砲撃されて死亡した身元不明の人の墓標に代わりだ。
 
 突然、戦争が始まった2022年の2月24日。ミサイルの砲撃を受け、「ここを出なければなりません。けれど、ゴミを出さなければなりません。」と、日常と非日常の境にある心情を綴った「ゴミ」СМIТТЯは、真に迫る。
 ここは訳の妙だと思うが、「爆ウケ」や「爆上がり」という爆撃の「爆」を使うことば使えなくなったという証言もある「今は言えません。禁句になったんです」と。(「禁句」ТАбУ)。

 「身体」ТIЛОの証言者は、「身体のことに一番意識が向くのは痛いときじゃないかな? それがることを一番感じるから。わたし、自分の国のことを身体のように感じるようになるなんて、考えたこともなかったわ」と語る。

 ウクライナ語のアルファベット順に語彙の並ぶ前半と、後半は、訳者ロバート・キャンベルによるウクライナ来訪レポだ。上記の単語の発言者にも会って、その背景を聴くなど生々しく実態を明らかにしていく。

 文芸誌の編集者は、戦時下言葉の意味、語彙が変わった他に、どんな言葉が現実を伝え得るかを語る。
「私はいつも難しい意味を探し、難解な文学作品を探求し、かなり困難な文学研究をしてきました。しかし今、言葉そのもの、裸の言葉こそが、私の経験を伝える最も強力な道具かもしれません。それが今の私の経験の核心だと思います」

 現地の大学でティーチ・インの機会を得た訳者だが、会場の若者の次の発言に返す言葉を失う。
「先生(キャンベル)はさきほどから平和が訪れたらとか、「平和にならないと」とか、何度も口にしていますけれど、「平和」の代わりに「勝利」と言ってみていただけませんか。ふわっとした着地点の見えない「平和」では、むしろわたしたちの言葉も文化も、わたしたちの生命すら脅かされかねないからです」

 現地に居るものと、外にいる者との意識の差、現実の捉え方には大きな違いがあることは分かってはいたが、言葉のひとつ一つを見てみても、こうも捉え方が違うのかと驚く。
 その一方で、戦地ウクライナで発せられるそうした言葉、言語は違えど、その人にとって大切な言葉は、我々にとっても大切な言葉になり得る。言葉を通じて繋がる、共有しあえる思いがたくさん本書には詰まっていた。

 なにより、ウクライナ語とロシア語は、その字面だけ追ってみても、ほとんど方言どうしくらいの差がないことに改めて驚かされる。
 可愛さ余って、ではないが、同族嫌悪の最たるものではなかろうかと、遥か遠く日本から本を開きながら思いを馳せるが、今、何を祈ろうか、その語彙が容易に浮かんでこない。

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2025年07月26日

Posted by ブクログ

2022年2月24日のロシアの軍事侵略により、主に東部在住のウクライナ人は西部などに避難することになった。鉄道の乗換駅や、西部の都市で避難民を受け入れたり援助活動をするウクライナ人の詩人は、避難者たちの言葉を書き取った。
この原書を知ったロバート・キャンベルがウクライナを訪ねて見たこと、インタビューしたことも収録されている。

まだ渦中にある当事者の言葉って、憎しみとか怒りとかではなくて、本当に日常に基づいたものが多いんですよね。今まで親しんでいたものが変わってまったこと、自分も大変だけど他の誰かを痛ましく思う気持ち。

チョーク:「たすけて」の文字とその下に落ちていたチョーク。このチョークを持って「助けに来たよ」と言えたらどんなに良いか。
バスルーム:戦争前は心身リラックスする安全地帯だったバスルームは、戦争が始まってからは爆撃のときに身を守る安全地帯になった。
ココア:避難者たちはココアを飲みたがった。みんな甘いものが必要なんだ。今はココアをたくさん用意しているけれど、避難者があまり来られなくなってしまっている。
テトリス:避難の荷物をスーツケースに詰め込むためにテトリスをやっていたのだろうか。
ココア:避難者を乗せた列車が着く駅でココアやお菓子を用意している。みんな甘いものが好き。こんなときには余計に。攻撃が激しくなり避難者が降りてこなくなった。ココアも用意しているのに。
ゴミ:この家も、私も、置いていったらゴミになるの?

ロバート・キャンベルによるインタビューや聞き取りもあります。
避難所となった劇場は閉じることはせず、避難者の前で演じた。子供たちは「あの白い服を来た女の人は、死んだ人だね」などと話していて、劇場の人たちは「避難者につらい思いでを主出させてしまったのか」と思う。だが医師は「見えるものにして、再構築することは、前に進むために必要なのです」という。こんなことでも避難者のためになるのであれば。
ロバート・キャンベルの講演に、学生は「平和をめざすというより、勝利を目指すと言ってほしい」という。漠然とした美しい言葉だけの平和では、すぐに破られる事がわかっている。実際ロシアは冬のオリンピック年の3度に渡り侵略してるし。

現在侵略されているのウクライナの人々の言葉は、憎しみとかではなく、以前は日常だったものが今では全く変わってしまったことへの静かなつぶやきが感じられた。そして当事者には「平和」は、結局は勝たないと実現されないよね、って感じているんだな。

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2025年03月29日

Posted by ブクログ

戦争の体験は、一人ひとりが言葉に抱く意味を変えてしまう。

前半は、ウクライナの詩人が実際に避難者の支援をしながら聞き取った証言たち。あらゆる証言に一切の優劣をつけることなるフラットに並べ提示する。マドレーヌ、ニュース、悦び、スイーツ、ゴミ、記事などの語彙にまつわる証言がとくに、戦時の人々の人生や心の置き方として強く印象に残った。

「(…)その時に気づくんです。何もかも、以前とは違うのだと。朝ご飯も、犬の散歩も、表面や膜に過ぎないのだと。では、膜の内側にはいったい何が入っているのだろう?戦争が始まる前にそこにあったものは、一体何だったのだろう?」
(ニュース p.77)
「わたしの家も、この街も、置いていけばゴミになるの?そもそも、そんなことを考えている場合なの?」
(ゴミ p.93)

後半は、ロバート・キャンベルさんが実際のウクライナに入って、詩人や実際に避難を経験した人たちに会って聞いたこと、見たもの、感じたことがエッセイとして書かれている。前半の断片的な証言の奥行きを理解し、立体的にその経験を想像することができる。
その中で、日本からの人たちが無邪気に言う「平和」を求める言葉の数々が、ウクライナの人たちにある種ネガティブに受け止められる場面がある。
「ふわっとした着地点の見えない『平和』では、むしろわたしたちの言語も文化も、わたしたちの生命すら脅かされかねないからです」(p.175)

日本の平和思想と、まさにいま侵略されている国の避難民の現実は一致しえない。私は国際政治においてはどちらかというとリアリズムの立場を取るので、無条件な平和思想には同意できない。前者に基づく言葉は、戦地において空虚に響くだろう。しかしだからといってどちらかをお花畑、どちらかをリアリズムと切り分けるのではなくて、日本において平和思想が根付いた背景も軽んじるべきではないと思う。キャンベルさん自身も、エッセイの中でどちらかが正しいと結論付けることはしてない。

いまのわたしたちは同じ現実を生きているわけではないからこそ、現地での経験をきちんと知らないといけないと思う。

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2024年10月07日

Posted by ブクログ

作品紹介にある通り、ウクライナ戦争により心身共に傷ついた市井の人々の生の声を元にした詩だ。
ニュースやドキュメンタリーとは異なり、直接心に響く。
後半はロバートキャンベル氏が、実際に詩の元になる証言をされた方々との会話を中心に、その心情に触れる。

食べもの
東部地域からやってきた家族を一晩お世話することになりました。
台所に案内して言いました。「ここがキッチン。食卓にある食べものを召し上がってくださいね」。
その瞬間、彼らは泣き始めたのです。「キッチンにある食べものを、召し上がってくださいね」という一言で。

安らかな場所で食べることができる幸せ。
何でもない日常が、彼らにとっては至上の喜びだったりする。

自由
自由といえば、誰かが代わりに手に入れてくれるものではありません。誰かが与えてくれることもなければ、プレゼントしてくれることもなく、誰かに期待することはできないものなんです。自分の手で作る以外にない、ということです。そう、ハンドメイドですよ(笑)。自由を作る工場なんて存在しません。量産品ではないのです。

そう、彼らにとっては自由も死を尽くして獲得するものなのだ。

・私たちが二つの世界大戦で体験したように、戦争は非常に早く場所を変えることが可能なのです。人間の残虐さと人間の優しさには、限界も無く、国境も無い。私たちは正しい側に立つべきです。

彼らは、全世界の人に正義というものを訴えている。

・普通の人々の死に対して無関心であってほしくないです。100人が死亡したというニュースや統計があるとき、それは単なる数です。でも、そこに語られた言葉があれば、それは感情です。

亡くなった人たちには、それぞれに歴史があり、感情があったことを忘れてはいけない。

・(なぜ戦争をしなければならないのか?と言う)問いはもちろん大事です。けれど今、わたしたちは圧倒的な、一方的な暴力にさらされています。生きるか死ぬかの瀬戸際にずっと立たされています。善い戦争というものはない、いつなんどきでも武器を捨てなさい、平和を第一に、そういうことなのか。そのような問答であるなら要りません。今は、そのことを問う時期ではないのです。「平和」の代わりに「勝利」と言ってください。
ふわっとした着地点の見えない「平和」では、むしろわたしたちの言語も文化も、わたしたちの生命すら脅かされかねないからです。

表紙の美しい絵も、ウクライナ人のアナスタシアさんによるものだ。

ロシア(プーチン)の理不尽さを、改めて感じた一方で、このような状況で、私たちはどうすべきかと考えさせられた。

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2024年05月01日

Posted by ブクログ

この本の意義は、証言者の1人であるオレーナさんの語ったところ(210頁)に尽きる。「(他国による侵略という事態を)経験した多くの人々の感情のスナップショット」。「とても新鮮な記憶、とても新鮮な傷、とても新鮮な感情を伝えるもの」。それらを時をおかずに世界中で共有することの重要性。ロバートキャンベルのレポートがこの本とのより深い向き合い方に導いてくれている。

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2024年04月04日

Posted by ブクログ

アレクシェーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」が過去から現代に現れてしまった。
死と隣り合わせになることで、人生が詩になってしまうと言う皮肉。

自由
「自由といえば、誰かがかわりに手に入れてくれるものではありません。誰かが与えてくれることもなければ、プレゼントしてくれることもなく、誰かに期待することはできないものなんです。自分の手で作る以外にない、ということです。そう、ハンドメイドですよ(笑)。自由を作る工場なんて存在しません。量産品ではないのです。」

「今年の三月八日、女性たちには生と死が配られることになりました。わたしたちは、生の方をもらいました」

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2024年03月15日

Posted by ブクログ

ウクライナの人々の日常に起きている生きている言葉

物々しさだったり、ユーモアだったりと
いろんな感情が垣間見れる

後半は、この本をまとめるにあたっての話しだったが
そちらは端折ってしまった

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2024年03月04日

Posted by ブクログ

ネタバレ

読みながら記入。

ずっと気になっていた本で、おすすめされとうとう開いてみた。前書きに書かれた、原書?との向き合い方から誠実さが伝わってきて、いいなと思った。
自分の目で見たものの力はやっぱり大きくて、どんな知識人であっても想像を遥かに超えてくるはず。今日ちょうどそんな話をしていたこともあって、興味深く読んだ。

正確な意味が取れない文章もあり、でもそれは自分が戦争を経験していない、恵まれた環境だからだなと思ったりもした。

バスタブの話を読んで。
戦時下にあると聞くと、どうしても映画などで見る避難中の状況が浮かぶ。でも戦争が日常に侵食してくるということ。他の本を読んだ際にも感じていて、もう何度目か分からないけど、このことをまた思い知った。
シャワーと砲撃が一緒に語られるのを意外に感じてしまう。このふたつは遠くにあると、平和の中で暮らす自分はそう思い込んでいた。
反省…ともきっとまたちょっと違って。うまく言えないけど申し訳ない気持ちになる。

無自覚に、どこかで他人事だと思ってしまっていた自分にまた気付かされた。
きっと読み取りきれてないけど、今読めてよかったのだと思う。


振り返ると、着弾地点から遠くない建物の入口付近にあるベンチで、ピンクの毛布にくるまって座っている人を見かけました。日間ぼっこをしているのかな、と思ったら、ベンチの上にもたれかかって不自然な恰好で倒れるのが目に入りました。
今年の三月八日、女性たちには生と死が配られることになりました。わたしたちは、生の方をもらいました。

ニュース
つまりそれは、僕らの街からは見えないけれど、聞こえてくる戦況のことです。今日起きた恐ろしい出来事を聞き逃してはいけないからと、小さな喜びを分かち合うことさえ怖がっている始末です。
その時に気づくんです。何もかも、以前とは違うのだと。朝ご飯も、犬の散歩も、表面や膜に過ぎないのだと。では、膜の内側にはいったい何が入っているのだろう?戦争が始まる前にそこにあったものは、一体何だったのだろう?



"わたくしが短期間の滞在中に覚えた漠とした不安と緊張は、そこに住むすべての人々の肩と心につねに硬く冷たい現実としてのしかかっていることを改めて思い知りました。"

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2025年08月14日

Posted by ブクログ

戦地から避難してきた人々の証言で集めた言葉をまとめたもの。悲惨な話、ユーモアのある話、詩的な話と色々あった。私はきっとこれから祈る度に、占領地を脱出する際にイスラム教徒の女性に祈り方を教わって一緒に祈った人のことを思い出すと思う。
…とはいえ、訳者の旅行記パートによって全体的にあざとい作りになってしまった感は否めない…

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2024年06月22日

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