【感想・ネタバレ】山本五十六(下)のレビュー

あらすじ

下巻では、聯合艦隊司令長官に任命された山本五十六が、いよいよ真珠湾強襲の構想を固めるところから、昭和18年4月18日、ブーゲンビル島上空において敵機の襲撃を受け壮絶な最期を遂げるまでを克明に綴る。世界を震撼させた天才提督の栄光と悲劇を、膨大な資料と存命者の口述を基に、生き生きと甦らせ、激動の昭和史を浮彫りにした、必読の記録文学である。

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Posted by ブクログ

ネタバレ


誰よりも英米との戦争に反対しながら、自らその火蓋を切らざるを得なかった提督の一生の話。
航空機の登場によるゲームチェンジ(大艦巨砲主義の終焉)、軍縮条約は日本にも利があること(彼我の国力・工業力の圧倒的な差から、無制限建艦競争に陥れば日本に勝ち目はないこと)を説き優れた大局観を持ちながらも、個々の作戦の企画・遂行の局面では山師的な危うさを感じさせる。

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2024年02月24日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ヨーロッパでのフランスの弱い立場に乗じて,日本は仏印北部へは既に進駐していたが,昭和16年7月29日に日仏共同防衛議定書が正式に調印され,その日のうちに,日本の陸海軍部隊は仏領インドシナ南部(今の南ベトナム)の地に進駐を開始した。日本の南方進出に神経質になっていたアメリカは,手早い反応を見せ,しっぺがえしのように日本の在米資産の凍結を行い,8月1日には広範囲な対日輸出禁止措置をとった。それは,綿と食料品だけを除外し,石油を含む一切の物資を,今後日本向けに積みださせないというものであった。アメリカから石油が来なくなったら,日本は4ヶ月以内に南方の資源を求めて立ち上がるか,屈服するしかあるまいというのは,貯蔵量や消費量から割り出された一般的な考えであった。当時日本が平時状態で必要とした石油の量は,年間海軍が200万t,陸軍が50万t,民需が100万tの合計年間350万tで,今日私達が輸入して使っている原油が2億tであるので,その60分の1の燃料の問題が,日本が国運をかけて戦争を決する直接の引き金となった。

このため海軍は否応無しに戦争の気構えを固めなくてはならなくなった。それからというもの,航空艦隊は鹿児島湾一帯を真珠湾に見立て,実践さながらの猛訓練を行った。

9月12日,山本は近衛首相と東京で会見している。その中で,近衛は以前と同じ『アメリカと戦争をしたら勝てるか』と問い,山本は『是非に私にやれと言われれば,1年や1年半は存分に暴れてご覧に入れます。しかしそれから先のことは全く保障出来ません』と答えている。この発言に対し,井上成美は山本に『ああいう言い方をすれば,軍事に関して素人で優柔不断な近衛首相は,とにかく1年半は持つと,曖昧な気持ちになることはわかっている。海軍の見通しは如何と言われて,なぜ山本さんは,海軍は対米戦争をやれません,やれば負けます,それで長官の資格がないと言われるなら辞めますと,そう言い切らなかったか。連合艦隊4万の部下の手前,戦えないと言うことは,さぞ言い難かったに違いないが,その情は捨てて,敢えてはっきり言うべきでした』と言った。山本がなぜ近衛公に『1年や1年半は暴れてみせる』と言ったのか,井上は,それは山本の部下への思いやりだと言っているが,やはり,鍛えに鍛えた力を,一度は実践で試してみたいという,軍人特有の心理が,多少とも山本の心の中に動いたのではないだろうか。そして,長い間『腰抜け』と言われてきた事への反発や,郷里長岡の人たちに,『さすがは五十さんだ』と思わせてみたいという心理が働いたのではないだろうか。

そして遂に12月2日の夜,機動部隊は『新高山ノボレ一二〇八』を受信する。この日,旗艦赤城の増田飛行長の残した日記には『すべては決定した。右もなく,左もなく,悲しみもなく,また喜びもなし』と記載されていた。

真珠湾攻撃は,アメリカ側もその奇襲がある事を知っており,アメリカが戦争に後ろ向きな国内世論を開戦の方向に引っ張り込むために仕掛けたものであると言われている。このためか,真珠湾攻撃は見事に成功する。

その勢いをかって,徹底的に壊滅状態に追い込めば良かったのだが,それをせずに,日本の海軍は引き返してしまう。太平洋戦争における帝国海軍の絶頂期は,悲しいかな,開戦時の真珠湾攻撃のみであったように思う。確かにソロモン海戦では,劇的な勝利も得ているが,それは一時的なものにすぎない。帝国海軍は,ミッドウェー海戦以降,滅びの足音が徐々に迫ってきたといえる。

ミッドウェー海戦の目的の主眼は,ハワイにいる(正確には,ハワイにいるであろうと日本軍が想定していた)アメリカ艦隊を誘出し,決戦を強いることであった。シンガポール陥落後の早期講和のチャンスを逃したが,ミッドウェー海戦にかけた山本の思いは,その早期講和のチャンスを今一度ミッドウェーでつかむということだった。しかしながら,ミッドウェー海戦は,沈めても沈めても,打ち落としても打ち落としても次から次にやってくるアメリカの軍艦・戦闘機という圧倒的な物量攻撃と,敵に暗号が読まれていた事などにより,アメリカ軍に叩きのめされ,回復不可能な打撃を被ってしまった。これ以降,海軍は,行く先々で海空からの波状攻撃に成すすべなく,終戦に向けて次第にその決戦地を南太平洋から日本近海へと撤退して行く。

山本はガダルカナルの戦線が困難を極めている事を知り,その戦線に最も近いショートランド島方面の基地を日帰りで激励に行って来たいと言い出した。ニューブリテン島のラバウルから,南東約300kmのところにブーゲンビル島があり,この島の南端にブインの基地がある。この巡視計画には,不賛成を唱える人が多かった。しかし,山本がきかないので,仕方なく計画は実施された。

予定通り,山本をのせた陸攻は離陸したが,あと少しでブインというところで,不意にアメリカの戦闘機の急襲を受けた。1式陸攻323号機の山本機ブーゲンビル島のジャングルの中に墜落した。すぐに捜索隊が出されたが,捜索隊は山本ほか10名の遺骸と飛行機の残骸を発見した。山本には下顎部からこめかみへ抜けた弾痕があり,飛行機がジャングルに突入する前に機上で戦死したものと思われる。おそらく,今回も,山本の前戦入りをアメリカ軍が事前に知り,待ち構えて撃墜したものと思われる。事実,戦後にアメリカ側から,暗号解読による山本搭乗機の待ち伏せの成功ということが発表されたのであった。検死の結果,昭和十八年四月十八日午前七時四十分が死亡年月日時であった。

山本の後に連合艦隊の指揮のとれる人は山口聞多ぐらいしかいないと言われていたが,山口は先にミッドウェーで戦死していたし,その他,小沢治三郎は年功序列の縛りで指揮は任せられないだろうと言われた。結局,山本の死により,帝国海軍はおしまいだと,多くの海軍関係者,政府,国民が感じたことであろう。

連合艦隊の指揮はもとより,多くの人が山本には戦後の時局収拾をしてもらおうと考えていたのではないか。山本は事実,戦前,親米英派と言われていたし,国民の間に不平不満の声が上がっても,『これは山本大将が決めたことだから』と言えば,多くの人が堪えられるだろうという考えでもあった。そんな山本を失った日本は,レイテ海戦,沖縄戦,原爆投下,終戦へと突き進んで行った。

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2021年10月15日

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