【感想・ネタバレ】闇の左手のレビュー

あらすじ

〔ヒューゴー賞/ネビュラ賞受賞〕両性具有人の惑星、雪と氷に閉ざされたゲセンとの外交関係を結ぶべく派遣されたゲンリー・アイは、理解を絶する住民の心理、風俗、習慣等様々な困難にぶつかる。やがて彼は奇怪な陰謀の渦中へと……エキゾチックで豊かなイメージを秀抜なストーリイテリングで展開する傑作長篇

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Posted by ブクログ

ネタバレ

なぜ一人きりでこの惑星へ送られてきたのか、と言う問いに対してゲンリーの言った台詞、「一人ではあなた方の世界を変えることはできない。しかしぼくはあなた方の世界によって変えられることができる。」が印象に残った。
あくまで同盟は各々に主体的に決めてもらうと言うスタンスだったはずのゲンリーが、エストラーベンの愛国心を超えた人類への忠誠心に突き動かされ、彼に報いるため、星船を呼ぶ。さらにその過程で同郷のはずの仲間よりも、ゲセン人に愛着を持つようになる。
文化も価値観も身体構造すら異なる相手と、理解しきれぬまま友情が芽生え、その地に愛着がわき、変わってしまう様子が面白かった。
帰属意識や性、性のない社会での愛とは?色々考えさせられる小説だった。
序盤は見慣れない固有名詞が多く、とっつきづらいが、慣れれば合間に挿入される神話や民話は面白いし、後半の過酷な旅パートも読む手が止まらなくなるほど物語に引き込まれた。長いこと積んでいたが、読み始めればあっという間に読んでしまった。

あとは細かいところではエストラーベンの朝が弱そうな描写が2回くらいあって面白かった。

0
2025年10月10日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ほかの惑星を侵略するのでなく同盟を結ぼうとする話だが、その骨の折れること。たったひとりの使節が相手国の説得にあたることの危険性よりも、降り立つ地の文化と選択を尊重することを重視した姿勢が、新鮮でよかった。
前半は政治的な話が続き掴みどころのない物語だったが、不思議ともう一度読みたくなる。遺伝子実験により両性具有となった人類についても興味深い点がたくさんあった。
登場人物の誰の話にも、常に問いがあった。そのどれにも明確な答えはなく、あれこれと浮かんでは消え、最後に残ったのは友への深い友情だった。
生まれた星、育った国、言語、文化、習慣、体のつくりも何もかもまったく違う者同士が、互いを理解し合うことの難しさを思った。なにか共通項があるからこそ分かるものがあるのだろう。
どこかで誤解し合っていたアイとエストラーベンが、旅を通して時間を共有し語らうことで理解を深め、真の友情が育っていくのが一番の見どころだった。
エストラーベン視点の語りが冷静でニュートラルでとても好ましかった。どことなく古い言い回しをするのも、感情の起伏がなく落ち着いている様子が伝わってきてよかった。生きていてほしかったなと思わずにはいられない。いずれ語り継がれる存在となるのだろう。

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2024年12月27日

ネタバレ 購入済み

氷の惑星と両性種族。

銀河連合的な組織に所属する地球人が、使者となって極寒の辺境惑星(冬=ゲセン)へ訪れ、艱難辛苦を経て(冬)の連合入りを成立させる話。
中世ヨーロッパ的な国カルハイドと共産圏的なオルゴレインの二大勢力があり、知り合ったカルハイド人の親友(両性具有種族で政治家)とカルハイドを追われ、オルゴレインでも独り収容所送りとなる。しかし、親友エストラーベンの救出作戦で脱出。
南極に似た土地を二ヶ月逃避行して、再びカルハイドの王を訪れ、翻心させるまでのストーリー。
氷原の旅の終わりにエストラーベンは逃走中射殺されるが(ある意味自殺)、連合使者としての任務は成功し、エピローグで友の父と息子に日記を届ける流れは、ただただ切ない。
ちなみに、悪役は政治的に失脚するので宇宙戦争系では無く、主人公が両性具有者と恋人となるような展開も無い。(発情期に危うくはなるが、結局我慢するので)

#切ない

1
2025年06月14日

Posted by ブクログ

ネタバレ

もぐりと言われることを覚悟で告白するが、実はアーシュラ・K・ル=グィンという作家を知ったのはつい最近だ。
『ゲド戦記』はもちろんタイトルは知っていたが、ジュブナイルというイメージがあったため食指は伸びず。
今回手にとった理由は、『Dune』の解説で、12年おきに発表されるローカス紙でのオールタイム・ベストSFという賞で、『闇の左手』が1975年、87年、98年にそれぞれ3位、2位、3位で入賞していると知ったからだ。2012年には5位に入賞している。
ちなみにオールタイムと名がついているが、20世紀と21世紀に分かれている。
ヒューゴー賞とネビュラ賞に関してはいたるところで書かれているので割愛。

ル=グィンの”ハイニッシュ・ユニバース”と呼ばれる未来史の一作品。
そう、これは未来史なのだ。

読み始めた印象は、SFというよりファンタジーだった。
そのため、あ、これ『第5の季節』系かな…、と少し警戒した。女性にSFは書けないのかと。
しかしながら読み進めるうちに、ああ、これは壮大なSFをベースにした物語だ、と気づいた。
多くは語られないが、舞台の外にある世界の構築はソリッドなものだ。その世界の中で一つの異文化の星に焦点を当てるという意味では、『Dune』に通じるものがあるかもしれない。
重厚で、静か。

物語の重厚さの大きな要因は、その世界観の作り込み。
特に舞台となる星、ゲセンの文化のリアリティは素晴らしい。文化、気質、価値観など、時に独自の言葉を用いて表現される。それらの用語が日本語訳にならないのは、やはり適切な言葉がないからなんだろうな。

ハードSF系では人間とは異なる生命体が描かれることが多く、生物学的に違いはあるとはいえ、見た目が地球人ライクというのは、ややリアリティに欠けるという点で、SFというよりはファンタジーと言えるかもしれない。
異星というより、異国なような印象。
姿形が似ているのは作中ではもちろん理由があり、その昔高度な文明を持つハインという星の住人が人間型の生命をばらまいたから。地球もその一つ。
しかしながら、作り込まれてはいるのだけれど個人的に残念に思うのは、地球人がハイン人によるものであれば、この物語は現在の地球の進化論を否定している、という点。これはル=グィン自身の信仰故なのかもしれないが(宗教を持っているのかは不明だが)、やはりハードSF好きとしては残念に思ってしまう点だ。

ゲセンで最も大きな特徴は、ジェンダーレスという点。ゲセン人は両性具有な人種として描かれる。ジェンダーレスという点においてこの作品はフェミニズムSFに分類されるようだが、私にはそれはただ単に文化的・生物進化的に異なる世界なだけなように思える。
性の描き方が地球の人類と異なるとフェミニズムと呼ぶのは、なんとなく違和感。
たいていのSF作品の異星人は、姿形こそ異なるが性別が男女で描かれることが多い。2つの性別は無意識的に絶対的なのだ。
そこを変えてしまうのはとても実験的であるという点で、フェミニズム云々ではない面白さがあるのだと思うのだけどどうだろう。
もっと違う方向にドラスティックに変えたのがグレッグ・イーガンだけど。

ゲセン人はさらにケメルという発情期を持ち、その期間は生殖上地球で言うところの男女どちらかの役割を担うことになる。
文化・科学的にも、主人公ゲンリー・アイが暮らしていた世界に比べると発達していない描写もあるが、ケメルという発情期や、性別が変わるという特徴は、なんとなく現在の地球の動物を連想させ、より未開な印象を与える。
これは人類が偉いという私の中の無意識な偏見なのかもしれないが。

さてタイトルの『闇の左手』だが、第二の主人公エストラーベンが口ずさむトルメルの歌から取られたものだ。

 光は闇の左手
 暗闇は光の右手。
 二つはひとつ、生と死と、
 …

この歌のほか、物語の後半には陰・陽など二元論についての言及があり、ゲセン人を理解するためのキーとなる。二つの性別は無意識的に二元論的思想をしっくりくるものと考えるのかもしれない。つまりは性別を持たないゲセン人はその傾向がない/薄いということだ。
このあたりの設定はなかなか面白い。

物語はしかしながら一方で、SFというよりはヒューマンドラマのような。主題として描かれるのは、異なるバックグランドを持つエストラーベンとゲンリー・アイの種別を超えた結びつきと信頼。そのための長い旅。
ストーリーとしては派手さはなく、まるでメインストーリーから外れたスピンオフのよう。主軸の物語はきっとユニバースをまたにかける惑星単位の派手な物語に違いない。
そんな静かで言ってしまえば地味な物語がサーガを構成する一つの物語なんだなー。

そして今更だけど、やはりやはりこの手のシリーズものは他の作品を読んで世界観を知ってこそな気がする。
なので結論はちょっと保留したほうがいいのかもしれない。

ところでル=グィンの”ハイニッシュ・ユニバース”の短編を私は過去に読んでいたことが判明。
『SFマガジン700【海外篇】』の『孤独』。
今読むと確かに『闇の左手』と同じ背景だ。
まずはこの短編をもう一度読んでみよう。

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2022年02月13日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 両性具有の人類とはどんなものだろう。そして、彼らの統治する社会はどんな物になるだろう?性別という概念がそもそも存在しない世界、混ざりあって溶けている世界の常識や世界の仕組みは?本作は『冬』と呼ばれる閉ざされた惑星ゲセンで、両性具有の人類が作り上げた世界の様相と、その惑星の中で巻き起こる国家間の陰謀を描いている。
 こう書くと随分壮大な話に見える。実際この物語は壮大な世界観を持ち、『両性具有の人類による社会』を丹念な筆致で描いているのだが、おそらく本作の本旨はその設定の重厚さにあるのではない。その両性具有の社会にやってきた私たちと同じく性別のある人類――惑星連合エクーメンの使節、ゲンリー・アイと、ゲセンにあるカルハイドという国の重鎮エストラーベンの相互理解に至るプロセスが主題なのだ。
 彼らは全く違う。立場も生まれも人種も違い、生活リズムから『性』の様式まで、最早別の生き物という程に異なっている。作中、ゲンリーもエストラーベンも国家間を巡る陰謀と謀略に巻き込まれ、二人で凍りついた氷河と雪原の中を逃避行する羽目になる。
 ゲンリーは当初カルハイドに趣き、そこの総理大臣職であるエストラーベンとのコネクションを得るが、エストラーベンは隣国オルゴレインに内通したとの讒言で国を追われる身となる。後ろ盾を失ったゲンリーは隣国オルゴレインへと逃げ延びる。そこでもエクーメンへ加入しないかと活動を続けるも、今度はオルゴレインの政争に巻き込まれる形で捕まってしまう。同じくオルゴレインに亡命していたエストラーベンは責任を感じてゲンリーを助け出し、彼らは共に無人の雪原を通り抜けてカルハイドへ逃げ延び、そこでエクーメンへの連絡を試みようとするのだ。
 二人は共に雪原を乗り越える中でお互いの性状に対して理解を深めていく。テント内の温度設定に始まり、お互いの生活様式、精神性、身体機能、これまでの来し方、人生。人の意思などお構いなしな自然の猛威の中、二人が徐々に相互理解に至る過程は非常に丁寧で読みごたえがある。生まれ育った国どころか星すら違い、どころかある種私たちにとっては当たり前である『性別』という概念すらない(違う)相手との相互理解は可能なのか。作者の書きたかったことはこれなのだろうと思わされる丹念な筆致に引き込まれざるを得ない。
 ……のだが。どうしても読みにくいと感じる点も多い。例えば、そもそもここに至るまでが異様に長い。一つの惑星の中にある二国の政治体制や精神性、さらには『両性具有』が社会常識に及ぼしている影響、また二人が亡命に至る理由、その勝利条件などを説明しなければいけないからしょうがないのだが、それにしても長すぎる。話の本質と言えそうな部分が一切始まらず、この長々とした状況説明はいつまで続くのかとウンザリする気持ちがあったことは否めない。
 また、雪原行も二人の相互理解に至る流れが丹念に描かれていて美しいのだが、これもやはり長い。雪原の光景やその恐ろしさ、彼ら二人の間に立ち塞がる困難、それらが執拗に描かれていて、話としてはただ歩いているシーンが延々続くのでぶっちゃけてしまうと結構ダルい。
 最終的に困難を乗り越えカルハイドにたどり着いてからは話が急展開して面白い。エクーメンの宇宙船への無線信号を送付し、そこから話が急展開を迎える。二人の雪原行がもたらしたもの、種族や特性を超えた、ある意味『性別の関係ない、人類同士の間に生まれた純粋な愛』によるエストラーベンの行動は胸に詰まるものがあった。
 これは他の作品では感じられない感覚だと思う。性別のある人種同士の関係性において、私たちはどうしても関係性の基盤に『性別』の影響を排除できない。『異性』同士の間に生まれる友情も、『同性』同士の間に生まれる愛も、結局のところ『性別』という前提があることは拭い去れないのだ。
 だがエストラーベンとゲンリーの間に生まれたそれはなんと形容すればいいのか。異性の性愛、異性の友情、同性の親愛、同性の性愛、全部がある意味そうだし、全部がまったく違う。エストラーベンが異星の友人――便宜上こう表現するしかないが、友情という言葉だけで説明できるものでは無い――に対して誠意と敬愛から示した、自分の死すらも厭わない行為。彼の信仰(ヨメシュ教は自殺を強く非難している)をも覆した愛は、胸を打たれると同時に非常に興味深い。
 ただそれでもやはりこの作品は上記の理由で読みにくいと感じてしまう。また、この作品はあまりにも性別に固執しすぎているようにも思える。地球人たちに見られる性別の区分け、『男は男、女は女』を強固に信じ、それによって生じる『価値』を信じているからこそ、ゲセンの社会を異物として強く書き出しているのだ。
 両性具有というある種性別の消えた世界を描いておきながら、いやだからこそだろうか、作者の中に強固にある『性別という概念への信仰』じみたものを感じずにはいられなかった。
 『どんな人間であれ、男は男らしく、女は女らしく見られたいもの』という作中の文言があるが、なんとなくここに作者の思想が漏れているような気もする。性から解放された人間たち(収容所でケメルという発情期を教える薬を投与されたゲセン人たち)に対して『恥じらいも欲望もないのは人間では無い』『だらしなくしまりがなく粗野だった』と評しているあたりも、作者の性欲や性別に対する信仰というか、『性あってこその人間』的な価値観を強く感じる。
 それこそ最近の社会はだいぶ性別というものの価値が薄くなってきた。性欲にしても同じことのように思う。男と女が自然につがうのが人間の摂理というのは真実だろうが、同時にそれだけと断じるのは単に原始的で野蛮なだけでないか?と思えてしまう。それが生物として自然なのは当然なので否認する気は微塵もないが、仮にも理性を持ち繁栄してきた人間として、自然性に任せるだけが人間の本質などと認めることは理性の敗北宣言では?という気もしなくはない……。別に性欲や性別に左右されない人間だっているだろ、それが多様性だ、と思ってしまう。
 その点から考えると、この作品はあまりにも『性別があることが正常』を前提に話が展開されすぎていて、今の時勢から見ると逆に違和感もあるのかなと感じた。少なくとも私は『この人性別にめちゃくちゃ重要な価値を感じてるんだろうな』と思えてしまった。私は正直『女は女らしく』で扱われると屈辱を感じる方である。性別ではなく私を見てくれよ。
 面白かったしこの作品でしか得られないだろうという未知の感覚もあり、非常に面白い読書体験だった。反面、冗長や読みにくさを感じる面も多く、またそこに描かれている精神性には少し時代のようなものも感じられた。既にSFの古典であるからしてそれはしょうがないと思うので、ほかの古典と同じく当時の時代性を感じながら読めば面白いのではないかと思う。

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2025年08月12日

Posted by ブクログ

ネタバレ

"光は暗闇の左手(ゆんで)
暗闇は光の右手(めて)。" p.282

仰ぎ見るばかりだった偉大な先達に親しみを覚えたのは、二度目か三度目かの『シルマリルの物語』再読の最中だった。トールキン教授の稚気ともいうべき設定を見出して、あの偉大なる世界記述者にも厨二病があった!という喜びを覚えたのである。こちらのレベルへひきずりおろした昏い喜びではない。そういうこともあるのかという、自然現象、不変の真理の発見に近いかもしれない。
すなわち、厨二病は誰にでもある。違いは、公言するかしないかだけ。
厨二病を押し通して面白ければいいが、そういうことは稀であろう。そのようなものは、物語として公表するつもりのなかった設定、神話として公開されるしかなかった文章レベルのものであるべきかもしれないという天啓を得た。慎重に秘匿された厨二病成分はスパイスとして働くのではないか。

『闇の左手』再読では、ル・グィン女史の稚気を見た気がしたが、気のせいかもしれない。初読のときはものすごい好きだと思ったのだが、再読したらそうでもなかったので、どうでもよくなってしまった。
多様性の表現としては今なお見るべきものはあり、DEIというものがいかに在り様を歪めた利権主義であるかを教えてくれる一方で、SFとしては古びた観は否めない。古びた感じが残念だったのだと思う。

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2025年06月17日

Posted by ブクログ

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解説を少し読んでゲド戦記の作者だったこと、そして女性だったことに気づく。

本書の舞台は非常に寒く、気候が厳しい惑星“冬”であり、その舞台設定だけでも興味がそそられるが、そこに住む異星人は両性具有という特徴を持つ。
このゲセン人の特徴による社会には、著者の女性ならではの感覚が反映されており興味深く、気づかされる部分もあった。
繁殖期(?)には女性にも男性にもなりうるため、直前まで伴侶と自分「どちらが妊娠するか分からない」ことで、妊娠・出産、子育てに対する性的な差別感覚がないことや、
繁殖期以外では第二次成長期前の子供のような性的状態に戻る(= 性からくる身体の変調から解放される)という発想は、現代でも(というより現代だからこそ)考えさせられる性別に関するテーマのように思われる。

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2024年04月06日

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