あらすじ
11月も雨のわびしい夜、消えかかる蝋燭の薄明かりの下でそれは誕生した。解剖室などから各器官を寄せ集め、つぎはぎされた身体。血管や筋のひとつひとつが透けて見える黄色い皮膚。そして、茶色くうるんだ目。若き天才科学者フランケンシュタインが生命の真理を窮めて創りあげたもの、それがこの見るもおぞましい怪物だったとは! 無生物に生を与える実験の、しかしあまりに醜悪な結果に、彼はこの生き物を見捨てて逃げ去るのだが……。いくたの映画やドラマ、小説等を通じ、あまりに有名な不朽の名作。
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Posted by ブクログ
ヴィクターの人間らしい憎しみ、憎悪こそがホラー。
ヴィクターの亡霊(ドッペルゲンガー)「怪物」の孤独からくる憎しみ、苦しみとの対比が読者をぞっとさせる。なぜか?
この物語の怖さの本質は「怪物」の見た目の恐ろしさでもなければ、主人公の愛する肉身の数々の非業の死でもない。自分が生み出した生命に対する人間らしいエモーショナルな感情の熱情が怖いのである。明らかに自分に帰ってくる許すべき存在である「怪物」に復讐することに取り憑かれた「哀れな」マッドサイエンティスト、それがフランケンシュタインであり、人間とはそうでしかあり得ない臨場感に恐怖する。
「怪物」の視点でこの原作を読むと、その眼差しの奥にアニミズムが宿っていることにも驚いた。そう、「怪物」は常に森に逃げ込み、闇夜から現れる。鳥の囀りや自然の蠢きに癒され、なんと「怪物」自身が「どこから来てどこへ行くのか」と、あのゴーギャンの絵画のタイトルを口にするのだ。そう、人間に造り出された「人造人間」も、孤独に苛まれて人類全てを憎むその感情も理不尽も全て、コントロールできない混沌の外から「やってきた」アニミズム=存在論そのものなのだ。ヴィクターは最後までそのことに気付けなかった物語とも言える。ヴィクター自身の絶望と恐怖と憤怒の感情も同じく混沌からやってきた何かだと。
「スパイラル 推理の絆」が描くものは「フランケンシュタイン」のアニミズムの本質に気付いた「怪物」が自らの寿命も絶望も受け入れ、世界を祝福する物語だ。「フランケンシュタイン」を題材にした物語の中で最も希望に満ちたドラマだが、やはりポイントは結崎ひよのだ。
もしかしたらひよのは、「フランケンシュタイン」では作られなかった「フランケンシュタインの花嫁」だったのかもしれない。そしてひよのというキャラクターは作られた偽物に過ぎないところも素晴らしく、ただ創造主によって造り出された「怪物」にとって都合の良い伴侶役としてのキャラクターをメタ的に破壊してしまう。ある意味「フランケンシュタイン」よりもイジガワルイ。
創造主たる鳴海清隆は自身のクローンである歩に問う
「その底なしの混沌と暗闇でお前を今支えているのは何だ?」
それは偶然(!)歩はひよの(を演じる誰か)を信じる(コーリング)ことができたからだ。そしてひよの(を演じる誰か)は密かに涙でそれに応える(レスポンス)。二人は(そしてブレードチルドレン達は)世界を救うエートスを共有し、別々の道を歩む(responsibility)。
二人の出会いと絆こそが、世界の祝福だ。原作「フランケンシュタイン」はそれに気付けなかった男の末路を描くことで逆説的に世界の祝福の存在を浮かび上がらせる。
Posted by ブクログ
1818年とは想像以上に昔の作品で驚いた。それでも古さを感じ無いし読みやすい。
フランケンシュタインと聞くとどうしても映画のイメージが先にきてしまって原作もB級ホラーなのかと思ったら全然違った。
命を生み出す側と生み出された側の心境の対比が物哀しい。
生み出す側はしっかり最後まで責任持たないと駄目だろう。そんなに醜悪な外見なら綺麗に整えてやればいいのに。自分が作ったものに対してこんなにも嫌悪感を示すとはなぁ。「なんでやねん、お前が作ったんやろが」とつっこまざるをえない。やはり創り上げたときは何かに取り憑かれていたのだろうか。
怪物の気持ちも痛いほど伝わってくる。心理描写や独白の場面は素晴らしい。
しかし、性別を変えて同じものを作ったとしても同様に大きな悲しみを創りだすことになってしまうと思う。
互いを許し、愛すしかない。
解説も素晴らしい。
フランケンシュタイン・コンプレックスの大元となったこの作品に出会えてよかった。
Posted by ブクログ
フランケンシュタインの名前は聞いたことがあるし、あの人造人間のイメージは馴染みがあるが、その由来となった小説は誰も読まない、らしい。
アンパンマンにさえ出てくるのに。
たまたま本屋で出会ったので、読んでみることにした。
まずしょーもないこととして、
フランケンシュタインって、あの怪物の名前じゃないんかよ!
(怪物を生み出した青年科学者の名前です)
一通り読み、まずはフランケンシュタインの無責任さにイラっとする。自分の力を過信して、生命を作ったらそれが醜いからって部屋に逃げ帰って放ったらかし。なかったことにするな!
で、大切な弟が怪物に殺されたと確信しているのに、無実のジュスティーヌが処刑されるのに、逡巡しながらも結局何も言えず、ジュスティーヌは死刑になる。
一方、怪物に図らずも備わった純粋で高貴な性質に…怪物ってなんだ?という思い。肉体と知性だけ備わり、訳もわからぬ状態から必死で生き延びる方法を学び、人との交わりを欲し、必死で言葉と文字を覚える怪物。
自分が愛されない風貌をしていることを折り込んで、どうにか人と触れ合うには…といくらもがいても決してうまくいかない。人からは悪意しか向けられず、とうとう闇落ちしてしまう。
怪物はフランケンシュタインに言う。自分と同じくらい醜い女を作ってくれたら、自分は孤独から救われ、二度と人間に姿を見せない、と。怪物は作り主を憎む一方で、(どうしてこんな風貌に作ったのか)作り主にきちんと向き合って、認めてもらいたかっただけなのだ。
その願いを打ち砕いたフランケンシュタインに、さらなる悲劇が訪れるのだが…。
どうしてもフランケンシュタインの自業自得感が否めない。きちんと自分が作ったものに向き合わずに、復讐だの言ってる場合じゃないのでは。
それと、知識と孤独は非常にくっつきやすいが、重なったら諸刃の剣だ。怪物を生み出したフランケンシュタインもそうだし、人との交わりが不可能な怪物が知識や理性を手に入れることによって、自分に与えられた理不尽さが一層わかってしまうから。
解説によると、この本はSFの起源と言われているらしい。このように現代にもつながる問題提起をしてくれるのは、優れたSF作品の証だと思う。
Posted by ブクログ
人は鏡、不気味の谷現象、というワードが浮かんだ。神話の落とし込みが面白い。人は神にはなれぬという事を訴えてくる作品。
創り出したものに対しての責任、同類への責任。今を生きる私たちもまた無意識に、または好奇心に誘われて突きつけられてしまう問題かもしれない。
Posted by ブクログ
SFの起源と言われている本作、『標本作家』で登場したこともあり、手を取りました。ザ・いつか読みたいとは思っていたが、読んだことがなかった本。
そして読み進めていくうちに、おそらくほとんどの方が思われている「えこんな話だったの…?」「フランケンシュタインって博士側の名前なんだ笑」などなど、思いながら読み進めました。
正直、怪物に同情してしまって、なんというか煮え切らないフランケンシュタインおまえ!!と思ってました。怪物ぅう…そしてこれはある意味BLだなとも思いながら…
「だがすぐに…自分は死に、今感じることももう感じはしなくなる。燃えるようなこの苦悩ももうすぐ終わる。自分は意気揚々と火葬の山に登ってゆき、劫火の苦しみに凱歌をあげよう。大火の明かりはうすれゆき、自分の灰は風に乗り海へとさらわれてゆくだろう。わが魂は安らかに眠る、よしたとえものを思うとも、今のように思いはすまい。さらばだ」
こんな言葉を残して逝く人と、愚かにも自分が責任を負える範囲を超えたものに手を出す人、そして人類とでは、どちらが本当に怪物なのだろう?
人類の行く末を案じさせるような意味で、この本は紛れもなくSFだなと
Posted by ブクログ
フランケンシュタインを単なる怪物と思っていた。
フランケンシュタインは怪物を創った研究者で、怪物も見た目は醜いが知性を備えた生き物だった。怪物は狡猾とも言えるほどの知性を備えているし、感情も持っているし、思索もできる。
人間を創るという発想が、この小説の最大の魅力だろうが、フランケンシュタインと怪物の語りも面白い。
Posted by ブクログ
誰もが知っているフランケンシュタインという名の怪物の原作です。実はフランケンシュタインというのは怪物の名前ではなく怪物を創り出したある学生の名前なのです。読んでみるとこの怪物はもともとは心の優しかったのですが醜い姿のため創造主であるフランケンシュタインにも怖がられ憎まれ誰ひとりとして彼を愛してくれる人はいないのです。フランケンシュタインがものすごく横暴な人だと思うかもしれませんが彼はとても人間らしくあるときは情熱に燃え、あるときは自分の罪に苦しみ。あるときはすべてから逃げようともします。いやそれどころか、常に優しく、愛し合う人のいる一般人以上の人だったでしょう。怪物は自分が受けた苦しみをフランケンシュタインにも与えようとします。二人は同じような苦しみを持ちながらも、互いを憎み合っています。そしてそのバックにはスイスの大自然が広がっているのです。そこで怪物はただ自分を愛してくれるものがほしいのだといいます。それに対してフランケンシュタインは自分が愛する者を傷つけるのではないだろうか。と言います。その時の二人の気持ちはとても似ていてただ愛する者の大切さを訴えています。同じ気持ちなのに怪物とフランケンシュタインは悪と正義として社会からは見れます。これこそがこの物語がホラーとして成り立つ最大の要因だと思います。仮に怪物がまるで人間そっくりにできたのならばただのSF小説として読まれるのではないでしょうか。