あらすじ
世界の本当の姿とは? 天才物理学者が「真実」を明かす
「ホーキングの再来」と評される天才物理学者が「真実」を明かす
イタリアで12万部を売り上げ、世界20か国で刊行予定の話題作!
科学界最大の発見であり、最大の謎とされる量子論。
はたして量子論の核心とは何か、それはどんな新しい世界像をもたらしたのかを、研ぎ澄まされた言葉で明快に綴る。
量子は私たちの直感に反した奇妙な振る舞いをする。
著者によれば、この量子現象を理解するためには、世界が実体ではなく、関係にもとづいて構成されていると考えなくてはならないという。
さらにこの考え方を踏まえれば、現実や意識の本質は何か、といった哲学的な問いにも手がかりが得られるのだ――。
深い洞察と詩情豊かな表現にいろどられ、私たちを「真実」をめぐる旅へといざなう興奮の書!
竹内薫氏の解説付き。
7万部突破の『時間は存在しない』著者の最新作!
感情タグBEST3
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Posted by ブクログ
すごく読みやすくて面白かったー!といいつつ、量子論の本は何冊読んでも強固としてある「自我」や「主観」といったものを相対化しきれていないところもあり、科学者たちが持っている「ほんとうに、信じられない。こんなことを、信じろというのか?これじゃあまるで…現実が…存在しないみたいじゃないか」という恐怖感には直面していない。
序章の「深淵をのぞき込む」
…だが、これぞまさに科学なのだ。科学とは、世界を概念化する新たな方法を探ること。時には、過激なまでに新しいやり方で。それは、自分の考えに絶えず疑問を投げかける力であり、反抗的で批判的な世親による独創的な力ー自分自身の概念の基盤を変えることができ、この世界をまったくのゼロから設計し直せる力ーなのだ。たとえわたしたちが量子論のまありの奇妙さに戸惑ったとしても、この理論は現実を理解する新たな視点を開いてくれる。そこから見える現実は、空間に粒子があるという素朴な唯物論の描像より精妙だ。現実は、対象物ではなく関係からなっているのだ。…(p11)
序文で既にワクワクしてしまった。SF小説を開くようなワクワク。
第1部「奇妙に美しい内側を垣間見る」
第2部「極端な思いつきを集めた奇妙な動物画集」
・「重ね合わせ」ー有名な思考実験「シュレーディンガーの猫」(p62)。猫は、「起きている猫」と「寝ている猫」の「量子的重ね合わせ」の状態にあること…→「観察者」がいるということはどういうことなのか?人間がいるということではなく、世界の物理系全てが観察者たりえるのか
・観察者自身も観察される可能性があるということが重要である(p78)→人間も自然の一部であるという思考。多かれ少なかれ自然の中の生命には意識があるものもあり、その中でたまたまある「私」という存在のちっぽけさ、それは「無」であると考えること、まだ私には少しジャンプが必要だが、なんとなく分かるような気がする。
「みなさんにとっては現実、でもわたしにとっては現実でない事柄とは?」
…わたしたちが観察しているこの世界は、絶えず相互に作用しあっている。それは、濃密な相互作用の網なのだ。…わたしたちが「現実」と呼んでいるものは、互いに作用し合う存在の広大な網なのである。そこにはわたしたちも含まれていて、それらの存在は、互いに作用し合うことによって立ち現れる。わたしたちは、この網について論じているのだ。(p84-5)
・「事実は相対的である」…ある対象物にとって現実であるような事実が、常にほかの対象物にとっても現実であるとは限らない(p89)→これは「人によって真実は異なるよね」という話ではなく、事実自体が異なるというラディカルな結論なので、ぞわぞわしてしまった。そうしたら一体私が見ているものは、誰とも共有できず、私は孤独な存在なのだろうか?と
・こうして世界は粉々になり、さまざまな視点の戯れとなって、大局的な唯一の視点の存在は、許され無くなる。それはさまざまな視点の世界、さまざまな発現の世界であって、確たる属性を持った実態や、一意的な事実の世界ではない。属性は対象物のうちにあるのではなく、対象物の間にかかる橋なのだ。対象物は、ほかの対象物との関係においてのみその属性を有し、橋とは橋が出合う節(ノード)になっている。この世界はさまざまな視点のゲーム、互いが互いの反射としてしか存在しない鏡の戯れなのだ。この幻のような量子の世界が、わたしたちの世界なのである。(p96-7)
「現実を織りなす関係の網」
・二つの対象物の全体としての属性は、三つ目の対象物との関係においてのみ存在する。二つの対象物が相関しているという言いまわしは、三つ目の対象物に関する事柄を表しているのだ。相関は、相関する二つの対象物が、いずれも第三の対象物と相互作用するときに発現するのであって、第三の対象物はそれを確認することができる。…二つの対象物の相関はそれらの対象物の属性であって、およそ属性なるものの例に漏れず、さらなる第三の対象物との関係においてのみ存在する。
エンタングルメントは、二人で踊るダンスではなく、三人で踊るダンスなのである。(p105)
第3部「立ち現れる相手なくして、明瞭な記述はない」
・いかなる視点も別の視点と依存しあうときにのみ存在するのであって、究極の実在は金輪際存在しない、と。これはナーガールジュナの視点自体にいえることで、空でさえも本質を持たない。(p155)…わたしたちは、イメージのイメージでしかない。自分たちを含む現実は薄くもろいベールでしかなく、その向こうには…何もないのである(p158-9)
・何かを理解しようとするときに確かさを求めるのは、人間が犯す最大の過ちの一つだ、とわたしは思う。知の探究を育むのは確かさではなく、根源的な確かさの不在なのだ。…哲学的にも方法論的にも、知の冒険の碇をおろすことができるもっとも基本的な、あるいは最終的な定点は存在しない。
「自然にとっては、すでに解決済みの問いだ」
ロヴェッリお得意の直感に寄り添ってくれる有難い章笑。それでも心が存在しているということはどう説明できるのか?
・…けれどもこの言葉(意味)の守備範囲がここまで広がったのは、わたしたちの種の生物的文化的な歴史を経たからで、そもそもの始まりは、何か物理学に根ざしたものなのだ。その何かに、わたしたちのきわめて複雑な神経系や社会や言語野文化の明瞭な表現やつながりが付け加わってきたわけで、その何かは、妥当な相対情報なのだ。…意味や志向性は、至るところに存在する相関の特別な例でしかない。わたしたちの心的生活における意味の世界と物理世界はつながっている。ともに、関係なのだ。(p174-5)
・精神(心)の本質に関する見解は、一般に、三つしかないとされている。第一に、精神の現実と無生物の現実はまるで違うとする二元論。第二に、物質的な現実は精神のなかにしか存在しないとする観念論。そして最後に、精神的な現象はすべて物質の動きに還元できるとする素朴唯物論。…だがじつは、ほかにも選択肢はある。対象物の属性が別の対象物との相互作用によって生じるとすると、心的な現象と物理的な現象の隔たりはかなり小さくなる。物理的な変数も、心の哲学者たちのいう「クオリア」ー「赤が見える」といった基礎的な心的現象ーも、概ね複雑な自然現象と見なすことができるのだ。(p182)
・何かを感じる「わたし」が、心的過程の統合された総体でないとしたら、いったい何なのか。自分のことを考えるとき、わたしたちは確かに統一されていると感じる。だがその統一感は、自分の身体が統合されているということと、心的過程の意識と呼ばれている部分が一度に一つのことしか行わないというありようによって正当化されているにすぎない。この問題に登場する「わたし」は形而上学的過ちの残滓であって、過程と存在物とを取り違えるというよくある間違いの結果なのだ。…わたしたちは確かに、これが「わたし」だ、という独立した実体を直感している。だがそれをいえば、かつてわたしたちは嵐の後ろにはユピテルがいると直感していたわけで…。…精神の本質に興味を持つ人間にとって内観は最悪の研究手段であり、自分自身の思い込みを探しまわって、その思い込みに溺れることになる。(p184)
・わたしたちは関係を基盤とする視点に立つことで、主観/客観、物質/精神の二元論からも、実在/思考や脳/意識の二項対立を克服することはできないという主張からも、遠ざかる。自分たちの体内で展開する過程、さらにはその過程と外の世界との関係を解明することができたとしたら、その後に理解すべき何が残るのか。わたしたちの意識の現象学とは、まさに、ニューロンが運ぶ信号のなかに含まれる妥当な情報の鏡のゲームで、それらの過程に割り振られた名前以外の何ものでもないのだが…。(p187)
「でも、それはほんとうに可能なのか」ーシェイクスピアの『テンペスト』から始まる…
・…わたしたちがあたりを見渡すとき、じつは「観察」はしていない。では何をしているかというと、(誤解や偏見を含めて)自分たちが知っていることにもとづくこの世界の像を夢見ているのだ。そして無意識に、この世界とその像の間に不一致がないかどうかを精査し、必要ならその像を修正する。言い換えればわたしたちは、外界を再構成した像を見ているわけではなく、自分が予期し、把握した情報にもとづいて修正を施した像を見ているのだ。(p191-2)
・十九世紀フランスの哲学者イポリット・テーヌの言葉を借りれば、「知覚された外部とは、外部の事物と調和することが裏付けされた内側の夢なのだ。また「幻覚」を誤った知覚と呼ぶのではなく、知覚された外部を「確認された幻覚」と呼ぶべき」なのだ(p192)
原題及び英語タイトルが『ヘルゴラント島』というのがオシャレ…だけど日本語版はこれで良いと思います笑。
また、原注にない参考図書として挙げられているのは、朝永振一郎『量子力学I,II』、吉田伸夫『明快量子重力理論入門』、木田元『マッハとニーチェ』、中村元『龍樹』など…
Posted by ブクログ
量子力学が分かりにくい。ニュートン力学など従来の考えではとうてい納得いかない。
多くの人の共通した認識ではなかろうか。本書もこの観点、筆者も通った道から説明をしている。そもそもこの導入が罠である。もっとも私達の多くはこの文脈からしかのみこの山を登れない。この山は様々な状態を内包している。しかしそこにはすぐには気づかない。
第五章にて、ボーアの直感をあらゆる自然現象に拡張した記述として以下を挙げている。
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以前は、あらゆる対象物の属性は、たとえその対象物と、ほかの対象物との相互作用を無視したとしても定まると考えられていたが、量子力学は、その相互作用が現象と不可分であることを示している。どんな現象であろうと、明瞭に記述するには、その現象が発現する相互作用に関係するすべての対象物を含める必要がある。
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ニュートン力学を是としているがそもそもそれが間違いである。工学を学んだ者なら誰でも知っている。つまり、ニュートン力学通りの実験は行えない。必ず誤差が生じる。つまり、ニュートン力学はある可能性を無視した理想でしかない。重力による落下を考える。観測系に含まれるのは、空気抵抗だけではない。そもそも重力は私たちに一定に働いていない。近くに重力物があれば相互作用してしまう。
本書では外側から見る観察者もいないとしている。つまり物理学とは常に一人称である。内側から外側を記述しているに過ぎないという。
これもしんであるあ。たまたま、一人称でも三人称でも同じに結果になる。それがニュートン力学という認識である。つまり、特殊解のはずのそれを一般的であるとし、そこから普遍して考えるからおかしなことになる。
私たちのコミュニケーションはうまくいかないことが多い。それは自分が正しい。もしくは、自分のものの見方を、他者もしていると勘違いしている時に生じる。
絶対はない。全ては相対的である。ただし、同じ系での相互作用を経験している別の存在とは、同様な知見を持っている可能性は高い。よって相互作用する中で、互いの認識を合わせられる可能性は高まる。ある程度の合意のが生じることで、語り合う、という相互作用が生じる。
これはヴィトゲンシュタインの言うところの言語ゲームに他ならない。
私たちは本書を簡易に理解する方法がある。ニュートン力学などに依拠する認知や理解は、世界を楽に認知するための方便である。確かに近似はするが正解では無い。
より小さいものの理解は、観測するための系の影響が無視できない。様々な実験の不可思議さは、その実験が世界の在りようのいったんをたまたま極端な形で提示しているのに過ぎない。
世界は不確定かつ確率的にしか観測できない。エンタングルメントは生じる。その事実があるに過ぎない。
問題は特殊解であるニュートン力学的な理想で記述しようとする無謀さである。
そう考えると、一切皆苦。空。等の仏教世界も量子力学の世界を解釈するのに使われるのも納得である。
Posted by ブクログ
科学的素養をそこまで必要としない量子論の本という触れ込みで読んでみた。確かにエピソード重点で読みやすい部分もあったが、数式や未知数が出てきた瞬間にわかったふりしかできなくなった。観測による確定とか関係性しか存在しないとか実にむつかしい哲学の話で、この辺は訳者あとがきの言う通り。
直感に反するというだけで話が受け入れがたくなるのは、注記で批判されていた本そのままの態度で反省すべきかと思うが、それも引用されていた英作家ダグラス・アダムズの「重力井戸の底で火の玉の周りをまわって生きている人間の視野がどれだけ歪んでいるかは明確」という言を受けてみればなるほど納得。また人は目でものを見ず、脳の予期と異なるものがあるときだけ情報がフィードバックされるという話も面白かった。
つまるところ本筋はふわっとした理解しかできなかったので枝葉末節ばっかり見ていた気がする。『時間は存在しない』も読んでみるべきかどうか。