江弘毅のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
これはヤバい。もし今錦市場に行ったら間違いなく庖丁を買ってしまうだろう。ちゃんと手入れをするとは限らないのに・・・
「切れへん庖丁やな。ぐだぐだになってるやん。キズシか何かわかれへんやん。せっかく上手く作ってきたのに。いい包丁買ったろか、あんた」著者の友人の女性ライターは新築祝いにきてくれる友人に備えて万全のおもてなし体制を整えたつもりだったが切れない庖丁のために台無しになって恥ずかしい思いをした。このライターによると「主婦は自分の庖丁が切れるかどうかについての認識がない」という。
自分の身になるとよく分かる。確かに今使ってる庖丁は全然切れない。備え付けのステンレス製でろくに手入れもしないからしょうがないのではあるが。鋼の庖丁はほっとくとさびるし過去にシャープナーを使ったことはあるがあまり切れ味が変わったという実感はなかった。
地元京都の家庭では中京・下京辺りの家庭ではほとんどが有次の庖丁を使っているらしい。1560年といえば桶狭間の合戦があった年で刀鍛冶「藤原有次」が創業した。江戸末期には京都の日本鍛冶宗匠家である三品家の弟子として御所に出入りする小刀屋弥次兵衛となり仏師や職人が使う小刀鍛冶を扱い、現在の社長が物心ついた頃には庖丁屋になっていた。明治以降東京で洋食屋が流行りだすとともに両刃の洋庖丁を作る鍛冶屋や庖丁屋が現れ、有次家の兄弟のうち二人は東京に浸出し築地有次のルーツを作った。
村上水軍の刀鍛冶の流れをくむ沖芝家は明治期に広島から堺に入り、堺の伝統工芸である鍛造の和庖丁を手がけていた。沖芝家と有次のつきあいはこのころに始まる。堺の和庖丁の特徴は鋼と極軟鉄の鍛接により切れ味とねばりを両立したところにあるが、沖芝昴氏は玉鋼だけを用いて日本刀を作刀するのと同じ焼き入れ技術を用いた本焼き庖丁を作っている。熟練した料理人でも研ぐのに3倍時間がかかるというが上手く研ぐと切れ味が長持ちし、また客の前で庖丁を握り腕前を披露する割烹の板前に取ってはその日本刀様の波紋は一つのステイタスなのだそうだ。伝承者がいないとこの本焼き庖丁はそれこそ幻の一品になってしまうかも知れない。
庖丁を打つ様子、地元の普通の家で有次が使われている様、割烹、うなぎ、ふぐ、はもに留まらず中華、牛刀から果てはハム切り専用庖丁や葉巻専用庖丁まで使う人たちのこだわりとそれに答える有次の様子が大阪人の著者と京都人の有次の社長や店長の掛け合いなどそれぞれのエピソードがなかなか面白い。ちょっとイケズな京都人に無遠慮に突っ込む大阪人というと角が立ちそうだが、長年のつきあいらしくほんわかした話になっている。実際最初のエピソードは大阪と京都の「きつね」と「たぬき」の話から始まりお店の周りの夏の打ち水のやり方が続く。京都では隣の店の前まで水を撒くのはやりすぎで、まるで「お宅が掃除しはらへんから、うちがやっときました」とかいしゃくされるんだそうだ。そうなると「ややこしい」し場合によっては「いけず」になるとはさすがに京都、ややこしい土地だわ。一方で年に一度ええ聖護院かぶらが出たときにだけ千枚漬けを作るためだけに一般家庭で専用の白木のまな板の上に薄い刃が斜めについた大型のスライサーを買う人がいるという。たこ焼きプレートが必ずどの家にでもあるというレベルではない。これもさすが京都だ。
庖丁を研ぐというと難しく感じるが、その前に毎日の手入れとしてはタワシにクレンザーをつけてまな板の上にきっちり置いて刃の方に向かって汚れを落とし、裏返してもういちど。後は水洗いをして乾燥するだけで切れ味が延びるらしい。フランス料理では一流のシェフでも自分では庖丁は研がないのに対し、日本料理は錆びる庖丁を毎日手入れし、それが庖丁以外の道具も手入れし台所を清潔にすることにつながる。著者自身もよく切れる庖丁を持つと切ったネギが転がり、トマトも庖丁の重さだけで切れるとだんだん楽しくなり、魚も切り身じゃなく固まりで買うようになりだんだん食材の目利きができるようになるといっている。これはヤバい。 -
「うまいもん屋」からの大阪論
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Posted by ブクログ
帯の惹句には『50歳からのメンズファッション再入門』って書かれてはいるものの『おっさんファッション改造計画』のノウハウ本ではありません。
奥さんが旦那に『この本でも読んでちょっとは身なり気にしたら〜』と買い渡しても、速効性は薄いかと。『ほぼユニクロで男のオシャレはうまくいく毎日コーディネート』のような安直本なら、ためしてガッテン!となりますが…。
元来ファッションとウンチクは親和性が高い。とはいえ、こちらの本、とにかく能書き×ウンチクが溢れんばかり。
著者の私淑する鷲田清一氏の身体論の考察を挟んだり、話はファッションの上へ上へと遡り〈服を着るということは?〉〈オシャレとは?〉という哲学の領域まで筆は及びます。ねっ、速効性はないでしょ?そんなことより、お腹出ててもシュッと見えるコーデを教えてよ…になりますよね?
目次だけを見れば、確かにアタリは良いんです。作業着として誕生したリーバイス501を源流とするジーパンが不動のファッションアイテムとなるまでの変遷、簡単に手を出してはいけないトレンチコートという存在、大同小異ではないぞ 7ッ釦と6ッ釦のボタンダウンに見る第2釦の位置問題、ラコのポロシャツに見るサイズ設定、軽視できないパンツの丈の取扱、難攻不落のアロハシャツという強敵、素足に革靴という新奇コーデ課題への対応…等について自身のファッション遍歴-何でこんなん買ったんかなという黒歴史も含め-を交えた見解を披露。
ただ、数行の中に盛り込まれる情報量は極めて多く、その豊満な文体を読みこなすにはファッション情報のリテラシーを総動員しなければならず、その上、脚注にも著者によるミニ解説が付記されているという念の入り用。
その脚注にデジャヴを覚えた。それは田中康夫氏の『なんとなくクリスタル』。脚注が442個もあった記号小説と揶揄された、なんクリ同様のシニカルすぎる寸評に思わず苦笑。
ちなみに僕は小5の時にVANのBDシャツに衝撃を受けて以降、アイビーを入口とし、アメカジ・プレッピー・DCブランド・イタカジ・ファストファッション…と次々と押し寄せるトレンドの波に翻弄されながらも、結局は原点のBDシャツには目がない。
そのようなファッション遍歴の者からすると、本書は深くて小難しいけど、MENS CLUBやPOPEYE・BRUTUS等の雑誌を貪り読み、オシャレのルールを叩き込まれた者にとってはめちゃ愉快で、懐メロの匂いもするメンズファッション論であった。
さて、本の僕なりの総括は…
著者は全編通じて数々の『野暮』を取り上げ、『あかんあかん、それはあかんで』と…時に筆誅よろしく厳しく当たり、要は服を着る以前の『心掛け』を説いている。
『武士道と云うは死ぬことと見つけたり』は葉隠、これに倣っていうなら、『センスと云うは野暮に走らぬこと』。センスがいいとか垢抜けるって、何かを加えることではなく、野暮さを差し引いたところに宿るもの…と悟った一冊。
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