ポーリーヌ・レアージュのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
突然ですが、再々再々……、読。この河出文庫版1966年澁澤龍彦の「あとがき」にも納得。あとがきには、ポーリーヌ・レアージュは匿名女流作家で、実はジャン・ポーランのアナグラムか、あるいは女流作家ドミニック・オーリーとの合作か、とも。今さらほんとうに間の抜けたことを重ねますが、私は出逢った最初から、ここに「生物としての性別・女」を感じないではいられなかったのだ、と、あらためて。つまり、2002年「ユリイカ」に再録された鼎談(澁澤龍彦没後10年だから、実際は1998年?)に於て、矢川澄子自身が「『O嬢』は先ず自分が全文下訳した」といった発言をしているのを、私は漠然と見逃していたのだ、ということ(この時代の「澁澤」に、どれほど矢川澄子が混在・浸透しているのだろうか?)。で、それならば、わかる。同じ澁澤訳のマンディアルグとこの作品との違いもまた(もちろん、原著者が違うのだけれども、それにしても)。「わかる」と言ってしまったけれど、ほんとかな…?たとえば巖谷國士訳などと較べればもっと何か感じるのかな。あるいは、『イマージュ』ともう一度並べて読む、とか。専門外なのに、何をこんなに拘ってるんだろう(って、そもそも私の専門って何なんだ……?!)。【以下は、2009.05.04時点でアップした感想です】エロすぎることはありまへん、むしろ難解。このカヴァーになる前の澁澤訳で読んだ(今も持ってる)のですが、ここまでくると、「好悪」を別として、やはり芸術でしょう。あくまで、好悪を別として、です。(それで、私は「好き」なんだな、やっぱりこれが。何度繰り返し読んだかわかりません)。ところで仏ガリマールには、やっぱり憧れますね。小口をペーパーナイフで切って、そして、読む。つまり「袋綴じ」ってことか?というツッコミは無視することにして。
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Posted by ブクログ
序文の「奴隷状態の幸福」が気になって読んでみる。ただのドMの話かと思ったら違ってました。とは言っても超弩級Sと超弩級Mが絡むとんでもない話ではあるのですが・・・傷つけたり傷つけられたりすることが快感に繋がるという単純なことではなかった。責めてるほうはただただ相手の一切の自由を奪って自分のために奉仕させるのが楽しい。自由を奪われた方は痛みを喜ぶわけではなくとてつもなく苦しむのだけど、抵抗も許されなく奉仕する状態を抜け出すわけではなく、耐えている自分は相手のことを本当に愛しているのだとか誇りにすら思い始める。異星人並みに理解不能と思うけれど、19世紀に実際にあったバルバドス犯行がこの心理状況を表していると序文にあって驚いた。
異常に束縛された状態がおかしいことだとわからなくなると、かえって考えることがなくて楽に感じることはあるし、自由に自分で考えてやってといわれると急にわからなくなってしまうことは過去に経験しているから、やっぱり人間はそういうところがあるのかもしれない。自分の中にもO嬢がまだいるのか、世の中にはそういうことを巧みに利用する人間がいるのか、と思うと心底恐ろしい。毒にも薬にもならない本があるとすれば、これは毒にしかならない本。だけど、自分の見たくない部分をえぐってくるナイフでもあり歪んだ鏡でもあった。 -
Posted by ブクログ
読んだー!読んだどー!!!
ああ、嬉しや・・・世界の名著、そのエロさで有名な「O嬢の物語」!
そういう世間の“おすすめ本”を読んだってだけで嬉しくなる。
でもこの本は、そういうの抜きに、わたしからもおすすめします!
エロさでゆうと「エマニュエル夫人」も有名だけど、どこかで「O嬢」も聞いたことがあって、本屋で見かけた時に文庫サイズでそこまで分厚くないのを見て「挑戦できるかな?」と買ったものの“ツンドク”こと約1年・・・
あれって駄目ね。前書きがやたらと難しすぎて、飛ばし読みすることが出来ないタイプの人は、なんかもうそこで躓いちゃうんだもん。
で、長らく読み進めなかったことを後悔したのはようやっと本編に入った時。
衝撃でした・・・。
「O嬢」は今から約60年前に出た本なんだけど、当時だから性的表現が問題になったのね。とか、そんなレベルじゃない凄さ。
現代社会でも十分問題です。
え!そこまで書くの?という、肉体の生々しさはもちろん、なんでそこまで書けるの?という、精神世界の生々しさ。
人を飼う、人に飼われるということ。恐怖、悦楽、嫉妬、静謐・・・
生々しいんだけど、翻訳だからなのか元々筆者がそうなのか、文体が客観的で疲れることはない。
ただひたすらその世界観に驚かされ、そして考えさせられる。
もちろん物語としても読むのに十分魅力的だし、自身を一度解体し、見つめなおしたい時に哲学的に読むこともできる。
内容や表紙、年代の古さでそっぽを向いてしまうにはあまりにももったいない作品。
続きで「ロワッシイへの帰還」という本が出ているらしいからぜひ読んでみたいんだけど、翻訳はあるのかしら・・・
確実に、次の本へと進む扉を開いてくれた本でした。感謝。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ勃起不可避
前半は興奮で読むのが辛かった
主人公の女性がある日恋人に屋敷に連れていかれる
そこでは発言権もなければ、男性を自由に見ても行けないし、自分の精神と体に関する自由を奪われる
そして規則に逆らえばムチ打ちになる
その屋敷を通して、まるで汎神論のように全ての苦痛は彼が望んでいること、つまりこの下男の手は彼の手で、鞭は彼の鞭なのだと感じるようになり
自分を観察する彼の視線にも喜びを感じ始める
その屋敷から出ても、従属の証として下着の着用禁止と、脱ぎやすい服装という制約に加えて、その館に属すもの全員の所有物であるという印として指輪が付けられる
ある日彼のルネは彼女を異母兄弟の紳士に紹介する
紳士に畏怖を抱きつつも、ルネのみを愛していると思っていた主人公は、紳士の命令に背き、反抗的だった
しかし紳士はその反抗心が、本当は紳士に心を引かれていたり、従属すること、鞭打たれること、大勢の男に求められ価値を確認する喜びがあることなどの、主人公の本心を隠すためのものであることを見抜いていた
館では、主人公は受動的でいるだけでそれらの耽美な快楽を教授できたが、紳士の前では自らの羞恥心を克服し、能動的に従属しなければならない
主人公はここに、プライドとも言える反抗心を抱いていた
というのも、彼女は過去に自慰行為をする友人を見下していたり
同性の友人を性的に屈服させることによって、自らの力を確認したり、その美しさの内奥に同族として鏡写しになっている自らもの美しさを確認する性癖があったからだ
しかし、鞭に打たれ、ルネに何度も所有権が写っていることをしらされて、とうとう紳士に屈服した
もはや恥じらいもなくなり、ドレイとして一皮むけたところで、主人公の職場にいる美しいスラブ系の少女、ジャクリーヌを館に連れていくように命令され
ジャクリーヌの美しさにも、紳士に抱いたように畏怖を抱いていた主人公は、この命令には消極的だった
主人公は紳士にもう一段階調教を施され、数日間淑女の館に招待されることになった
そこでは最初の屋敷のように、首輪や足輪をつけた女性がいたが
屋敷とは違い全裸で、また怠惰を貪っていた
しかしムチ打ちも、晒し系も行われてはいた
そこで主人公は、コルセットでクビレを矯正し、臀に紳士の名を焼刻み、腹に穴を開け輪を通してそこにも紳士の名の入ったプレートと、鎖を垂らした
ジャクリーヌに見られることを恥じていたが、この屋敷の後では主人公はもう開き直った
そしてジャクリーヌは、いつの間にか主人公との愛情が希薄になってしまっていたルネに惚れられていて、2人は肉体関係にもあった
ルネとジャクリーヌ、紳士と主人公、そして亡命してきたロシア人が集う騒々しくて悲観的なアパートから母の推薦で逃げるように姉に着いてきたジャクリーヌの妹でバカンスへ行くことになった
そこでは特に変わったことはおこらず、各々が各々の快楽を堪能していた
ジャクリーヌと主人公との性行為は、隣の部屋の紳士によって全てが監視されていた
最初の方はジャクリーヌに対する畏敬の念から明け渡すことに内心反対していた主人公も、名前を焼かれてからは、いつの間にかジャクリーヌをこうして監視させることや、屋敷に連れて行かせることに協力的だった
そしてこの性行為は、ジャクリーヌの妹にも目撃されていて、ジャクリーヌの妹は主人公に惚れてしまった
しかし彼女はまだ15歳であるため、この一行の行為に参加させることはできない
そのため、主人公のことを常に観察する役割を与えられた
最後の物語が動き出す
主人公はルネがジャクリーヌのことを好きだということにもはや無感動で、むしろ、ルネがジャクリーヌを手にいれられないことによって以前より窮屈に振舞っていることにやきもきしていた
ジャクリーヌと主人公が、ジャクリーヌを撮影した映画監督と昼食を共にしている時のことだ
ジャクリーヌが映画監督といい雰囲気だったため、主人公がルネを引き合いに出してそのことを指摘する
すると主人公が足を組んでいるところをジャクリーヌにからかわれる(指輪を付けているものは足を常に開いてなくては行けない)
両者が弱みを握りあった状態で、家にもどるとちょうどルネがいた
ジャクリーヌは主人公がルールを守らず足を組んでいたことを告げ口したばかりではなく、男性に色目を使っていると嘘をついた
主人公は否定し、ジャクリーヌに殴りかかろうとする
それを、ジャクリーヌのことだけを見ながらルネが止めてくる
そこに紳士が入ってきて、主人公のことだけを見ながらルネに解放するよう指示し、主人公を部屋に招く
そこでは小太りの男性がいて、舞踏会招かれる
その舞踏会で主人公は、ジャクリーヌの妹に連れられ、紳士の視線を当てられながら、まるで奇怪な彫像のように人々の奇異の目に晒され、触られる
そして最後のページに、「主人公が紳士に捨てられ自死した」ということだけ書かれ、物語は終わる(なんでここは結末だけ書かれて内容が削除されたんだ?)
第1部と第2部ではサドマゾに対する主人公の精神性が大きく変化しているように感じた
第1部では、あくまでも恋人が望むからするという、恋愛のための手段でしかなかった
しかし第2部では、主人がルネから紳士にうつり、主人に対する描写が減り、匿名性が高くなった
それとは対照的に自己に与えられる京楽の描写が増えた
そのことから、主人公はもはや手段ではなく目的として、サドマゾ行為をそれ自体として楽しんでいたと捉えて問題ないんじゃないか
きっと第3部でも、直前の舞踏会でマゾとしての主人公の対象化が行われていたし、主人に捨てられて捨てるという、マゾの放棄に絶望して自害することが仄めかされていたから、精神性がもう一段階の変化を遂げただろうに
読めなくて惜しい
小説でここまで性的なものを、さらには文学的に楽しめるとは思っていなかったため、自分の小説歴に革命が怒った気がする
サド公爵とかも読んでみたい