高田三郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ニコマコス倫理学
100分で名著から入って、読み始めました。
現代人が読んで勉強になってしまうことは本当に凄いことだなと思います。
テーマは人間にとっての人生の目標は何なのかということ。
答えは「幸福」。解説文にwell beingという英語訳があり、そちらの方がしっくりきます。
それとは別に「快楽」についても述べられていました。
日頃「幸せ」と言う言葉を使うときは快楽を指しているような気がしていて、自分自身もそれに流されてしまうことが少なからずあるなと思います。
アリストテレスは、幸福を手に入れるにはベースとなるレベルの快楽が必要、と述べていますがこれは当時の基準なのであって、現代人は相当抑制的でないといけないんだと思います。
昔とは比べ物にならない快楽が溢れる時代に、幸福の追求を見失わないでいることを大切にしていきたい。
そのために、自分の行動が中庸だったかどうかたまに振り返ったりしたいなと思いました。
人生を考えるための補助線が増えました。 -
Posted by ブクログ
2300年も前の古典とは思えない、金言の数々。特に下巻に感銘。たぶん2割くらいしか理解できてないけど、この年齢になって沁みわたる言葉が多かった。
「『人間というものの善』とは、人間の卓越性に即しての、またもしその卓越性に即しての魂の活動であることとなる。」
「…、最初に観ておかなくてはならないことは、こういったものは欠乏と過超によって失われる本性を有しているということである。ちょうど、体力や健康の場合においてわれわれの見るようにー。というのは、運動の過超もその不足も、ともに体力を喪失せしめ、同じくまた飲みものや食物が多きにすぎ少なきにすぎるのは健康を喪失せしめるものなるに反して、それが適正ならば健康を創成し増進し保全するのだからである。節制とか勇敢とかその他もろもろの倫理的な徳の場合においてもこれと同様である。すなわち、あらゆるものを逃避しあらゆるものを恐怖して何ごとにも耐ええないひとは怯懦となり、また総じて、いかなるものも恐れず、いかなるものに向かっても進んでゆくならば無謀となる。同じくまた、あらゆる快楽を享楽し、いかなる享楽をも慎まないひとは放埒となり、あらゆる快楽を避けるならば、まったく田舎者のように、いわば無感覚なひととなる。かくして節制も勇敢も『過超』と『不足』によって失われ、『中庸』によ
って保たれるのである。」
「『選択』も『思量』も同じことがらについて行われるが、ただ、選択されるのはすでに決定されたものにほかならないという点が異なる。思量に基づいて決断されたことがらが選択されるのだからである。…
『選択されたことがら』とはわれわれの力の範囲内に属することがらのうち思量を経て欲求されるところのものであるとすれば、『選択』ということは、われわれの力の範囲内に属することがらについての思量的な欲求であるといわなくてはならぬ。われわれは思量することによって決断したとき、この思量に基づいて欲求するのである。」
「…知慮なくしては勝義における善きひとであることはできないし、また、倫理的な卓越性ないしは徳なくしては知慮あるひとたることはできないものとなることが明らかとなった。…知慮一つの存在するところ、同時にまたすべての徳が存在するだろうからである。…『選択』ということは、知慮なくしても、徳なくしても、正しい選択たりえないものなることが明らかである。」 -
Posted by ブクログ
「何びとも、実際、たとえ他のあらゆる善きものを所有するひとであっても、親愛なひとびとなくしては生きることを選ばないであろう。まことに、富裕なひとたち、国の支配的位置にあるひとたち、国の覇権を握るひとたちにとっても、親愛なひとびとの必要は絶大なものがあると考えられる。」
「事実、恋愛は親愛の過超に類したものであり、かようなことがらは、本来、一人の人間を相手にすべき性質を有している。」
「…『親愛なひと』『友なるひと』というものは、『もろもろの善ないしは善とみられるところのものを、相手かたのために願いかつ行なうひと』だとされるのであるし、また、『相手かたの存在と生を、相手かたのために願うところのひと』であるとされる。…
すなわち、彼は自分自身と志を同じうするひとなのであり、同じものを彼は、その魂全体によって欲求する。」
「自己の存在することが好ましくあるのは自己が善き人間であることの知覚に基づいていたのであり、かかる知覚が即自的に快適だったのである。してみれば、ひとは親愛なひとについてもその存在していることを同時にやはり知覚することを要する。しかるにこのことが可能になるのは、相手と生を共にするということ、すなわち、談論や思考を共にするということにおいてである。これが実際、『生を共にする』ということの人間の場合における意味なのであって、牧獣の場合のごとくに同じ場所に生息しているというだけには尽きないと考えられなくてはならぬ。かくして、至福なひとにあっては自己の存在しているということが…即自的に好ましいことであるならば、そして友の存在することも彼にとってこれとほとんど同様であるとするならば、友もまた好ましいものに属するのでなくてはならない。だが、彼にとって好ましくあるところのものは彼において現存していることが必要であり、でなければ彼はその点において欠けるところがあることとなるであろう。してみれば、ひとは幸福であるためには、よき友たるひとびとを要するわけなのである。」
「幸福な生活とは、かえって、卓越性に即しての生活であると考えられる。かかる生活は真剣であり、遊びではない。真剣なことがらは滑稽な遊びめいたことがらよりもよりよきものなのであるし、また、魂のよりよき部分とか、よりよき人間とか、いずれにしてもよりよきものの活動こそ、よりよき活動なのであるとわれわれは考える。…
すなわち、幸福は、かかる時間つぶしに存せず、既述のごとく、卓越性に即してのもろもろの活動に存しているのである。」
「…節制的に我慢強く生きてゆくということは、世人にとって、殊に若年者にとっては快適ではない。だからして、法律によって、彼らの育成や、もろもろの営みが規制されてあることを要する。いったん慣れてしまえばこうしたことも苦痛ではなくなるだろうからである。だが、おもうに、若年の時代にただしい育成や心遣いを受けるだけでは充分でない。やはり大人になってからもこのような営みを続け、それを習慣としてゆくことを要するのであって、そうなると、これに関してやはり法律というものが必要であり、総じて、だから、全生涯にわたってわれわれは法律を必要とするであろう。ただし世人は、理説によりも必須なるに従い、うるわしさによりも処罰に従うものなのだからである。」 -
Posted by ブクログ
ネタバレ特に後半は理解できなかった。
新しい訳を読むべきか…。
1巻:
最高善は幸福である。
あるいは,人間の魂(プシュケー)の活動における究極的な卓越性である。
この魂の活動は,「ことわり」を伴うものである。
幸福な人とは,究極的な卓越性に即して活動している人,そして外的な善に充分恵まれている人である。
最高善は政治の目的でもある。
「富は何かのために役立つもの、それ以外のもののために存するものでしかない。」(23頁)
「人間というものの善とは、人間の卓越性(アレテー)に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動である」(33頁)
2巻:
卓越性には,知性的卓越性と倫理的卓越性(徳)とがある。
倫理的卓越性は習慣づけ(エトス)によって完成する。
倫理的卓越性は,快楽と苦痛について最善な仕方で行為しうるような状態(ヘクシス)であり,悪徳はその反対の状態である(62頁)。情念や能力ではない(68頁)。
卓越性とは,そのよき状態を完成し,その機能をよく展開せしめる状態である(68頁)。
卓越性は,超過や不足を避け,中(メソン),あるいは中庸(メソテース)を目指すべきである(70頁)。
「年少のときから或る仕方に習慣づけられるか、あるいは他の仕方に習慣づけられるかということとの差異は、僅少ではなくして絶大であり、むしろそれがすべてである。」(58頁)
3巻:
それぞれの徳に関する各論。
勇敢,節制
「「選択」ということは、われわれの力の範囲内に属することがらについての思量的な欲求であるといわなくてわならぬ。」(98頁)
4巻:
各論の続き。寛厚,豪華,矜持,穏和
「恥辱の生ずるごとき行為をそもそもなすべきではないと思われるからである。すなわち羞恥は、あしき行為について生ずるものである以上、よきひとに属するものとはいえない。」(168頁)
5巻:
正義、「宜しさ」について。
「正義がしばしば徳のうちの最もすぐれたものと考えられ……完全な徳にほかならない」「それがことさらに完全であるというのは、これを所有するところのひとは徳を他に対してもはたらかせることのできるひとであって、単に自分自身だけにとどまらないというところに基づいている。」(173頁)
6巻:
学,技術,知慮(実践的なもの),智慧,直知について -
Posted by ブクログ
ネタバレ哲学は何のために勉強するんだろう?僕は今を生きていくうえで哲学を知っているのと知らないのとでは人生の豊かさが変わってくるんじゃないかと思う。
哲学を学ぶにあたって何からやってよいかわからなかったんだが、PHP The Business 21(4月号)という雑誌に哲学特集をやっていて、まずそれから始めようと読み始めたのが、この本ニコマコス倫理学。
率直な感想としては全く理解できなかった。哲学はなんでこんな難しく書かれているんだろうなと思う。哲学をもっと庶民が気軽に読めるくらいのレベルまで落とせばもっと人生が豊かになるんじゃないかな。
この本では善とは何かという問いかけから始まり、アリストテレスの考える最高善とはすなわち政治の目的であると。知性的なアレテーが経験、そして倫理的なアレテーが習慣づけである。アレテーには2種類あり、よくわからないがこれらが大事であると。
特に上巻では中庸をしきりに重要視している。中庸とは少なすぎず、多すぎず、その中間を一番重要な価値としている。加藤嘉一さんも中庸は非常に重要な考え方とテレビでも言っているが、僕はこの中庸という考え方が受け入れられないし実行できない。なぜか、僕は中庸と中途半端を学生時代から意味を取り違えており、いまだに中庸という考え方が受け入れられない。
下巻では愛(フィリア)や快楽について述べられている。愛とは相互応酬的な行為である、「また若者は恋愛に陥りやすい、恋愛は多くは情念的であり快楽を動機とする」というこの言葉にぐさっときたね。さらに「いま愛しているかと思えばただちにまた愛さなくなるのであって、しばしば同一日の上に変化が生ずることがある」というところに我ながら恥ずかしくなるほど当を得ているなと感心だ。
基本的な人格、中庸や節制などこの本ではさかんに取り上げられていた。まずこの2つの価値観だけでも実践していきたいと思う。
次の哲学書はヘーゲルの「歴史哲学講義」を読みます。