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古代ギリシアにおいて初めて倫理学を確立した名著。万人が人生の究極の目的として求めるものは「幸福」即ち「よく生きること」であると規定し、このあいまいな概念を精緻な分析で闡明する。これは当時の都市国家市民を対象に述べられたものであるが、ルネサンス以後、西洋の思想、学問、人間形成に重大な影響を及ぼした。
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Posted by ブクログ
下巻は抑制と無抑制、愛、快楽、そしてまとめがあります。そして本書の最後(第10巻)では観照的生活こそが最高の人生である、というような内容が中心になるのですが、正直苦笑いをしてしまいました。やはり根っからの哲学者だと。不遜な言い方ですが最終章にきて、アリストテレスがとても身近な存在に感じました。彼自身...続きを読むの好みのようなものがついに滲みだしてきたという感じでしょうか。本書全体を通じて、人間の生き方についての深い洞察と卓見を学ぶことができ、とても満足しています。また解説もきわめて有益でしたのでそちらもあわせて読むことをお勧めいたします(できれば上巻を読む前に下巻の解説を読んだ方がよい)
この本は、読んでると、えッ・・・・!!なになになに???と思わず何度も聞き返してしまうような感じです。気になったところに付箋を貼っているのですが、多すぎて、付箋箇所をもう一度たどるのが億劫なくらいです。それでも今日は気になった箇所をもう一度見てたら「寛恕」という言葉を知りました。寛恕とは三省堂国語辞...続きを読む典によると、心が広くて思いやりがあること。また、あやまちなどをとがめずにゆるすこと。だそうです。本文中でも「・・・、寛恕に値することがらであろう。」と書かれてあります。なんかすごいな~って感じがします。
下巻では悪徳の抑制、快楽、愛といったテーマについて論じられるが、上巻以上にアリストテレスの個性が鮮明に表れている。ギリシャの陽光のように明るく健康的な合理精神に貫かれており、剛毅で貴族的な香りが漂う道徳だ。奴隷制の有無という社会構造の違いもあるが、ニーチェが畜群道徳と罵倒したキリスト教の原罪を背負っ...続きを読むた陰気な内面性とは極めて対照的である。例えば快楽一般を否定するのではなく、善い活動に伴う快楽は好ましく、悪しき活動に伴う快楽が悪徳とされる。愛については有用性や快楽を求める愛よりも「人となり」そのものへの愛に高い価値がおかれはするが、愛に値するのはあくまで善き「人となり」である。ある意味で極めてエリート主義的であり、神の前の平等を前提としたキリスト教の隣人愛とは全く異質な愛と言える。 訳文については決して読み易いとは言えないが、そんなに出来が悪いとも思えない。ただ一点だけ違和感が残るのは美を意味するκαλοs(カロス)に「うるわしい」という訳語を当てていることだ。この語のいかにも柔和で女性的な響きがアリストテレスの剛毅で男性的な思想に全く似つかわしくない。ロスの英訳ではnoble(高貴な、気高い)が当てられており、ニュアンスとしては遥かにこの方がしっくりくる。おそらくギリシャ的世界観では美醜と善悪の観念が不可分なのであろう。これは日本的な価値観と共通すると言えなくもないし、外面的な美と内面的な美を兼ねた言葉として「うるわしい」という訳語を当てたものと推察するが、辞書的な意味の対応関係を優先してニュアンスを大きく損ねた訳語選択の典型と言えよう。どうしても美の意味に拘るなら素直に「美しい」(西洋古典叢書シリーズの朴訳他)のほうがまだましである。全編に頻出する重要なキーワードだけに悔やまれる。
上巻に引き続き… 下巻では抑制や無抑制、愛や快楽、最後に総括に関する論考が収録されている。 特に、3種類の愛(フィリア) 「善ゆえの愛」 「快楽ゆえの愛」 「有用ゆえの愛」 に対する指摘は、そのまま鵜呑みにできずとも、自己と他者のあいだに広がる空間性を平易な言葉で表現できる知性に関心させられた。...続きを読む少し忸怩たる思いを抱いてしまう自分もいた。まだ、私には早かったのか? 善とはそれ自身で望まれ、欠如がないもの… 「人間は本性的にポリス的動物である」と提唱したのはアリストテレスであり、理想的な国制と私的利益を追及する国制の対比、前者から後者へ転落する筋書きも言及されていた。参政権は男性に限られていたり、現代とは違えど民主主義を掲げていた当時のアテナイが身近だったからこそ、詳細に描けた分類なのかもしれない。 巻末の解説では、アリストテレスに関する倫理学 (実際に倫理に関する書物とは言えないのかもしれないが)には、大倫理学とエウデモス倫理学、そして本書があり、相互に重層する内容も含まれているようである。古典の研究は共時的にも通時的にも、計り知れない深淵があると体感。
(01) 倫理を分析し,愛(*02)や政治への接続を思索した書である.特にそれはあるべき個人について語られ,徳や卓越性とされるアレテーが人間の状態をよりよい善に漸近させることを至高としている.もちろん社会における人間ということが前提となっており,その共同性や他者との関係から,主体のあるべき姿を探って...続きを読むはいて,例えば,人間というあり方を,獣性(テーリオテース)や奴隷状態から峻別し,家政的(オイコノミコン)なものから政治や政治の場としての都市を抽出し,徳のある個人をこの場にある人間として考究している. ゆえに,現代の自己啓発本やセミナーなどの主張に,見合うような字句も本書から引っ張ってくることもできるのだろう.中庸というバランス感(*03)を大事にして,快楽,名誉,財貨,そして知や学のちょうどいい加減について語りかけている箇所は,現代でも実用的であるかもしれない. (02) 親愛(フィリア)について考究された第8巻と第9巻はとりわけ面白く感じられる.この親愛は,男女間の性愛や家庭的な愛とは,かなり趣を異にする愛であり,同性間や仲間,あるいは国家的な愛や,知への愛(フィロソフィー,哲学)へも横断するような概念でもある.いってみれば古代的な人間関係の単位や集計として.また政治学(そして戦争学)と倫理学の接着剤として,かなり重要な提起であろう. 知についての,直知,知慮,智慧,学などの整理も,近代の科学や学問を考える上でもおさえておきたいところである.また,「棟梁の位置にある者」としての歩きテクトーンも登場し,社会や善にある建築が標榜される.おそらくギリシア哲学の再考から始めたアーレントも語っている制作や活動への言及もある.運動の問題は,現代思想にも通じ,映像学への応用が可能だろう.そして,倫理にとっても重要な状態でもある観照(テオーリア)は風景学の視点場をなすに違いない. (03) バランスをどのあたりに調節するか,というのは実践であるとともに,今がどのあたりにあって,バランスされる全体を見通せる認識が必要であり,著者はその認識の方法や状態として知や学を位置付けている. しかし,エウダイモニアとされる幸福な状態や,そこから得られる幸福感については,ダイモンの存在を根拠としており,バランスは,知や学が水平的なパースペクティブにあるとすれば,ダイモンとの垂直的で直接的な関係によって人間が神に垂らされているような感覚と認識が想定されている.この神学的な場面と倫理という主題はいつも合わせて考えたい問題でもある.
「二コマコス倫理学(下)」Aristotle ユーダイモニアは人間万般の営みの究極目的。 幸福は状態(ヘクシス)ではない。 幸福とは、知性(ヌース)という最高の卓越性に即した行動。 幸福には快楽の存在が必要であるとされるが、最も快適なのは、智慧(ソフィア)に即しての活動である。 哲学はそ...続きを読むの純粋性と安定性の点において、驚嘆するに足る快楽を含んでいる。 知性(ヌース)の活動はその真剣さにおいて勝り、活動それ自体以外のいかなる目的も追求せず、その固有の快楽を内蔵している。 人間に固有なのは、知性(ヌース)に即しての生活に他ならない。 知性(ヌース)の卓越性は肉体を離れた独立的な性格を持つ。 倫理的な卓越性ほどには外的な給備を必要としない。 ソロンが言う幸福な人とは、「外的なものをほどほどに給せられ、自らもって最もうるわしき事柄となすところを行い、節度ある仕方でその生涯を送ったひと」だが、実際にほどほどのものを所有しておれば、まさになすべき事をなしうる事ができる。 幸福な人が、世人の眼には奇妙な人間として映ったとしても驚かない。 ヌースに即した活動を行い、ヌースを大切にする人は最も善きありかたの人であると共に、最も神に愛される人。 善とは、人間の目標とすべき最高善、究極的な善であり実現可能なもの。それは幸福に他ならない。 ユーダイモニアの原義は「ダイモン(守護神)によってよく見守られている事。」であり日常的な意味は「好運」であったが、アリストテレスはこれを純化し、「人間の人間としての卓越性の具備を基盤とするところに基づく活動であり、その活動の為に必要ないかなる条件にも欠けていない事、そしてそれも全生涯に及ぶものであり、あらゆる意味において究極的、自足的たる幸福」とした。 快楽(ヘドネー)は、ユーダイモニアに付帯する副産物。
プラトンとは異なり、あくまで経験的な事実から逸脱しないように議論を進めるアリストテレス。一見、現実的で納得のいく議論を展開しているが、善悪の判断の源泉はどこに求められるか?については一応アプリオリなものとして、不問に付している(ように見える)。 下巻のテーマは快楽と愛。 第七巻 正しい認識を有す...続きを読むる人間は無抑制に陥らない、とするソクラテスの説を継承した上で、抑制・無抑制、節制・放埒の違いを記述する。 放埒:選択的に肉体的快楽を追求すること 無抑制:欲望に負けて快楽を追求すること 抑制:欲情はあるが意識的に抑えること。 節制:欲情がないゆえに快楽を追求しないこと。 財貨・利得・勝利・名誉といった快楽は善であり、これらを追求すること自体は悪徳ではない、という冷静な主張がアリストテレスらしい。これらの善の追求が非難されるのは、追求の程度が常軌を逸するほど超過するときであると。 またアリストテレスは、単に知識があるという状態だけではなく、実践する人が「知慮ある人」であるということを本書で繰り返している。 第八巻 愛は国内を結ぶ紐帯の役割を果たす。立法者たちが希求する「協和」とは、国民のあいだにおける愛・国政的な愛のこと。 愛は三種類ある。すなわち、有用ゆえの愛、快適ゆえの愛、善ゆえの愛。前二者は自分のための善であり、移ろいやすい。相手の人となりゆえに愛し、相手のための善を相手のために願う愛が真の愛である。 国政には三種類ある。すなわち、君主制、貴族制、ティモクラティア(制限民主制)。それぞれの逸脱した形態として、僭主制、寡頭制、民主制がある。 アリストテレスは、国政についても愛と関連付けて論述する。君主の民衆に対する愛は、父の子に対する愛、すなわち優越者の愛。貴族の被治者に対する愛は、夫の妻に対する愛。ティモクラティアの愛は、兄弟の愛。僭主制には愛がない。民主制は民衆の共同性に基づいているから、ティモクラティアよりも多い愛がある。 均等でない者の間においては、劣等者が優越者に対してより多くの愛・尊敬を示すことで均等となる。したがって、子は父に、民衆は君主に、他方よりも多く愛さなければならない。 第九巻 人は自愛的であるべき。ただし、ここで言う「自愛的」とは、自分のために財貨や名誉や肉体的快楽を過剰に追求することではなく、他の人よりも多く徳を身に付けようと努力し、自己のロゴス的な欲求を満足させようとすること。善い人が自愛的であれば、他の人をも利することができる。 人間は社会的動物であり、他者と生を共にすることを本性としている。徳を発揮するには善を実践する相手が必要。相手の存在を知覚することが可能であることは、相手と生を共にする=談論や思考を共にすることによる。 究極の幸福とは、認識を有する人の観照的な活動である。これは智慧を求める営みよりも優越する。政治や軍事の営みは立派ではあるが、「それ自体のゆえに望ましい活動」ではない。 本書の最後は『政治学』の導入になっているとのこと。岩波文庫で読みたいので復刊してほしい(できれば新訳で)。
ニコマコス倫理学 100分で名著から入って、読み始めました。 現代人が読んで勉強になってしまうことは本当に凄いことだなと思います。 テーマは人間にとっての人生の目標は何なのかということ。 答えは「幸福」。解説文にwell beingという英語訳があり、そちらの方がしっくりきます。 それとは別に...続きを読む「快楽」についても述べられていました。 日頃「幸せ」と言う言葉を使うときは快楽を指しているような気がしていて、自分自身もそれに流されてしまうことが少なからずあるなと思います。 アリストテレスは、幸福を手に入れるにはベースとなるレベルの快楽が必要、と述べていますがこれは当時の基準なのであって、現代人は相当抑制的でないといけないんだと思います。 昔とは比べ物にならない快楽が溢れる時代に、幸福の追求を見失わないでいることを大切にしていきたい。 そのために、自分の行動が中庸だったかどうかたまに振り返ったりしたいなと思いました。 人生を考えるための補助線が増えました。
開始: 2022/6/6 終了: 2022/6/14 感想 多角的な知識・視点から様々な議論が展開されている。現代で通用する議論と当時のポリス市民を念頭に置いた議論があるので注意して読む必要がある。
「何びとも、実際、たとえ他のあらゆる善きものを所有するひとであっても、親愛なひとびとなくしては生きることを選ばないであろう。まことに、富裕なひとたち、国の支配的位置にあるひとたち、国の覇権を握るひとたちにとっても、親愛なひとびとの必要は絶大なものがあると考えられる。」 「事実、恋愛は親愛の過超に類...続きを読むしたものであり、かようなことがらは、本来、一人の人間を相手にすべき性質を有している。」 「…『親愛なひと』『友なるひと』というものは、『もろもろの善ないしは善とみられるところのものを、相手かたのために願いかつ行なうひと』だとされるのであるし、また、『相手かたの存在と生を、相手かたのために願うところのひと』であるとされる。… すなわち、彼は自分自身と志を同じうするひとなのであり、同じものを彼は、その魂全体によって欲求する。」 「自己の存在することが好ましくあるのは自己が善き人間であることの知覚に基づいていたのであり、かかる知覚が即自的に快適だったのである。してみれば、ひとは親愛なひとについてもその存在していることを同時にやはり知覚することを要する。しかるにこのことが可能になるのは、相手と生を共にするということ、すなわち、談論や思考を共にするということにおいてである。これが実際、『生を共にする』ということの人間の場合における意味なのであって、牧獣の場合のごとくに同じ場所に生息しているというだけには尽きないと考えられなくてはならぬ。かくして、至福なひとにあっては自己の存在しているということが…即自的に好ましいことであるならば、そして友の存在することも彼にとってこれとほとんど同様であるとするならば、友もまた好ましいものに属するのでなくてはならない。だが、彼にとって好ましくあるところのものは彼において現存していることが必要であり、でなければ彼はその点において欠けるところがあることとなるであろう。してみれば、ひとは幸福であるためには、よき友たるひとびとを要するわけなのである。」 「幸福な生活とは、かえって、卓越性に即しての生活であると考えられる。かかる生活は真剣であり、遊びではない。真剣なことがらは滑稽な遊びめいたことがらよりもよりよきものなのであるし、また、魂のよりよき部分とか、よりよき人間とか、いずれにしてもよりよきものの活動こそ、よりよき活動なのであるとわれわれは考える。… すなわち、幸福は、かかる時間つぶしに存せず、既述のごとく、卓越性に即してのもろもろの活動に存しているのである。」 「…節制的に我慢強く生きてゆくということは、世人にとって、殊に若年者にとっては快適ではない。だからして、法律によって、彼らの育成や、もろもろの営みが規制されてあることを要する。いったん慣れてしまえばこうしたことも苦痛ではなくなるだろうからである。だが、おもうに、若年の時代にただしい育成や心遣いを受けるだけでは充分でない。やはり大人になってからもこのような営みを続け、それを習慣としてゆくことを要するのであって、そうなると、これに関してやはり法律というものが必要であり、総じて、だから、全生涯にわたってわれわれは法律を必要とするであろう。ただし世人は、理説によりも必須なるに従い、うるわしさによりも処罰に従うものなのだからである。」
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