太平洋戦争研究会のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
個人的に列伝を読むのが好きなのだが本書もその形式に属す。太平洋戦争に関与した101人だが軍人だけではない。東條英機が諸悪の根源みたいな扱い(昨今は減った様にも思う)だが寧ろここまでの状態でバトンタッチさせた方にも問題はあるだろう。当時の日本人が強く支持した近衛文麿が日中戦争にケリをつけておけば展開も変わったのではなかろうか。そういう意味では本書が言う伊藤博文などの明治の政治家達に及ばず壊滅的敗北を喫する事になるという趣旨は頷ける。現場の軍人が有能でも上役たる人物達が英雄的且つ玉砕思考に取り憑かれていた事も勿論敗因の一つではある。
長々と歴史書を読むよりも人物を通しての戦争史なので分かりやすかった。 -
Posted by ブクログ
豊富な、そして貴重なモノと見受けられる写真を添えて「満州国」に纏わる事柄を語る一冊である。読み応え、写真の見応えが在った。
日露戦争の辺りで大陸に権益を求めてそれを獲得して行き、中国大陸での様々な行動という前日譚のような事柄が在って、やがて満州国が建国されて行き、満州国での産業活動や文化活動や建設や入植が在り、日中戦争や太平洋戦争という局面になり、戦争に敗れて満州国の経過に幕が引かれる。そうした経過が非常に判り易く纏められている本文が在るが、本文の各章の始めに貴重と見受けられるモノも含む豊富な写真を説明を添えた形で示している。時間と空間を越えて「満州国」というモノが登場し、姿を消して行く迄の経過を眼で視ているような感じにもなると思う。
本書に関しては、写真部分と本文とのバランスが好いと思う。相互に補完して、「満州国」というテーマを身近にしてくれていると思う。個人的には街の建設が進められている様子、「あじあ号」のような鉄道、産業活動や文化活動に纏わる写真が興味深かった。加えて、一部に写真も在ったが、教育や移民という事柄は考えさせられた。
「五族協和」や「王道楽土」という満州国のスローガンだが、言葉自体は何時の時代にも目指されるべきことなのかもしれない。諸民族が手を携えて平和で豊かな国づくりを目指すということ、「覇道」の対極に在る「王道」というような善政が敷かれた体制を目指すということなのだから。が、満州国での実態は如何だったのか。その辺が本書では詳しく説かれている。
また本書では、満州へのソ連軍進攻で戦争が終結へ向かって行く頃の凄惨な戦いや混乱した様子というような事柄も詳しく説いている。「T34戦車に肉弾戦」というような無茶な様子、そうやって近在の村を護ろうと必死だった様等が伝えられる。そうした例の他方、方々へ軍隊を送り出してしまった後なので、無理矢理に人手を集め、普通は兵士が携行している銃の一丁も無かったというような様子や、引揚げようとした人達の苦難ということも伝えられていた。
所謂「戦後」も既に80年であるが、それ程に時間を経ても、本書のような形で伝えられるべき色々な事柄が在るのだと思う。なかなかに有益な一冊に出逢えたのは善かった。広く御薦めしたい一冊だ。 -
Posted by ブクログ
戦後81年をまもなく迎える。私はリアルにその経験が無いので、書籍やテレビ映像などからその知識を得るしかない。太平洋戦争は1941年(昭和16年)12月8日の南方作戦及び真珠湾攻撃に始まり、ポツダム宣言受諾後、降伏文書に調印した1945年(昭和20年)9月2日までに行われた、アジア・太平洋各方面で行われた戦闘の総称である。アジア各地を侵略する日本と、それに対抗するアメリカ、イギリス、オーストラリア、中国などの連合国との間で行われ、同時期に繰り広げられていた第二次世界大戦における最大の局面の一つである。戦時における日本側の呼称は、アジアの解放と大同盟を築く「大東亜戦争」である。但しこれは後付けの大義名分であり、実態としては、アジアを侵略し植民地化しようとした日本が、最大の石油輸入先であるアメリカから、石油や鉄屑の輸入をストップさせられ、その資源を確保しようとしてアジアに攻め込んだ事が直接的な引き金となっている。
戦争は暴力を伴う外交手段の一つであるから、それまでの大陸における中国への侵略と満洲国設立や国際連盟の脱退、ドイツ・イタリアとの三国同盟締結など、様々な国の動きを見なければならず、またそれによる影響を如何に国家の利益に繋げるか、そうした流れの中で見なければ、真因は掴めない。太平洋戦争はそうした複雑怪奇な世界情勢、正に複数の細い支流が大河に流れ込む様な中で起こった、たどり着いた先の戦争であると言える。
日本の戦死者は軍人だけで200万人、民間人が80万人と言われるが、アジア太平洋広範囲で戦死した兵士の数を正確に測る事はできない。
本書はかつて繰り広げられた太平洋戦争中に残された戦場の写真を、現代技術でカラー写真化したものとなっている。著者は明治維新から昭和の占領下に至る日本の近現代史を取材・研究するグループ「太平洋戦争研究会」である。単純な写真の解説だけでなく、太平洋戦争の原因を俯瞰的に捉え、経緯や背景と合わせて、カラーのビジュアルイメージで伝えているから、流れを掴みやすくなっている。当時の日本兵士やアメリカ兵士、そして戦災に巻き込まれた人々が見た景色を色付きで捉える事で、昭和の単なる歴史の一コマというだけでなく、戦争を見た事の無い我々戦後世代にリアルな現実を見せてくれる一冊となっている。
我々戦後世代は日本人がかつて経験したことを見聞きする事しかできない。それは平和の証であると言えばそれで終わりだ。今、「新しい戦前」と言われる様に、日本は軍事力の増強に直走る。二度と再び色の付いた現実を見る事になってはならない。人と人が殺し合う現実を知り、それに近づかない様にするにはどうしたら良いか。読者ひとりひとりに問いかける一冊だ。 -
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マッカーサーと昭和天皇が並んで写っている写真。誰もが一度は目にしたことがあるとおもうが、あの写真に映る二人を見て長年勘違いしていたことがある。それは二人の年齢についてである。昭和天皇は当時四十代、対するマッカーサーは六十代。本来なら(左に映る)マッカーサーの方が歳上なはずであるが、右にいる天皇の方が疲れた表情なのか、敗戦国の主人だからか、年老いた様に見えてしまう。この写真自体がマッカーサーのラフなスタイル、天皇との身長差を意識して、よりマッカーサー自身を強く威厳のある様に写したという、戦略的な面もあったと言われる。私はその戦略に思いっきり乗せられてしまったようである。
こんな風に、写真は撮り方や部分的な切り取り方、その瞬間の捉え方によって見るものに違ったイメージを持たせる効果が期待できる。場合によっては勘違いさせたりイメージを操作するために使われる事などザラにある。だが、少なくとも瞬間に存在した事実を捉えた事には変わりなく、間違いなくそうした風景、人々がそこにはあった。写真は(現在では技術も進歩し、容易にフェイク画像は作れてしまうものの)一瞬の真実を伝える道具である。それを踏まえて、戦後80年を迎える今、敗戦に喘ぐ国民の姿やどん底から復興を目指した政治家たちの姿、戦争の責任をとりながら刑場の露と消えた戦犯たちの裁かれる姿、様々な姿を一枚一枚の写真で見ていくことができる。そこには平和を謳歌する現代人からは想像もつかない別世界が広がっている。
単なる文章として読む戦後の姿には何度も触れてきたが、当然過去には写真を見たこともあったが、改めて当時の時代背景を読みながら写真を見ていくと、今の豊かな暮らしからは想像し難い世界を目の当たりにする。敗戦直後の荒廃した街並みは、当時の空襲の凄さや威力以上に、これが同じ人間の仕業であるのかという怒りも感じる。写真には写りきらないフレームの外には、沢山の死を感じる。そして食料もなく荒廃した土地は銀座の一等地さえ畑に変える。バラックが豪華な住まいに見える様な世界だ。そしてアメリカ進駐軍に群がる人々。アメリカの洗脳は成功し、日本人の憧れとなるアメリカ。そこに前述した昭和天皇とマッカーサーの写真。それがたとえ戦略的な構図であったとしても、敗戦の責任を感じ、国の未来を憂いた天皇と、戦場国の主として占領地日本を文字通り支配下に置いたマッカーサーでは、表情にも態度にも差があって当然だ。
そして戦後復興に向けた日本の政治はアメリカの誘導の影響を受けながらも、確実に一歩ずつ前に進み始める。そこには朝鮮戦争特需という外的要因もあったが、確実に前を向いて力強く生きようとする日本国民の眼差しを写真から感じ取ることができる。本書はそうした敗戦から戦後復興を遂げる日本の姿を、瞬間瞬間の真実を並べながら、今に生きる私たちに伝える。それは教訓なのか反省なのか奮起なのか、読み方によって、感じ方も違うだろう。だが過去は変えられないし、これを未来に向かうための燃料にする事は可能だ。戦後80年、90年、100年経っても、誰かがいつもこうして、今を生きる私たちに語りかけることが重要だと感じる一冊。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ写真が語る満州国
著者:太平洋戦争研究会
発行者:喜入冬子
発行:2024年7月10日
ちくま新書
日本が満州に溥儀を立てて成立させ、経営をしていた満州国について、当時の写真を多く集めて語っていく、なかなかの労作。各章、前半に写真をたくさん掲載し、後半に文章で歴史を語っていく。したがって、文章自体がコンパクトにまとまっているので、満州の歴史を知るために辞書的に置いておきたい一冊でもある。
もちろん、詳細まではカバーしていないが、これぐらいのことを知っていれば全体像を掴むには十分だろうと思われる。
とくに満州国の歴史に詳しくはないが、意外なことが書いてあった。知っている人には意外でもなんでもないかもしれないが。
満州は満蒙開拓団を入植させ、農業を中心に植民地に近い利権を得るために造られたイメージがあるけれど、実は農業よりも重工業を中心とする産業の拠点化を目指していたことを知った。戦争で疲弊した国内での産業の成長をあきらめ、日立製作所や日産自動車、日本化学などを有する日産コンツェルンを進出させて、それまでは満鉄コンツェルンが担ってきた重工業会社を日産に移し、大産業化を図ったのだった。それを実行していったのが、岸信介と腹心の椎名悦三郎だった。
関東軍の財源の大部分は、アヘンの販売利益だった。
アナーキスト大杉栄とその妻、甥を虐殺した甘粕正彦は、実に軽い罪だけ負わされ、服役後は民間人として関東軍の裏仕事をしていた。謀略などダーティーな仕事をしていた悪だったが、国策会社である満州映画協会(満映)の経営者(理事長)になると、そのダーティーさから一転した。赤字解消のため、年功序列廃止など人事の刷新、日本人と中国人の社員・俳優との間にあった給料格差の廃止、徹底した能力主義導入、高官の宴席で女優に酒の酌をさせる悪弊の廃止などを行った。スタッフや俳優たちから絶大な信頼を得ていった。
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「満州」という呼称は、清朝時代(1616-1912)の中国東北部「東三省」(遼寧省=奉天省、吉林省、黒竜江省)全体の総称として使われていたが、語源は民族名。古来から北方民族により漢民族の中国とは別に国家が造られていた。
満州農業移民100万戸移住計画:500万人の日本人を移住させようとした。結局、約27万人と言われている。
満鉄は株式会社を装った政府機関、総裁(のち理事長や社長などに変化)は政府任命、経営方針も政府命令。東インド会社をイメージし、満鉄を通して満州を植民地支配する。明治40(1907)年4月1日~。
鉄道と炭坑の運営、植民地内の土木、教育、衛生などの施策遂行、そのための徴税権も。政府代行のミニ政府的要素。
関東州の租借期限と満鉄の経営期間が満州全土独占を目指すネックに。遼東半島の租借権は1898年から25年、満鉄経営権は1903年から36年間。そこに願ってもない第一次大戦。日本も参戦し、関東州租借期間(1997年まで)、満鉄線(2002年まで)と安奉線(2007年)の経営期間をそれぞれ延長できた(各99年間の延長結果)。
1931年9月18日、柳条湖事件を起こした。しかし、爆破の規模は小さく、直後に奉天行きの列車が何ごともなかったかのように通過した。これを合図に関東軍が動いたが。9月22日に関東軍の吉林占領を「侵略行為」として中国は国際連盟に提訴。幣原外相は軍を自発的に満鉄付属地へ撤収することを表明、連盟は日本の誠意に期待して「日本軍の速やかな撤収を勧告する」という理事会決議を出すに留めた。
1931年11月2日、満州事変に関して、関東軍奉天特務機関長・土肥原賢二大佐が溥儀に釈明した。満州人民が新国家を建設するのを援助する方針だ、新国家の指導にあたるよう望む、とも。溥儀は「その国家が共和制か帝政かを知りたい」と聞くと、「もちろん帝国です」と答えた。
1932年2月18日に独立宣言。
国体=民本政治
国主=執政
国号=満州国
年号=大同
国旗=新五色旗
溥儀は翌日にニュースを聞き、「これは共和制」ではないかと激怒するも、最終的には執政への就任を受け入れる。建国1年後に帝政に移行し皇帝になるという溥儀側の条件を日本がのんだため。実際には2年後にそうなった。
満州国において、日本人は一等皇民(天王の民)、朝鮮人は二等皇民(日本領だったので日本人扱い)、満州人(漢民族・満州民族)は三等皇民だった。法律で決められたわけではないが。
数多くの日本人が「満州」に渡ったが、基本的には中国本土(万里の長城より南)からの出稼ぎ労働者の流入や、強制移民などがその大半を占めていた。なぜ中国人を強制的に連行していったのか?満州での産業開発が急ピッチで行われたのと関係している。
1937年8月21日、国策会社である株式会社満州映画協会が発足。映画を通じて満州国の正当性をプロパガンダすることが目的。製作、配給、映写業務。満鉄あがりが経営をしていたが赤字、1939年に新理事長就任、甘粕正彦。大杉栄、内縁妻・伊藤野枝、甥の橘宗一を虐殺、服役後は満州で民間人として日本軍に協力、関東軍の背後でいくつもの謀略工作をした。ところが、満映の理事長就任後の仕事ぶりは、それまでのダーティーさとは180度異なっていた。年功序列廃止など人事を刷新、日本人と中国人の社員・俳優との間にあった給料格差を廃止、徹底した能力主義導入した。また、高官の宴席で女優に酒の酌をさせる悪弊も廃止し、スタッフや俳優たちから絶大な信頼を得ていく。
満州国政府は、1932年11月にアヘン禁止にしたが、中毒者は当局に登録させ治療名目で政府が販売するアヘンに限り吸引許可。つまり、届け出をすれば誰でもアヘンが吸える専売制とした。これにより政府は莫大な利益を得、関東軍の財源もアヘンによる利益が大多数を占めていたと言われる。
北満州を横断しているシベリア鉄道の一部、東清鉄道は、清朝崩壊後に名を変え、満州が出来てからは北満鉄道と呼ばれていた。ソ連は1932年に売却を提案してきた。1934年、満鉄に正式譲渡。
1936年10月、関東軍は満州国政府と満鉄関係者を鞍山近郊の温泉に招待し、「満州産業開発五カ年計画に関する非公式の懇談会」を開催。満州国政府7人はすべて日本人だった。「満州産業開発五カ年計画大綱」が成文化され、商工省を辞して実業部次長→総務庁次長に抜擢された岸信介により実施された。腹心は椎名悦三郎。
岸の最大の功績は、新興財団・日本産業株式会社(日産)を満州国に引き入れて、産業開発を具体的に動かしたこと。日産の総帥・鮎川義介は岸の遠縁にあたるという人脈もあった。日立製作所、日産自動車、日本化学など130社、15万人を有する日産は、満州に進出して「満州重工業開発株式会社(満業)」と改称した(1937)。かつての大コンツェルン満鉄は、鉄道部門・撫順(ぶじゅん)炭鉱・調査部門だけに縮小され、おもだった重工業会社は満業に移った。
五カ年計画が本格化すると、中国人を計画的に受け入れた。満州国に入国してきた華北地方の中国人労働者は、1938年が49万人、1939年が93万人、1940年が131万人。すでに中国と日本が戦争中なのに占領軍である日本の募集に応じて故郷を離れ、日本が奪って建国した満州に出稼ぎに行かなければならなかった農民がいかに多かったか。
問題は自発的労働者ばかりではなかったこと。1940年頃から何らかの強制力をもって中国人労働者を連行するようになった。1940年の131万人のうち、42万人は強制連行だった。1941年には満州国と華北の間で入満労働者募集協定ができ、華北の労工協会が設立されて、募集(人狩り)業務を行いだし、1941年に91万人、42年に106万人、43年に78万人が満州に送り込まれた。
強制連行は、日本軍の作戦として寝込みを襲って引っ立てたり、地域一帯を数万という軍隊で囲い込み、逃げ遅れた農民を捕まえるという方法も採用されたりした。
満蒙開拓団の入植により最初に出来たのが、弥栄(いやさか)村だった。満州移民の模範村として、後年、最も宣伝され、視察者も多かった。入植にさいしては銃と軍刀の威圧の下に進められた強制的な買収工作が行われ、さすがの関東軍付吉林軍顧問の東宮鉄男大尉もいくらかのためらいをみせ、日記にもそれを書いている。
集団開拓移民:200-300戸からなり、診療所、学校、本部といった故郷施設を備えることが原則。5年後には村政を敷き開拓村となる。
集合開拓移民:30-100戸からなり、集団移民より自由な立場での入植が可能。独立した公共施設を持たないことがある。鉄道沿線や都市部に定着。
分散移民:一集落をつくるに満たない小集団で、集団・集合開拓団周辺やその内部に入植。
関東軍では1945年6月、在満邦人の「根こそぎ動員」を始めた。兵役適齢の在満日本人男子35万人のうち、行政や警備、産業などでどうしても必要な10万人を覗き、25万人を収集し、八個師団をなした。開拓団として入植していた者も例外とせずに召集。
満州とソ連との国境線各地の後方に残された一部部隊の奮戦は、まことに壮絶なものがあった。満州東部の牡丹江では、正攻法では勝ち目がないとみて、挺身攻撃を繰り返した。幹部候補生主体の1680人からなる部隊は、ソ連戦車部隊を迎撃。ほとんどが爆弾を身に抱いての体当たり戦法で40両を破壊し、生き残ったのは約100人。
敗戦時の開拓団は、普通の開拓団が24万2300人、満州開拓青年義勇隊が2万2800人、報国農場七四場が4900人、合計27万人。