豊永浩平のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
この若さで、音楽、歴史、全部繋げて表現できるのが素晴らしすぎる、、ラップのところやcubaseでトラックを作ってる描写、ほんとにラッパー目指してるような子が書いてるみたいで鬼ヤバかったです。
作者は若い男性なのに女の人の感情をマジで違和感なく文章にされてて、読んでて気づいたら涙が出てきました、
ラップする男子高校生、ネグレクトの娘、アメリカ人と結婚した人生について家族に手紙で伝える女性、軍人の語りなど(最近鹿児島の知覧博物館に行って特攻隊員の遺書をいくつか読みました、その遺書を読んでるときと同じ気持ちになっていました)
色んな立場の人に完全に憑依してます、、、天才、
作者の豊永さんは
生きてる時代が違う人でも、どの立場の人の心情も今残っている資料などから想像できて、さらにはそれを再現して肯定できる、賢くて、心から優しい方なんだと思います。
大好きな本です。 -
Posted by ブクログ
第二次世界大戦時から現代まで、14の語り/独白からなる沖縄という磁場そのものが主役の小説。
陛下の御心のためすべてを斃さねばならぬと高揚する帝国軍人、二次性徴とヤリモクにしか感じられない男子に振り回される高校生、ベトナムへ出撃していく米兵を相手にする「男でも女でもない身体」を持つぼく、失くした脚の幻肢痛に苦しむアメリカ兵と結婚した沖縄女、時代・境遇の違う生きた人間たちの、あるいは亡霊たちの声が150ページの紙の上で時に激しくのたうち回り、時に生き生きと輝く。
ひとつひとつの語りに改行がなく、それぞれの人間の持つ文脈や暮しで文体(口調)ががらりと変わる。また、それぞれの語りはその前の語りと流れるように接続され、淀みなく、時おり荒々しく、海のように繋がり沖縄を取り巻いていく。
戦時から現代まで、沖縄という地にもたらされた暴力の構造をサンプリング的な手法で描くこの作品はまさに沖縄文学の新しい波のひとつになるのでしょう。
素晴らしい読書体験でした。
沖縄人としては方言や訛り部分は脳内で自然にその通りに聞こえてきて、帰省してあの訛りを聞きたくなった。
(肝試しの場所選びで)「五条悟が死んで南に行くから南は危なくね?」なんて会話のおもしろネタも随所に。 -
Posted by ブクログ
すごかった。素晴らしかった。
ユニークで新しい読み口の語りに興奮しながら、ハンガン(少年がくる)、トニ・モリスン(Beloved) 、宮藤官九郎 などが頭に浮かんだ。
そして何より、小説の声の遠慮や制御のなさに胸がすく思いがあった。当事者が自分の声で、自分たちの目線で、自分たちの語りを全開のパワーで訴えかけてくるところに、そうしていいんだ、そうできるんだ、声を出すべきなんだと何か勇気づけられるような気がした。あまりにも今のニュースや新聞は大きなもの、中心に居座っているものの声だけを主流として流すばかりだから。
80年前のシーンに読者を引き摺り込む文章はハンガンの「少年がくる」のようであるけれど、声のトーンは静謐ではなく、もっとストレートな怒りがちゃんと表出している。
精霊が自然に溶け込んだ語りに沖縄語(うちなーぐち)がたくさん使われ、少し読みづらさを読者に強いるところはトニモリスンの黒人たちの話す英語を音のまま写したテキストのようで、自分たちの世界を無理に説明せず、読者に迎合せず、知りたいならついてこい、といっているよう。この本で沖縄語を話すことを禁止されていたことを初めて知った。沖縄語のままの表記を読みこなしていかなければいけない読者は、自分のものでない言葉を強制されるその不自由さの千分の1でも追体験できる。
様々なポップカルチャーのレファレンスも、わからないものもかなりあったけどすごくよくて、なんというのか、軽さと重さの絶妙な塩梅が素晴らしかった。50代の私には、リアルタイムで知っているもの、知らないもの、子どもを通して見聞きしたもの、という感じで、過去から現代までの時間的、経験的地続き感を感じ取ることができる。
あの戦争での沖縄の経験はどんなものだったのか、そしてそれが現代にどう繋がっているのかを、強い感情的な知識として教えてもらった。感嘆したし多くのものを受け取った。
小説ってすごい装置なんだなと心底びっくりした。
今年ここまでで1番素晴らしかった。
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Posted by ブクログ
現代小説と時代小説の狭間にいるような、不思議な読み味の本。
戦後の沖縄から現代の沖縄を、14人の視点を通して覗き見ていく話なのだけど、読者の共感や理解を促したり読み手の快感作るような分かりやすい構成や演出をしない、その剥き出しな感じが個人的にすごく好きでした。
正直よく分からない部分も沢山あるし、読みづらい。けれど、「その人(登場人物)が見て感じた記憶をそのまま差し出す」というような荒っぽさや(物語としての)違和感、読み手に易しくない描写や展開が、それぞれの記憶の断片をこちらにリアルに感じ取らせてくれたように思う。過去にあった出来事や、歴史として語られる話の奥にあるのは、その時間を生きた人たちの人生の集まりで、本来はこういうふうにバラバラで繋がってたり繋がってなかったりする、混沌としたものなんだなとハッとさせられた。
時代も性別も感情も全然違う人たちによる言葉の連なりには、解らないところも共感できないところも沢山ある。けれどその中に感じ取れるものもちゃんとあって、読んでいて心を揺さぶられた。切なかったし、胸が苦しくなった。そして解らなさも不快感も含めて「良い読書だった」としみじみ思う、自分にとっては貴重な一冊でした。
読後の余韻が深くて重くて、一晩経ってもふとした拍子に思い出してなんとも言えない気持ちになる。
クセがかなり強い重たい話ですがオススメです。 -
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タイトル「はくしむるち」がまったく覚えられないまま読み始めた。
90才前後のおじーを媒介にした物語だ。むるちとは、この小説内で「大蛇」として使用される。嵐のように圧倒的で、暴力装置そのものだ。紙漉きをしたばかりの白紙のようなまっさらな若者たちが、そのむるちに、いまも巻き込まれ続けている。
若かりしおじーが戦地としての沖縄で過ごしたころの暴力。現在に生きる主人公の大叔父として、いまの沖縄にこびりついた暴力を観測する視線。土地そのものに、暴力の記憶が染みついている。
おじーがまだ生きているうちの話であるという設定が、これを書かせたのだと思う。いまでなければ嘘になってしまう、虚構になってしまう。いま現在、起こり続けていることなのに。その怒りをたしかに受け取った。 -
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「なーら白紙むるちぬわらばー」は琉球方言で「まだ白紙もどきの子ども」という意味。なかなかタイトルが覚えられなかったんだけど、意味がわかったから忘れなくなった。
最近歌舞伎を見ながら感じた、同じ日本語だから、まったく意味がわからないわけではない、でもすべてを言葉のまま理解することは難しいって感覚が、読んでいる最中に似ていた。
この若さでこれを書けるの凄い才能すぎる。太字とひらがなの使い方が独特。なんでこの単語をわざわざひらくんだろう?って箇所がままある。
以前ドラマ「フェンス」を見たときに、沖縄にはいろんな立場の人がいるから、それぞれを尊重するために、各々の環境や考えをわざとぼかして言語化せずに共生するようなところがあるんだ(超意訳)という台詞があったのを思い出した。 -
Posted by ブクログ
同い年の書き手だった。やばすぎる。勝てなすぎる。もちろん同い年だからこそいろんな要素が刺さった、という側面もあるが。
ぼくたちの「傷」をめぐる本だった。ぼくたちは生きていくなかで様々なカルチャーや歴史に触れる。それらは単なる好みの問題ではなくて、自分の生き方とか、もっといえば傷によって何に触れるかを選んでいるような気がする。あるいは作り手たちはそうした傷を抱えながら自分の芸術作品をつくって、同時代の人や未来の人々に影響を及ぼしていく。
『AKIRA』もTHE NORTH FACEもTikTokも屋良朝苗も傷だ。時代の傷だ。僕たちとスレスレのところ確かに彼らは存在していたし、彼らがいる世界でぼくたちは(あるいは少なくとも私は)生きてきた。
ぼくたちが生きていくなかで、どうしようもなく醜かったり、愚かだったりするようなものも描かれていた。イジメもiPhoneもハメ撮りも傷だ。望むと望まざるとに関わらず、彼らはそこにいた。大江健三郎は文学によって傷を癒すことを求めたが、こちらではそうした目の前の傷から目ぇ背けんなよっていう協定を結ばされる感覚というか、ともかくそうした読み心地が楽しかった。
氾濫する固有名詞たちは、ピンチョン的な衒学趣味とか、あるいはHIPHOP的なサンプリングの態度に収まりきらない(無論そうした意味合いも充分にある)、自分の生き方の提示として必然のものだったと思う。
それから、よくもここまでたくさんの要素をとっ散らかることなくまとめ上げたなという感動もある。組踊、沖縄方言(こう呼んでいいのかわからないが)、米軍、ジュブナイル、太平洋戦争。章ごとや節ごとに語り手が二人称で物語を進める方法だからこそできたやり方なのかもしれないが。そうした方法論に関しては、ヴァージニア・ウルフを思い起こさせるものがあって面白かった。
それから、沖縄方言を使った書き方が、私には特に刺さった。丸谷才一は方言文学を認めなかったが、こうした書き手がいるということに大きな価値を感じる。何が標準語だよ、何が国家だよ、みたいな、カウンターとしての自己表明や芸術をする余地があること、に私は祈りたいと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ2024年に『月ぬ走いや、馬ぬ走い』で群像新人賞を受賞した著者の2作目。ファミリー・ヒストリーに沖縄と戦争にかかる歴史を織り合わせていくスタイルは前作と同様だが、ポップカルチャーとストリート文化の援用がより前景化されていることが目を引く。
ストーリーは、戦時下の沖縄でも沖縄語を使い続ける徴として「赤インコ」と呼ばれた少年と、彼の死によって生きることができた修二の縁から始まった時間を縦軸に、その孫世代の少年少女が「高い壁」が立ちはだかる現代の沖縄の「生きづらさ」に取り込まれ、対峙していくかたちで展開する。酷い苛めの被害者だった行生がグラフィティ・アートの担い手として想像力にこの島に「タグ」を付けられるようになっていく一方で、行生を守るヒーローになりたかった端人、不良グループの末端でちょっかいを出し続けたことで行生に背負い投げを喰らわされたキサキの「出口のなさ」の方が印象に残るのは、若い人間に安直な希望を託さないという著者の固い決意のあらわれなのだろう。
クライマックスの琉球舞踊の場面で、数百年続く女性たちの苦難を一身に引き受けたように倒れ込む少女のありようは、演じる身体の中に演じられた人々の記憶が流れ込んでいくという点で、町屋良平の『生きる演技』とも響き合う。
異なる時間を生きた一族の生をサンプリングするようにつなぎ合わせた前作に比べ、息の長い描写や語りも多く取り入れられていて、著者としての挑戦の意気込みが感じられてすがすがしい。語り手が行生を「きみ」、修二を「お前」と名指していく語りの企みはあまりうまくいっているとは思えないが、著者が「書くこと」の地平を拡げたいという努力はひしひしと伝わってきた。