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デビュー作『月ぬ走いや、馬ぬ走い』で群像新人文学賞と野間文芸新人賞をダブル受賞した大型新人が、圧倒的な筆力で描く衝撃の長篇第一作!
暴力が支配する世界に、「ヒーロー」は現れるのか? 戦争の傷が刻まれたこの島で、新しい地図を描くための「戦い」がはじまる。
きみは沖縄に生まれ育ち、ウルトラマンに憧れるオタクになった。小中学校とエスカレートする「いじめ」を生き抜いたきみは、この島を分断する「壁」に向かって、ある「計画」を実行していく――。
沖縄の今を生きる少年少女と、80年前の戦場を生きた少年兵たち。ともに白紙のような彼らを呑み込んでいく巨大で残酷な暴力に、どう立ち向かうのか?現代と戦中戦後の時空を交差させて描く、鮮烈な青春小説にして、新しい世界文学の誕生!
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Posted by ブクログ
すごかった。素晴らしかった。
ユニークで新しい読み口の語りに興奮しながら、ハンガン(少年がくる)、トニ・モリスン(Beloved) 、宮藤官九郎 などが頭に浮かんだ。
そして何より、小説の声の遠慮や制御のなさに胸がすく思いがあった。当事者が自分の声で、自分たちの目線で、自分たちの語りを全開のパワーで訴えかけてくるところに、そうしていいんだ、そうできるんだ、声を出すべきなんだと何か勇気づけられるような気がした。あまりにも今のニュースや新聞は大きなもの、中心に居座っているものの声だけを主流として流すばかりだから。
80年前のシーンに読者を引き摺り込む文章はハンガンの「少年がくる」のようであるけれど、声のトーンは静謐ではなく、もっとストレートな怒りがちゃんと表出している。
精霊が自然に溶け込んだ語りに沖縄語(うちなーぐち)がたくさん使われ、少し読みづらさを読者に強いるところはトニモリスンの黒人たちの話す英語を音のまま写したテキストのようで、自分たちの世界を無理に説明せず、読者に迎合せず、知りたいならついてこい、といっているよう。この本で沖縄語を話すことを禁止されていたことを初めて知った。沖縄語のままの表記を読みこなしていかなければいけない読者は、自分のものでない言葉を強制されるその不自由さの千分の1でも追体験できる。
様々なポップカルチャーのレファレンスも、わからないものもかなりあったけどすごくよくて、なんというのか、軽さと重さの絶妙な塩梅が素晴らしかった。50代の私には、リアルタイムで知っているもの、知らないもの、子どもを通して見聞きしたもの、という感じで、過去から現代までの時間的、経験的地続き感を感じ取ることができる。
あの戦争での沖縄の経験はどんなものだったのか、そしてそれが現代にどう繋がっているのかを、強い感情的な知識として教えてもらった。感嘆したし多くのものを受け取った。
小説ってすごい装置なんだなと心底びっくりした。
今年ここまでで1番素晴らしかった。
Posted by ブクログ
タイトル「はくしむるち」がまったく覚えられないまま読み始めた。
90才前後のおじーを媒介にした物語だ。むるちとは、この小説内で「大蛇」として使用される。嵐のように圧倒的で、暴力装置そのものだ。紙漉きをしたばかりの白紙のようなまっさらな若者たちが、そのむるちに、いまも巻き込まれ続けている。
若かりしおじーが戦地としての沖縄で過ごしたころの暴力。現在に生きる主人公の大叔父として、いまの沖縄にこびりついた暴力を観測する視線。土地そのものに、暴力の記憶が染みついている。
おじーがまだ生きているうちの話であるという設定が、これを書かせたのだと思う。いまでなければ嘘になってしまう、虚構になってしまう。いま現在、起こり続けていることなのに。その怒りをたしかに受け取った。
Posted by ブクログ
「なーら白紙むるちぬわらばー」は琉球方言で「まだ白紙もどきの子ども」という意味。なかなかタイトルが覚えられなかったんだけど、意味がわかったから忘れなくなった。
最近歌舞伎を見ながら感じた、同じ日本語だから、まったく意味がわからないわけではない、でもすべてを言葉のまま理解することは難しいって感覚が、読んでいる最中に似ていた。
この若さでこれを書けるの凄い才能すぎる。太字とひらがなの使い方が独特。なんでこの単語をわざわざひらくんだろう?って箇所がままある。
以前ドラマ「フェンス」を見たときに、沖縄にはいろんな立場の人がいるから、それぞれを尊重するために、各々の環境や考えをわざとぼかして言語化せずに共生するようなところがあるんだ(超意訳)という台詞があったのを思い出した。
Posted by ブクログ
同い年の書き手だった。やばすぎる。勝てなすぎる。もちろん同い年だからこそいろんな要素が刺さった、という側面もあるが。
ぼくたちの「傷」をめぐる本だった。ぼくたちは生きていくなかで様々なカルチャーや歴史に触れる。それらは単なる好みの問題ではなくて、自分の生き方とか、もっといえば傷によって何に触れるかを選んでいるような気がする。あるいは作り手たちはそうした傷を抱えながら自分の芸術作品をつくって、同時代の人や未来の人々に影響を及ぼしていく。
『AKIRA』もTHE NORTH FACEもTikTokも屋良朝苗も傷だ。時代の傷だ。僕たちとスレスレのところ確かに彼らは存在していたし、彼らがいる世界でぼくたちは(あるいは少なくとも私は)生きてきた。
ぼくたちが生きていくなかで、どうしようもなく醜かったり、愚かだったりするようなものも描かれていた。イジメもiPhoneもハメ撮りも傷だ。望むと望まざるとに関わらず、彼らはそこにいた。大江健三郎は文学によって傷を癒すことを求めたが、こちらではそうした目の前の傷から目ぇ背けんなよっていう協定を結ばされる感覚というか、ともかくそうした読み心地が楽しかった。
氾濫する固有名詞たちは、ピンチョン的な衒学趣味とか、あるいはHIPHOP的なサンプリングの態度に収まりきらない(無論そうした意味合いも充分にある)、自分の生き方の提示として必然のものだったと思う。
それから、よくもここまでたくさんの要素をとっ散らかることなくまとめ上げたなという感動もある。組踊、沖縄方言(こう呼んでいいのかわからないが)、米軍、ジュブナイル、太平洋戦争。章ごとや節ごとに語り手が二人称で物語を進める方法だからこそできたやり方なのかもしれないが。そうした方法論に関しては、ヴァージニア・ウルフを思い起こさせるものがあって面白かった。
それから、沖縄方言を使った書き方が、私には特に刺さった。丸谷才一は方言文学を認めなかったが、こうした書き手がいるということに大きな価値を感じる。何が標準語だよ、何が国家だよ、みたいな、カウンターとしての自己表明や芸術をする余地があること、に私は祈りたいと思う。
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