酒井聡平のレビュー一覧
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8月になると戦争に関する番組が増えてくる。広島・長崎の原爆、特攻、東京大空襲、そして終戦の玉音放送。戦後生まれの自分には、今まで自分ごととして咀嚼することはできていなかった。昨年、沖縄のひめゆりの塔、平和記念館を訪れてから、気持ちが大きく変化を見せた。サトウキビの畑の中で、子供たちが死んでいく。防空壕に爆弾が投げ込まれる。多くの疎開の子供を乗せた船が爆沈される。悲しく悲惨な戦争。それは沖縄だけでなく、この本の硫黄島でも起こっていた。「死なないと、帰れない島」。はじめ、それは死んだら魂が本土に帰っていけるのかと解釈していたが、違っていた。アメリカの思惑、日本の思惑が絡んで、返還された後もアメリカ
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ネタバレ著者の祖父は父島に出征していた。
そして、10歳のときに父を亡くした。
祖父が出征していた父島は、硫黄島と同じ小笠原諸島の一つで、硫黄島の通信兵の一部は元々父島の通信隊の所属だった。
そして、父が亡くなったのは戦争とは関係ないが、10歳で遺児となった彼は硫黄島の戦いで父を亡くした、戦争遺児と自分を重ね合わせた。
そんな事情から、彼は硫黄島に関心を持ち、硫黄島での遺骨収集団に加わることになる。
そこには未だに亡くなった兵士の半分ほどの1万人が眠っている。そこに彼は疑問を持った。
その理由と思われるいくつかの仮説が本書に書かれているのだが、その中で戦後もなお米国の支配が続いているかのような硫黄島の -
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酒井聡平さん著「硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ」
作者は北海道新聞記者、過去3回政府派遣の硫黄島遺骨収集団のボランティアに参加されている。
自分と同い年の同学年という事も踏まえて素晴らしい活動をされている方で同世代として誇らしく思う。
自分と同年代の現40代50代の間でも第二次世界大戦の歴史に触れようとする人は極少数だと思う。何故か世間的にタブーな感覚が付きまとっており、すぐに極右的な思想と判断されてしまう事が多い。
戦争や公務で母国日本の為に殉職された方々の英霊が祀られた「靖国神社」「護国神社」の参拝すらとやかく言われるこの世の中。
忘れてはいけない事は後世の為にと命をかけた方々のおかげで今 -
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硫黄島での戦没者遺骨帰還事業について、進行していないという情報は知っていたのですが、何故進行していないのか、今後どうするつもりなのかなどについて刮目させられました。
加えて、硫黄島は日本に返還された筈ですが、ご多分に漏れず米軍への提供地域が少なからず残っている上に、名目的には返還されたものの、何分遠隔地である上に民間人が訪れることはできない土地であるので、実体的な支配はどうなっているのか?という疑問点もある事が判りました。
最後に、尾辻参議院議長の遺骨帰還事業に込めた思いというのは、この本で初めて知りました。深い思いがあるんですね。
この本の内容は、もっと知られるべきだと思います。 -
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「硫黄島では一万人が未だに見つかっていません。見つからない理由の一つとして挙げられるのが『風化』です。」
物理的な遺骨の風化と、居住が認められていないことによる記憶と記録の風化、そして、米軍による現在までの支配と日本政府の忖度ーー。
色んな条件が重なって遅々として進まない現状。そんなこと言ってる僕自身も「硫黄島は住むのは無理な過酷な環境でしょうがない」という思い込みがあったし、そもそも読むまで「いおうジマ」だと思ってた自分を恥じる。
戦後を終えるためには僕らが知ること、忘れないことが重要だと痛感。
著者のこの島への執着、執念、情熱に、脱帽と敬意。個人的な意志もあろうがただただ仕事人としても尊敬 -
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サイパンで戦死したと聞いているおじいちゃんのことがずっと知りたくて、でも何もわからずで、近づきたくて、場所はちがうけどこの本を手にとった。国や家族や未来のために戦ってくれた方々に、亡くなられた方々に、その家族の思いに思いをよせ、おじいちゃんを偲び、自分の境遇の有り難さをあらためて思う。4章では最後の2文に共感。僕は霊魂を信じるというか、普通にいると思っている、見たこと感じたことがあるわけではなく証明できないが、いるように思うだけ。7章、8章では死が目前なのに笑顔でいられる境地、本土に帰る人を笑顔で見送れる境地に思いをめぐらす。同じ境地にたてるものではないけれど、残りの人生を生きる価値を見いだす
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これは一級のノンフィクションです。
クリントイーストウッドの映画で「玉砕の島」
として広く知られる硫黄島(ちなみにイオウジ
マではなく、イオウトウです)
約2万人の兵士が犠牲になったと言われていま
すが、実はそれらの遺骨は現在でも半分が見つ
かっていません。
そもそも民間人の上陸は禁じられていて、遺骨
の探索も多くて年に4回程度です。非常に少な
いのです。
なぜか。
戦後、硫黄島が辿った歴史を掘り起こすことで
その理由が見えてきます。
遺骨の探索に関わる人は主に、硫黄島に散った
兵士等の遺児です。
しかし当然彼らも高齢です。残された遺族がど
んな思いで遺骨を探すのかが、痛切に伝わ -
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TBSラジオ「session」に、著者の北海道新聞記者・酒井聡平氏が出演していたことをきっかけに読んだ一冊。
祖父が戦時中、硫黄島の隣の父島にいたことを知り、祖父の戦友たちを見つけたいという思いで、並々ならぬ執念と行動力で遺骨収集団に加わる様子を読み、このような人、このような記者がいるのだと驚かされる。
当時の硫黄島を知る人や、遺族へのインタビューは貴重な話ばかりであり、戦後80年を前にこのような活動や記録することよ大切さを改めて知ると同時に、私たちも「知る」ことを続けなければならないと感じる。
「忘れてはいけないことは 決して忘れてはいけない」
本書の最後に紹介されている、酒井氏の座右の -
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小笠原諸島にある硫黄島は1945年2月19日に米軍が上陸、日本軍との地上戦となった島だ。本土の防波堤となるべく戦った日本兵士たちは3月26日最後の総攻撃を仕掛け、壊滅した。
著者は若手の北海道新聞記者だが、祖父が小笠原諸島の防衛を担う部隊に所属していた。祖父は幸運にも生還したものの体の消耗がたたり、56歳で病死、父も著者が10歳のとき、47歳の若さで急逝している。遺児となった著者は戦争で家族を失った人に強烈なシンパシーを抱き、祖父の履歴書から硫黄島報道に執念を燃やすようになる。
そして、硫黄島に計4回渡り、うち3回は政府派遣の硫黄島戦没者遺骨収集団のボランティアとして渡島した。
「硫黄島の戦い -
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「戦争はまだ、終わっていない」。
読んでいて泣けてきました。
「硫黄島」と聞くと、映画(渡辺謙さん・二宮和也さん、イーストウッド等)を想起出来る人は多いと思うのですが、では「硫黄島の戦いのその後」について考えている、或いは考えた事のある日本人はどのくらいいるんでしょうね。。
この本に出てくる「国の不作為(収集作業の怠慢)は、トップ(歴代政権の代表)の意思の問題」という言葉は重いと思いますよ。
この本の著者は北海道新聞の記者。ただ、仕事とは関係なく「政府派遣の硫黄島遺骨収集団のボランティアとして4回渡島」しているようです。
この本はその時の遺骨収集の体験とか、「戦死者2万人のうち、未 -
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太平洋戦争末期の1945年2月19日、硫黄島に米軍が上陸、36日間の激戦の末、日本軍は約2万3千人のうち、2万2千人が命を落とし玉砕した。
硫黄島は、もともと、緑と花とフルーツの樹に満ちた島。約1千人が家族のように暮らしていた。
サイパン島が敵手に落ち、空襲が激しくなった1944年、一部の若い男性のみを軍属として残し、島民たちは本土に強制疎開となった。
1968年、硫黄島を含む小笠原諸島の施政権が日本に返還され、父島・母島の島民は帰島を果たしたが、硫黄島民やその子孫は帰島が認められていない。
いまだに1万人もの遺骨が家族の元に帰れないことに焦点を当てた「硫黄島上陸」を書いた著者が今度は、この問 -
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本書は、北海道新聞の記者が太平洋戦争激戦の地【硫黄島】で、政府派遣戦没者遺骨収集ボランティアをし、関連取材を纏めたもの。
著者の祖父が硫黄島と同じ小笠原諸島の父島で従軍していたことや、自分も10歳で父を亡くし遺児として寂しく過ごしてきたこと、それら自分のルーツを考えるうちに硫黄島で遺骨収集する中に戦争遺児が多くいることも知り、自分の境遇と重ね合わせシンパシーや使命感?なるものを感じ、更に深く戦没者遺骨収集に関することを調べ始めた。
著者の人生をかけて活動している執念と行動力に感服した。言葉を操るジャーナリストの真実に迫る探究心が半端ないとおもった。そして、戦没者や戦争遺児に対する彼の様々な -
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日本本土空襲の中継基地としてTokyoの南方1200kⅿにあるIwo Jimaを占領せんとする’45年2月19日から36日間の激闘、司令官は玉砕を許さず総延長18㌔もの地下道で抵抗、守備隊2万3千のうち2万2千が死亡したが米軍も海兵隊5931死亡、19920負傷など犠牲は甚大だった。英霊の遺骨はいまだ半数以下しか収容されていない/
第4章 情報開示請求で暴いた
遺骨行方不明の要因1 島の様変わり
2 米軍による壕の閉塞
「におい」に導かれて
悲惨な状況は極力記載せず「口頭報告」に
3 「先に遺骨を収容した日本人がいた」1951年2月から53年9月に「清掃工事」を受注した「高野建設」
4 3時