藤田正勝のレビュー一覧
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リアル本にて。
コーチャンフォー若葉台店で見かけて、子供たちと哲学について語るときのために購入。
自身は割と最近までずっと哲学を勘違いしていた。ちゃんとした能力があれば、きちんと勉強することでいつか「理解」に到達ものだと思いこみ、過去の哲学者の書籍を読もうとしては挫折し、哲学は理解できない、自分には能力が足りない、と受け止めてしまっていた。そのため、哲学というものは自分には縁遠い、崇高な学問だと不当に敬遠してきた。あるいは、現実世界に役立たない有閑階級の戯れぐらいに考えていた節もある。ただこの誤解って意外と一般的ではないだろうか?
私にとっての転機は、今の会社の同僚が「自分は実利主義なんで、本は哲学書しか読まない」と言ったときだ。「かっこいい。。。」た思うと同時に、役に立たないと思っていた私の頭は「???」がいっぱいになった。その同僚に紹介してもらった「哲学入門」や、本書などで、徐々に勘違いを払拭してこれている気がする。
哲学を数学や工学のような修める対象の学問と捉えるから勘違いする。哲学は、「答えの出ない根元的な問いを立て、その問いについて考えること」である。つまり、動作や振る舞いを指し、分類としては「勉強」や「運動」に近いと捉えている。
本書はまさに、そのような答えの出ない、しかし身近な問いを幾つか紹介し、そしてなぜそれが一筋縄で答えられないのかだけ述べて、考えるのは読者に丸投げしている。これこそが、私が最初に出会いたかった哲学の入門書だと思った。
私が誤解するに至る要因となった哲学入門書は、○○は△△という考え方を提唱し、それに対して✕✕が□□という考え方を提唱し、、、という哲学史の紹介に終始していた。実際に考えを深めていくときに、そういった先人たちの考え方を知り、その上でより深い考えを構築するためだということは理解できる。が、それは実際に哲学しようとしたときに、自分が考えようとしている問いに対する先人の考えを調べて知れば良い。本書も、先人の考えの紹介がまったくないわけではないが、それはあくまでも問いが先にあって、それに対する考え方の紹介というスタンスに見受けられた。
子供たちが哲学に興味をもつ年代になったら、本書を一緒に読み、哲学対話をしてみたい。 -
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「「いき」の構造」を昔読んで、がなんとも面白くて、興味をもっていたのだけど、なかなかそれ以外の作品には触れないまま、忘れていたのだけど、ふと気になって、読んでみた。
なるほど、「「いき」の構造」を読んだ時に感じた、日本文化のクオリティを探求していこうという感覚の繊細さと西欧的な明晰な構造分析の統合みたいなのが、九鬼周造の読みどころなんだなと思え、うれしかった。
そして、九鬼の他の主な著作も全体が見晴らすことができて、今後、なにを読めばいいかわかったのもよかった。
なんか、この人、わたしが問題としているところと近いところで考えているんだなと妙なしたしみを感じた。少しづつ読んでいこうと思う。
ちなみん、九鬼は当時としてはかなり長い8年間ヨーロッパに留学して、ハイデッガーやフッサールなどの講義を聞いたり、若き日のサルトルと交流があったりしたみたいで、その辺を想像するとすごく面白い。
九鬼とハイデッガーが交流していたころは、もしかするとハンナ・アーレントがハイデッガーと恋愛関係にあったりしたかもな時期で、九鬼とアーレントとの遭遇なんかもあったりしたかもとか想像するのも楽しい。
もっとも、アーレントが有名になったのは、第2次世界大戦後で、九鬼は1941年になくなっているので、もし出会っていたとしても、当時のアーレントは全くの無名時代なので、気づかなかったかもな〜。
それにしても、20世紀の哲学におけるハイデガーとフッサールの影響の大きさを改めて感じるな〜。 -
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「生」「私」「死」「実在」「経験」「言葉」「美」「型」の8つのテーマについて、哲学的な立場から考察をおこなっている本です。
著者は、西田幾多郎などの日本の哲学者についての研究で知られており、本書でも西田をはじめ和辻哲郎や田辺元、三木清といった思想家たちに言及されています。西洋哲学をメインに哲学の諸テーマについてわかりやすく解説している本を期待する読者には、あるいは違和感をおぼえる内容かもしれません。
著者は本書の「序章」で、哲学は普遍的な内容をもつのか、それともそれぞれの文化圏におうじた個性をもつのか、という問いを提起し、異なる文化的背景をもつ思想が相互に対話をおこなう場所として、哲学という学問を理解するという考えかたを語っています。プラトンやデカルトといった西洋哲学とは異なる入り口から、哲学という普遍的なテーマにアプローチする道筋があるということを示しているという意味で、興味深い哲学入門だと感じました。 -
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日本独自の美意識である「いき」について哲学的な考察をおこなったことで知られる九鬼周造の生涯と思想を、わかりやすく解説している本です。
主著とされる『「いき」の構造』や『偶然性の問題』のほか、九鬼の回帰的時間論、日本文化論、文芸論などが扱われています。とくに『「いき」の構造』と『偶然性の問題』がとりあげられている章では、単行本にまとめられる以前の九鬼の思索の過程をたどることで、彼が何を問題にしていたのかがていねいに解き明かされています。比較的平明に書かれた本ではありますが、この点では研究書というべき内容をそなえているように思います。
本書と同じような趣旨で書かれた九鬼哲学の解説書としては、ほかに田中久文の『九鬼周造―偶然と自然』(ぺりかん社)があります。田中の本では、九鬼の日本文化論が「自然」の一元論に回帰していったことについて批判的な態度がとられていますが、本書はこれとはやや異なる立場から九鬼の日本文化論の評価がおこなわれています。著者は、九鬼の議論に当時の国家主義的な潮流の影響が見られることを認めつつも、日本文化を世界に開かれたものにしていくような可能性をもっていたことに注目し、その積極的な意義を見ようとしています。
両方の著作を併せて読むことで、九鬼の思想を読み解くための機軸を得ることができるのではないかと思います。 -
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著者の藤田正勝氏(1949年~)は、ドイツ哲学、思想史、日本哲学史を専門とする哲学者、思想史研究者。
哲学を専門とする著者が日本文化を考察した本書を記した背景は、近年、世界全体において、それぞれの文化、民族、宗教の間の溝が一層深くなる方向に動き始めており、そうした状況の中で求められるのは、お互いの歴史や文化を認め合い、対話し、尊重することで、その前提として、我々は、日本の文化や思想、宗教が長い歴史の中で生み出し、作り上げて来たものを再認識する必要があると考えたことだという。
そして、西行の「心」、親鸞の「悪」、長明と兼好の「無常」、世阿弥の「花」、芭蕉の「風雅」の5つのキーワードを基に、彼らの詩歌や思索、信仰を辿り、日本の文化の中に通奏低音として響いているのは「無常」への深く強い思いであることを明らかにしている。
「風になびく富士のけぶりの空に消て 行方も知らぬ我思哉」(「西行法師家集」)
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたる例なし。・・・朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。不知、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る」(「方丈記」鴨長明)
「あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつる習ひならば、いかに、もののあはれもなからん。世はさだめなきこそ、いみじけれ」(「徒然草・第七段」吉田兼好)
「つらつら世間の幻相を観ずるに、飛花落葉の風の前には有為の転変を悟り」(謡曲「柏崎」世阿弥)
「楽天は五臓の神をやぶり、老杜は痩たり。賢愚文質のひとしからざるも、いづれか幻の栖ならずやと、おもひ捨てふしぬ」(「幻住庵記」松尾芭蕉) 等々
いずれに流れているものも「無常」への思いである。
そして最後に、西田幾多郎の思想を引用して、西洋文化と東洋文化の違いは、前者は「有を実在の根底と考へる」文化であるのに対し、後者は「無を実在の根底と考へる」文化である、換言すれば、前者は、具体的な「形」をとったものを重視する文化であるのに対し、後者は、そのような「形」が生まれてくる以前のもの、つまり「形なきもの」を重視する文化であると述べている。
著者の語る通り、世界中でナショナリズムが声高に叫ばれる近時にこそ改めて認識するべき、日本の文化・思想のエッセンスがコンパクトにまとめられた良書である。
(2017年10月了) -
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著者の藤田正勝さんは、京都大学卒業。だからだと思うが、西田幾多郎や田辺元に関する著作も多い。
彼の哲学に対する姿勢は明確だ。「はじめに」にも、「あとがき」にも書いてあるが、「哲学の問いは、ボクたちの日常生活や経験と深く関わっているものでなければいけない」ということだ。九鬼周造の言葉を借りれば、「生きた哲学は現実を理解しうるものでなくてはならぬ」となる。
たとえば、「善とは何か」、「美とはなにか」、「生とはなにか」、「存在とはなにか」、「死とはなにか」。もちろん大きな問題だが、誰だって考えたことはあるだろう。だが、この本で一番印象に残るのは、ボクにとって「言葉とはなにか」だった。
■私たちの思索は、私たちがそのなかで生まれ育った文化や伝承の枠のなかでなされるものです。そこでは言語が大きな役割を果たします。
■井筒俊彦は、コーランの分析を通して、道徳的観念が時間・空間を越えて普遍的であるというのは一つの思い込みであるとはっきり主張しています。道徳的キータームの意味内容は「言語コミュニティーごとの人間生活の具体的現実の只中において」形成されると主張している。
■私たちは日本語なら日本語、ドイツ語ならドイツ語、それぞれの言語によって、いわば一つの連続体である知覚対象を独自の仕方で分節しているわけです。私たちが使う言葉に応じて、それぞれの仕方で近く対象に切れ目が入れられるといってもいいでしょう。
■世界の見え方、あるいは世界のあり方に言葉は深く関わっています。その世界の見え方、あり方は言葉によって織り成された世界理解の枠組みとして、私たちのうちに蓄積されます。私たちが日々行う経験には、この世界理解の枠組みが関与しています。私たちの経験には言葉が深く関与しているのです。
■私たちの具体的な経験の中で使われる言葉はすべて、背後のこの「ふくらみ」を持っています。(中略)経験と言葉のあいだには、先ほど述べたように、超えがたい大きな間隙があります。しかし、私たちはその「ふくらみ」を手がかりにして、この間隙を飛び越えることができます。
最後に書いてある田辺元のことばも大きな共感を呼ぶ。「哲学は自分が汗水たらして血涙を流して常に自分を捨てては新しくなり、新しくするというところに成り立つのです」。
悩みながら、ときに苦しみながら、実際の経験を経て新しくしていく自分。覚悟が必要な言葉だと思う。 -
Posted by ブクログ
西行の「心」、親鸞の「悪」、長明と兼好の「無常」、世阿弥の「花」、芭蕉の「風雅」の五つのキーワードをめぐって、日本文化の諸相を論じている本です。
著者はヘーゲルや日本哲学の専門家で、とくに世阿弥についての考察で、禅からの影響を重視しているところに、京都学派的な日本文化理解の特色が見られるように思います。
また最終章では、西田幾多郎の『日本文化の問題』がとりあげられ、日本文化の優越性を主張する偏狭な国粋主義が跋扈する時代にあって、西田が世界のなかで日本文化の個性を生かしていく方途をさぐっていたことがとりあげられ、現代を生きるわれわれが日本文化をどのように受け取り論じるべきなのかという問題にかんする著者自身の見解が示されています。