山岡龍一のレビュー一覧
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言葉の意味、人生の意味などについて考えていた時期があったが、文化や時代によって言葉のもつ意味は変わるし、明確に境界線を引けない曖昧語や誤解しやすい言葉もあることは理解していたけど、偶然性という表現でとらえることは初めて知った。そして、なるほどと納得できた。
フロイトによる道徳主義とロマン主義の争点の終結という話で、両者を数ある適応形式の一つに過ぎないという考えが示されてスッキリした。
・個人の自発性や私的な完成に生きる人には、畏敬の念を示すが、未発達的と記述する
・その社会で普遍的に共有された責任を果たす、単に道徳的な人には、退屈するが、成熟した人と記述する
では、道徳性をどう考えるかというと、共同体のメンバー、共通の言語の話し手としての私たち自身の声であると考えることができる場合にのみ維持できるものと考えるということだと理解した。そして道徳性を磨くのに、小説や演劇といった芸術が役立つと書かれていた。
以前より、人が悲劇や悲惨な暴力描写などのある芸術を鑑賞するのはなぜか?と考えることがあり「ポジティブシンキングにならないために」という本を読んでいたのを思い出した。本書「偶然性・アイロニー・連帯」にあるように無意識的な人も意識している人もいるかもしれないが人々は道徳性を磨こうとして小説などで体験に触れているのかもしれない。
後半の書物に関する批評は、先に取り上げられている書物を読んでみてから、また読むのが良さそう。 -
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ネタバレローティ→肩甲骨のおののき
以下松岡正剛引用
リチャード・ローティの両親は戦前の共産党員だった。両親はいっときトロツキー(130夜)の秘書を匿ったことがあった。少年ローティはそういう両親が誇らしかった。その両親の影響らしいのだが、ローティは12歳のころには、「人間としての大事なことは、社会的不正義との闘いに自分をささげることである」という仄かな確信をもつようになった。
しかし他方では、12歳のローティはニュージャージー北西部の山に自生する野生の蘭の美しさにとても惹かれていた。その途方もなく官能的な美しさには「うしろめたさ」を感じるほどだった。
では、「トロツキーと野生の蘭」をともに抱くにはどうしたらいいのか
◯戦後の学問そのものの方向性に根差した独創的思考
言語はゲームに過ぎないことを喝破したリトゲンシュタイン、アプリオリなんてないことを証明したゲーデル、相対性理論のさらにその先科学は人間のものの見方のひとつに過ぎないことこそがその優位性であることに気付かせる物理学、文化人類学の存在論的転回…
コスモスからカオスへ
を体現する「偶然性」の思考の源流がリチャード•ローティ。
現代美術作家のワイド・ガイトンもおそらくローティーのコンセントを作品化している。コンテンジェンシームーブメント。
偶然性に身を委ねる、とは何かの実践こそがローティ以降の哲学的試行錯誤となっているし、あらゆる分野でローティ的価値観を垣間見る。マイケル・サンデルの「すべては運である」。
近代が目指した「社会が良くなれば人は幸せになれる」リベラリズムの理想が崩壊した後に巻き起こるトランプ現象を予言したローティ。法を守りさえすれば道を踏み外さずに済むと考える人はただ快楽と暴力が政治を左右する21世紀にただ立ち尽くすことしかできない。 -
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リチャード・ローティ。
本書を読み進める前の彼の印象は、近代以降の真理探究哲学を完全否定したアンチ哲学の哲学者、というか、会話をし続けることが哲学であるというスタンスでやりきったアメリカのおっちゃんというイメージでした。
本書は、三部構成で、タイトルにあるように「偶然性」について、「アイロニー」について、「連帯」についてのパートで書かれていますが、正直なところ第一部「偶然性」から読み進めてサッパリなところも多く、納得したとしても、いざメモを取ろうとして、はて何と書き残せばいいやらとなってしまいました。
さいわい併読した、『100分de名著「偶然性・アイロニー・連帯」』(朱喜哲さん)のお陰で本書の全体像とローティ哲学のエッセンスをくみ取ることはできました。
ローティは、「リベラル・アイロニストのあり方」を本書で提示してみせたのですが、対比させている「形而上学者」や「真理」や「コモン・センス」については、とっても鋭く批判しているように感じました。
それぞれにあたる哲学者への痛烈な批評もすごいのですが、取り上げている著述家がフロイトやハイデガー、プルーストやニーチェ、デリダ、ナボコフ、オーウェルといったメンツで、後半につれて文芸批評に斬り込んでいくところ、非常に面白かったです。
個人的には、ナボコフ論での「カスビームの床屋」の提言がグッと来ました。われわれは感情教育で被害者に共感することは学んでいますが、残酷さに無自覚であるという点において、加害者もまたわれわれと同類であることを気づかせてくれる挿話です。
ローティもいうように、「われわれ」を拡張していくことによって、会話を守り、連帯を生んでいくことが、いまの分断された世界や危険なポピュリズムに陥ることを防ぐ術であると納得しました。
たまたま、朱喜哲さんを『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)で知っていたため、私の中で、「ネガティヴ・ケイパビリティ ー 朱喜哲 ー ローティ」とつながって思い読んでみた哲学者でしたが、予想通りの難しさと、魅力的な語りのローティに引き込まれる読書体験でした。
本書とは違いますが、朱喜哲さんによると、ローティの「バザールとクラブ」の比喩が、(「世界と世間」みたいにみえるかもしれませんが、)本書のテーマの一つである「公私について」の重要なたとえとなっているそうなので調べていこうと思っています。 -
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2005年に発売された「一冊でわかる」シリーズの『政治哲学』の岩波現代文庫版。
<目次>
第1章「政治哲学はなぜ必要なのか」、第2章「政治的権威」、第3章「デモクラシー」、第4章「自由と統治の限界」、第5章「正義」、第6章「フェミニズムと多文化主義」、第7章「ネイション、国家、グローバルな正義」、解説「政治哲学はどのようなものとなりうるのか」、岩波現代文庫版あとがき
<レヴュー>
訳書の体裁は2005年版とほぼ変わらないが、文庫版では紙幅の都合で図版をカットしたとのことで、特にロレンツェッティの寓意画がないのは少々もったいない気がする。とはいえ代わりに参考文献リストがさらに充実したものとなっている。扱っているトピックは多くの政治理論の概説書と共通しており、政治哲学の存在理由、そもそもなぜ政治的権威≒国家が必要なのか、その統治形態としてのデモクラシーの価値如何、統治の目標あるいは制約原理としての自由や正義、そしてこうした主題を扱う際に前提となる枠組みに挑戦しているとされるフェミニズム、多文化主義、グローバル・ジャスティス論といったものである。ただし類書と比べた際の大きな特徴は、理論家の名前や専門用語の類いが最小限しか登場せず、むしろどのような«考え方»によってそれぞれのトピックにアプローチすればよいのかという部分に焦点を当てるかたちで議論が進むことだろう。その意味で、導入科目のテキストの候補に挙げやすい一冊である。また当然、政治哲学という分野がいったいどういうものなのかをある程度知っている人間にとっても、平易な言葉で進められる論述は非常に魅力的である。もちろんこれは、原著者の努力もさることながら、訳者二人の推敲の賜物でもある。また訳者による解説・文庫版あとがきも政治哲学という分野の近年の動向を簡にして要を得たかたちでまとめてくれており、非常にありがたい。 -
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前作『哲学と自然の鏡』において普遍性を目指す営みとしての哲学を批判的に解体したローティはその批判を突き詰め、表題にもなっている「偶然性」、「アイロニー」、「連帯」をキーにリベラルユートピアの実践の可能性を探索する。
リベラルユートピアに必要なことは
アイロニーによる私的な領域と
残酷さへの意識という公共的な領域とを並存させることだとローティは説く。
本書では、私的領域を開発していくアイロニストの例としてプルーストやデリダが、
残酷さを描き出すことによって連帯に寄与した例としてナボコフやオーウェルが検討されていく。
わたし個人、特に興味を惹かれたのはアイロニストとしてのプルーストについての言及だ。ローティが使用するアイロニストの意味はやや特殊である。
ローティの言う「アイロニスト」とは普遍性、永遠性、固定的な真理性とは対照的に「偶然性」をもって臨んでいる者のことである。変化することのない絶対的な真理や存在を求めない、いや、そもそもそんな問題にかかずりあわない。自分が関係を持つことになった対象、-それは必然的に偶然性以外のなにものでもないのだがーを歓待する。そんなスタンスを有した者のことだ。
アイロニストは偶然性を受け入れる。偶然性を受け入れるということは要するに、変化を受けれいることであり、それはまた時間性への意識でもある。
プルーストがアイロニストの代表として取り上げられているのはまさにこの点においてなのだ。
『失われた時を求めて』の最終巻のタイトルは「見出された時」だが、主人公は、貴族の没落、成り上がりの者の繁栄、美しき婦人の老衰、政治思潮の激変、憧憬を抱いたものへの失望などなどを目の当たりにし、それら圧倒的な変化としての「時」を再発見する。
このように主人公が時を見出したことによって『失われた時を求めて』の執筆を決意し物語の幕が閉じられるのだ。
整理すると『失われた時を求めて』を執筆したプルーストは、ローティの言う「アイロニスト」になるまでの過程を、アイロニストとしての眼差しで描き直したということになる。
このあえてつくられた位相のずれはプルーストが本来の意味でも「アイロニスト」たることを証立てていると言えるだろう。