関口正司のレビュー一覧
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J・S・ミルについてはマイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」で名前を聞いてはいたがその思想についてはほとんど知らなかった。人間が持つべき自由の権利について、極めて現代的で当時としてはかなり先進的な思想を持った哲学者(思想家?)だということが分かった。他人の権利を侵害しない限りは人間は自由であるのは当然と思うが、昔(と言ってもたかだか100年前)はそんな思想さえなかったのだろう。日本でももっとミルという人物が知られるべきだと思うし、また、現在の日本の思想状況とポピュリズムの蔓延ぶりを見ているともう一度、人間の自由についてミルの思想を再認識した方が良いと思った。
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・一回通読。主体性を強いる命令というダブルバインドから、人生及び思想の形骸化空洞化を感じ、精神の危機に陥ったミル。自然・芸術・論敵・伴侶との出会いと交流を通じて、有徳な人々による非利己的な行為や、快楽の質的差異としての尊厳の感覚などを見出し、父やベンサムの理論を拡張。自由原理に基づき、民主主義に立ちはだかる3つの専制、多数、エリート、良心の専制への警鐘をならす
・知の巨人達の肩に乗っていることを自覚できていたとしても、自身の主義主張行為が形骸化空洞化していることには気付き辛いかもしれない。ミルによる思想討論の自由への言及、特にその自由が脅かされることによる弊害としての、無謬性の幻想、思想の空洞化を聞いた時、事勿れ主義で普段から討論を避けている自身の危うさに気づかされた
・表面的には、思想は主知主義権威主義的に感じ、人道的言説も東インド会社勤務との矛盾を感じるが、ジャマイカやアイルランド問題への態度から、理想と現実、理論と実践のバランスをとっていた人物であることが伺える。ただし、国家の構成員に、知性、政治的関心、公共精神を強く求める点については、それらを持たない人々の背景や感情への配慮や想像力が、やや限定的に感じた -
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個人の自由の限界について論じた、政治哲学の古典。
JSミルの、個人の自由を擁護することで社会を発展させようとする意欲に溢れた、非常に力強い筆致が印象的であった。
あまりにも重要なエッセンスが多く、とてもレビューでは語りきれない。印象に残った点を一つ挙げるとすれば、ミルはかなり厳格に個人に関する領域と社会に関する領域を分けて考えているということである。公益を侵害したり他人に対する義務を果たさないわけではなく、ただ個人の責任にのみ帰せられる事柄について、社会が介入することを強く禁じているのである。個人の自由を最大限尊重し、社会の幸福を最大化するというミルの思想は徹底しており、論理に隙がない。現代民主社会においてなお問題であり続ける「多数者の専制」を克服する上で、ミルの「自由論」は強い説得力を示し続けているのである。 -
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19世紀英国の思想家であるミルの代表作になります。本書は題名の通り「自由」について論じている本ですが、冒頭にも書かれているように、各人の市民的、社会的自由はどのように定義されるのか、を論じています。端的にいってしまえば、最終章に書かれている2つの格率が結論になります。第1に「個人は彼の行為が彼自身以外の何びとの利害とも無関係である限りは、社会に対して責任を負っていない」こと、第2に「他人の利益を害する行為については、個人は責任があり、また、社会が、その防衛のためには社会的刑罰または法律的刑罰を必要とする場合には、個人はそのいずれかに服さなければならない」ということです。そしてそれを説明するために、本書では思想及び言論の自由について、幸福の諸要素の一つとしての個性について、さらに個人を支配する社会の権威の限界について述べられています。
本書を読んで感じたのは、特に宗教と政府による強制への反発(あるいは警告)でしょうか。そもそも本書は訳注に書かれていているように、「自由」と「強制」の境界線を議論している本で、干渉と不干渉の境界線の議論ではありません。つまりミルからすれば、たとえば宗教団体がある人(信者ではない人)に対して「これこれこういうことはしない方が良いよ」という忠告を与えること、つまり干渉すること自体は道徳的に全く問題がないけれども、自分の宗教で禁止されていることを信者以外にも「強制」することは極めて問題があるということになります。その禁止したいと思っている行為自体が格率1に抵触していないことが条件です。本書は訳注もとても充実しており、自由とはなにか、ということを考えるに当たってとても勉強になりました。 -
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完全な真理に到達するまでは可謬性を伴ってしまうとしても、多様な意見のぶつかり合いが必要だということなのです。基本的に世の中では一部の真理を含んでいる意見というものが多いわけなので(逆に言えば全て正解ではない)突飛な意見に見えるとしても実は聞くに値します。そのような訳でカントが「啓蒙とはなにか」の中で展開した議論と非常に似ているものがあります。この本の中で理性の公的な使用は制限されるべきではなく、一方で理性の私的利用は時には控えるべき場面もあると彼はいいます。例えば、すでに上官から命令が出ているのにも関わらず兵士がそれに対して意見を言うのは理性の私的利用を控えるべき場面に当たります。カントは全ての市民の理性の公的使用を促進すること、そのような自由を確保していくことが啓蒙に繋がるのだとこう言うことを言っているわけです。
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マルクシズムが終わってポストモダンもなんかよくわかんないまま終わってコロナとか戦争とかで結局ナショナリズムなの?ってとこにきて唯一機能し得る政治哲学は功利主義なんじゃないかって思ってる。てか下の世代の意識高い人の発想を聞いてると大抵無自覚に功利主義できなんだよね。
ベンサムの功利主義への批判の半分くらいは既にミルが論破してるよね。動物的快楽に溺れてる自分の姿って嫌だから善人になりたくなるっしょ?みたいな。マズローの6段階?のやつは科学的ではなかったって証明されてしまったらしいけど、行動経済学とか新たな知見によって功利主義は補強されうると思う。
ただし人間以外の動物も頭数に入れちゃうのはよくないと思うなー哲学を観念するのは人間だけなんだから哲学が頭数に入れるのもまた人間だけであるべき。 -
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ネタバレ初岩波白。
正義にはそもそも色んな種類があって、その時々にちょうど良い正義を取り繕ってなんやかんや取り組むぜみたいなところには確かにそうかもなと思った。ぶっちゃけ見方次第で事の是非なんかどうとでもなる気がする。
質的快楽についても、たとえば、セックスと研究のどちらがより価値のある快楽かと問われても、わたしにはわからない。セックスしたことある研究者に聞いてもどっちが優れてるかなんかまた別の話なんじゃないかな。
それから功利主義は社会全体の利益を考えて行動するという提案をしているけど、この「社会全体」とはいったいどこまでをいうんだろう。この問いは翻訳者の解説に書いてあった問いだけど、確かに、と思った。
日本全体?世界全体?動物を含めた生命全体?
ここが曖昧だと、たとえば奴隷とか、不可触民とか、そういった立場の人が社会全体に含まれない社会にとっては功利主義は暴力的なものになるかもしれない。
あるいは、もうなってるのかもしれない。ヴィーガンなんかが主張する動物全体を含めた利益を、非ヴィーガンは利益としてみていない。
まじてなんかわかんなくなってきたやば。 -
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ジェレミ・ベンサムによって創始された最大多数の最大幸福を第一とする功利主義を、同調者であったジョン・スチュアート・ミルが解説する一冊。
幸福と不幸の兼ね合いによって正誤を判断する思想を功利主義と認識していますが、幸不幸は主観的であり客観的に計測することは不可能です。
高尚ですが曖昧さによって脆い骨子となっている考え方であり、それを語る本書は著者の挑戦であっただろうと思います。
功利主義について要約されている部分を引用します。
効用、つまり最大幸福原理を道徳の基礎として受け容れる考え方によれば、行為は幸福を増進する傾向があれば、その度合に応じて正しいものとなり、幸福とは反対のものをもたらす傾向があれば、その度合に応じて不正なものとなる。
明らかなのは功利主義における正しさが正義であるとは言い切れないということです。
悪行であっても最大多数の最大幸福を満たせば正しいものとなり、限られたコミュニティでこれを計れば平時と戦時で全てが逆転する代物となります。
人間らしい思想なので人間に適している面も多々あるのですが、諸刃の剣であることを十分に理解した上で活用する必要がありそうです。 -
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ネタバレ他者危害原則(Harm principle)の出典として有名な言わずと知れた名著。自由論についてゼロベースで論理的に述べられているのが特徴。以下に、本書を実際に読んで印象的だった点を三つ述べる。
・ミルの自由侵害の範囲は法的刑罰のみを指していない。そこには政治的抑圧のみならず社会的専制、つまり世論による圧力のようなものも含んでいる。ミルによると、支配的な意見や感情の専制は政治的抑圧と比較し逃れる手段が少なく、生活の隅々に深く入り込んで魂それ自体を奴隷化する恐れがあり、これらからの防護は人間生活の健全な状態にとって必要不可欠である、という。特に「協調」が重要視されるアジアにおいては社会的専制の作用は頻繁に観察されるが、そこには個人的選好の押しつけや非寛容的態度も多く含まれ、それを問題視すらしていないようである。言論の自由として許容されるべきもの、社会的専制からの保護を目的として許容されるべきでないもの、これらの境界について今一度考える必要があるように感じられる。
・思想と討論の自由および他者危害原則に共通して存在するミルの考えとして、自己の徹底的な相対視の姿勢が存在している。人は概して自らの意見や感情を絶対視し、他者にも適応可能であると考えがちであるが、ミルはその点で徹底的に謙虚であり、この姿勢が自由への考え方に繋がっている。一方で現代社会では、賭博、薬物などの依存症に関してパターナリスティックな姿勢を正当とする考えが主流であり、この点ではこれらの自由をも守られるべきとするミルの主張はやや極端なものに感じられる。もちろんいずれの意見も妥当性を持つが、個人的意見としては、ミルは個人の判断力をやや過剰評価しているように見られる。どれだけの人が合理的で妥当な判断をして日々過ごしているだろうか。
・第三章の「幸福の一要素としての個性について」は突然自己啓発のような様相を帯びる。しかも自己啓発としては極めて現代的でかつ説得力があり洗練されている。この章だけを自己啓発本として出版しても、近年ブームとなっている自己啓発本よりよほど読む価値のあるものとなるだろう。 -
Posted by ブクログ
いやー難しかった。
最大多数の最大幸福を希求すること、
そして、快楽には質があること。
快楽の質の判定を知らなかった。
どちらの快楽も経験した人間が決める。
そして、それは合致するらしい。
「満足した豚であるより、不満足な人間である方がよい。満足した愚か者であるより、不満足なソクラテスである方がよい。」という文に代表されるように、ミルは、知的快楽をより高次の快楽と確信している。
そうはいかないから社会は難しいし、面白いんだと僕は思うけどどうなんでしょう。
知的快楽を享受する素養のない人間を、愚者と捉えてしまっていいのか。
それぞれが、異なる幸福の尺度を持ち合わせていているという複雑さを認めた方が楽しそう。
一定理解できるけど、まだ遠い。
もしかしたらはちゃめちゃ間違った解釈してるかも。