関口正司のレビュー一覧
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「幸福」とは何か。人はどうするば幸福を高められるか、感じられるかについて考える時間を与えてくれる本。
「満足した豚であるよりも不満足な人間であれ」とは有名な言葉だが、この一言が全てを表していると言っても過言では無い。
また、幸福を得るために人はどう動くか、その行動の原動力は何かなど、根っこの部分まで分析をしていく。
また、本の後半では個人の幸福度だけではなく、社会全体の幸福度の高まりについても触れられている。
その中で徳を積もうとする行動の原動力は外的なものと内的なものに分かれるとも説いている。
少し心理学のような論文であるとも感じさせられる、まさに経済学とは経済だけにあらず、さまざまな学問と繋がっていることを教えてくれる一面もある本。 -
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※イングランド。都市労働者が議会に対して選挙権を要求。チャーティスト運動(1838-1848)。
すべての人は他人の自由を侵害しない限り、望むことを何でもする自由がある。国家は他人による自由の侵害から各人を守り、共同体を外国の侵略から守る役割のみをもち、それ以上の権力行使は認められない。ハーバート・スペンサーSpencer『Social Statics』1850
自由とは人間の独創性と多様性が最大限に発揮できること。価値観の画一化は個性の発展を妨げる。個性が発展しないと社会全体にもマイナス。異なる意見を十分に自由に比較でもしない限り、意見の一致は望ましいものではない。全人類が同一の意見をもっていて、ただ一人が反対の意見を持っている場合でも、その一人を沈黙させるのは不当。一人の権力者が全人類を沈黙させるのが不当であるのと同じ(ch.2)。沈黙させた封じ込めた意見のほうが正しいかもしれない。「自分こそ正しい」という考えは馬鹿げていて根拠がなく、あらゆる進歩の過程で最も頑固な障碍。自由な討論により様々な意見(部分的な真理)を互いに補完し合うことで真理に近づける▼他人の幸福を奪ったり、幸福を得ようとする他人の邪魔をしない限りにおいて、私たちは自分の幸福を追求する自由を持つ。幸福は人それぞれ異なる。他人に自分の幸福を強いるよりも、互いに相手の幸福に口出ししない方が得るところが大きい。相手が愚かなことをしているとき、やめたほうがいい、と保護者のように強制干渉するのもダメ。相手を自分の型にはめようとすべきでない▼”権力を行使する人民”と”権力を行使される人民”は同じとは限らない(cf.ルソー)。”人民”の意志とは多数者の意志であり、それは他の一部を抑圧するかもしれない(多数者による専制)(トクヴィルからの影響)。個性を封殺し、多数者の考えに従うことを強要する。社会の画一化の圧力から個人を守るべき。改革の精神は必ずしも自由の精神ではない。なぜなら、それは改革を欲しない民衆にそれを強制するかもしれないから▼政治に参加することで人々は公共について学ぶ。政治参加は教育効果がある。できるだけ多くの人が政治参加を通じて公共を学ぶべきなので、参政権を女性にも拡大すべき。ジョン・スチュアート・ミルMill『自由論』1859 (95)
多数者の利益が、一部の利益を犠牲にする形で統治に反映されるのはよくない。多数者による専制は避けたい▼教育ある有権者には2票以上の投票権を与える▼個人の自由を守るための政治体制。国民全体の利益を十分に考慮できる政治体制が仮に存在しても、それは望ましいものではない。過保護になりすぎ、個人の自治能力を減退させ、個人の自由を制限してしまう。ジョン・スチュアート・ミルMill『代議制論』1861
※イングランド。都市労働者に選挙権が拡大される。第2回選挙法改正(1867)。
他人から干渉されることなく、自分のしたいことをする。こうした消極的な自由をまずは保障すべき。一方、自分は自分の主人であり、他人に支配されるのではなく自分で自分を統治する、という積極的な自由もある。自ら主体的に決定する自由。自律としての自由。しかし、こうした積極的な自由は社会全体が目指すべき理想・「何に価値があるか」の強制が入り込みかねない。単一の価値を達成することが、自己の統治「真の自由」である(cf.ルソー, 一般意志)と主張し始める。権力の決定への服従を強制し始める。積極的な自由は多数者による専制・全体主義への隷属につながる。人間の価値は多様であり、単一の価値に昇華できない。だから、他人に干渉・強制されずに行為できる自由(消極的な自由)こそ、まず保障されるべき。アイザイア・バーリンBerlin『自由論』1969 (93) ※ラトビア出身。OX。 -
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「最近、ミルの『自由論』の翻訳でよいものが出た」と聞いたので、読んでみました。
1850年代に書かれた本ではありますが、現代でも十分に通用する内容だと思いますし、リベラリズムやネオ・リベラリズム、リバタリアニズムを考える上でも参考になると思います。
個人的には、ミルの『自由論』は、進化論との相性がいいな、と思いました。
生物がこれほど多様なのは、遺伝子(DNA)がガチガチに固定されているわけではなく、変化をする余地(自由度)があるため。
もちろん、遺伝子(DNA)の自由度のために淘汰されていった生物もいますが、生物全体を見ると、そのときどきの環境に応じて、より生き残りやすい形質が残ることになり、しかも、様々な形質が残ることになり、結果として、現在のように、多様でレジリエンスのある生物圏が形成されたわけです。
人間社会と生物圏を、単純に対比させてよいものなのか、自分にはよくわかりませんが、それでも、生物圏を見ていると、ミルの『自由論』には、一定の説得力があるように思います。 -
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J.S.ミルの新しい本が出てるなんて。と思ったら、没後150年なんですね。
著者のミルへの愛を感じました。
ミルってだいたいベンサムとセットで出てくるし、「功利主義を修正した人」「他者危害原則」、もしくはノージックのオマケ的な扱いが多いです。
まるで清水書院のセンチュリーブックスのような雰囲気の評伝でありながら、思想の内容は中公新書らしく詳しく説明してくれています。
短い婚姻期間ですが、ハリエットがミルへの思想に与えたであろう影響を感じることが出来ました。初めて知るミルの側面もちらほら。ジェイムズの主知主義教育も、保護者として興味深いものがありました。
晩年のミルには胸が熱くなるものがありました。
思想については、わたしの読解力不足で、一読しただけでは理解できない部分もあり、完全な素人向けではないかもしれませんが、再読して徐々に理解していければと思います。
関口さんはここ数年、岩波でミルの原著を訳されているので、信頼性の高い本だと思います。
この調子で、ベンサムなんかも新しい本が出たら嬉しいなぁ。 -
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本書の主題は社会の中での「自由」について。つまりは、社会が個人の行動を規制することができる状況において、何が個人の自由の領域であるか。言い換えると、社会は、個人の不可侵の領域として、どんなことをしてはいけないか。また、そのためにどんなことを推奨すべきかということを論じた本。
1859年初版。
その原理は、ある個人が、他者に危害を加えた場合やその危険が明白にある場合以外は、その個人の行為に関して何も強制してはならない、というもの。
この原理とどのようにつながるのか理解が浅いが、
言論の自由についても強く語っていた。言論を擁護する理論は、真理は批判を打ち負かすことでより確実になるし、偽の真理であれば批判によってより真に近づく機会を得れる。言論を封じることは現状を無批判に受容することで、人類の発達への危害である。まあこんな感じ。
その文脈で、無批判の受容は無気力に繋がり、それもまた悪だとする。自分で選ぶことに重要性があり、選択を通じてこそ活力が生まれる。これはミルが考える自由人像の一つかもしれない。
とはいえ、時代背景含むコンテクストへの理解は浅いし、疑問も多い(何が疑問かも怪しい)ため、全部的外れな見解かもしれない… -
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ミルが晩年に、功利主義の考え方についてまとめた本です。功利主義は、現代においても誤解や先入観によって批判的に捉えられることが多いですが、当時(1860年代)のイギリスにおいても、同様でした。本書は、想定される批判を潰していくという形式を取っており、当時の風当たりの厳しさを肌で感じ取れます。
ミルはまず、既存の倫理上の2つの学派として、「直覚主義学派」と「帰納主義学派」の2つを取り上げます。直覚主義学派というのは、道徳の原理は明らかにアプリオリ(最初から決まっている)という考え方です。一方の帰納主義学派は、観察と経験から道徳を決定しました。一見真逆の道徳観ですが、道徳は原理から導き出さなければならないと考えている点は共通です。しかし、この2学派は、その原理を列挙したり、共通の根拠に還元したりはしませんでした。これに対して、功利主義の新しさは、「最大幸福原理」という単純な原理を持ち出したことです。
効用(utility)とはなんでしょうか。これは、快楽や苦痛でないことに加え、精神的な喜びもひっくるめた、幸福全般を指します。ミルに言わせると「満足した愚者よりも満足していないソクラテスがよい」のであり、精神的な喜びは重要です。で、功利主義(utilitarianism)は何かというと、すべての人の効用の総和を最大化すること基本原理とする考え方です。シンプルですね。功利主義においては、自己犠牲の精神や禁欲主義は否定されます。他の人々のために自分の善を犠牲にすることは素晴らしいことですが、犠牲それ自体を善と考えるわけではないんですね(これ、現代では受け入れられると思うんですが、当時のキリスト教の文化背景を考えると結構ショッキングなはずです)。
道徳と功利主義の関係性を見ていきましょう。人々の行為は、一般的に道徳に従って行われます。道徳は慣習的なものになっていて、ある種、神聖化されており、拘束力も大きいです。このように、「道徳→行為」と見方が自然に思えますが、ミルは道徳を二次的原理と見ます。じゃあ一次的な、根本の原理は何かというと、効用の原理なわけです。効用の原理という一般原理があって、そこから二次的原理である道徳が生み出され、行為につながる、と考えます。
個人の効用の最大化ではなくて、社会の効用の最大化を目指すことについては、少し論理の飛躍があります。これに対して、ミルは「一体感」という説明をしています。社会が形成されていない野蛮状態においては、個人の効用を追求した方が良いように思います。しかし、社会的な絆が強化されると、他の人々の幸福に配慮することは、自分の個人的利益にもつながるようになります。そして、自分の感情を他の人々の幸福に重ねるようになる。これを一体感と呼んでいます。そして、一体性の感情は、教育のもたらした迷信とか、社会の権力が押し付けた専制的な規範ではなく、自分達の幸福に欠かせない特性であるとしています。
また、認められるべき権利とはなんでしょうか。ミル流に読み解いていくと、権利とは、自分の所有するものを、法の力や教育と世論の力によって保護するよう社会に要求するのは当然と考えられることを指します。例えば、ある人がタピオカ屋を営んでいて、年間2000万円の売り上げがあったとします。翌年、全然売れなくて売り上げが500万円だったとしても、差額の1500万円を補償しろっていうのは話になりませんよね。他方、1000万円の債券の利子5%が不払いになった際には、これは50万円の支払いを求める権利がありそうです。だってこの権利を認めないと、誰も債券を購入してくれなくなって、金融市場が成立しません。権利は、それが認められることが社会全般の効用のためなるから認められるのです。
全体を通じて、功利主義はとても分かりやすいし、しっくりくる方は多いと思います。とくにぼくのバックボーンは経済学なので、すでに功利主義に染まっていた感もあります。ただ個人的には、「一体感」のところは弱いかなと思いました。一体性の感情がアプリオリだと言っていいのか。一体性の感情があってほしいからそういう教育をしているんだ、という説明の方が現実的じゃないのかなと。 -
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自然権といった経験を越えた普遍的な原理により何が正しいかを判断すべきでない。個々人の幸福はさまざまで、幸福の優劣を判定する客観的な基準はない▼行為の正しさはそれが何をもたらすか(帰結)、幸福をもたらすかどうかで判断すべき。幸福は善であり、苦痛は悪。幸福をできるだけ増やし、苦痛はできるだけ減らす。自由はそれ自体に価値があるのではなく、幸福をもたらすなら価値があり、幸福をもたらさないなら価値はない▼自然権は特権階級の利益(一部の人々の幸福)を守るためでしかない。社会の幸福は個々人の個別の幸福の総計で見るべきで、これを最大化すべき。「一部の人々」の最大幸福ではなく、「最大多数」の最大幸福を目指すべき▼各人がそれぞれ自由に幸福を追求することでおのずと最大幸福が実現される。政府の役割は各人の利益衝突を調整すること。ジェレミー・ベンサムBentham『道徳および立法の諸原理序説』1789 (93)
幸福・快楽には質的な優劣がある。正義や真理を追求したり、利他的な行為によって得られる快楽は高次のもの。一方、本能的な欲求を満たすことによって得られる快楽は低次のもの。(低次の快楽に)満足した豚よりも、(高次の快楽を目指して)不満を抱えた人間の方がよい。(低次の快楽に)満足した愚か者よりも、(高次の快楽を目指して)不満を抱えたソクラテスの方がよい。ミルMill『功利主義』1861 (98) -
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・功利主義を前提とした著書。
・社会的自由:個人がそれぞれの個性を発揮する。そしてその個性の結果の言動によって他者を害することなく、様々な幸福を追求していくこと。だから、他者を害していない(一般的功利を損なっていない)行為の抑制は不当であり、そのラインまでが社会が個人に対して行使できる権力の限界。
・19世紀以降、国民と政府ではなく、個人と個人の間で抑圧が発生するようになってきた(多数者の暴虐)。多数者の暴虐についても対処が必要であり、そのために用いるのが「危害原理」。危害原理とは、社会の自己防衛が目的の自由の規制は正当であるが、他者に害が及ばない範囲で権力の行使は生徒と言う考え方。
・自由とは、他者の功利を損なわずに自分の多様な幸福を追い求めること -
Posted by ブクログ
1863年刊。
有名で、現在はしばしば悪評も高いベンサムのスローガン「最大多数の最大幸福」というアレに代表される「功利主義」の考え方について、あれやこれやと弁明を試みる著作。
私自身、「最大多数の最大幸福」というスローガンは目下大嫌いで、あれを浅はかに理解し利用し、多数者のためなら少数者を虐待しても良い、多数決で決まったら少数意見はことどとく蹂躙して良い、といった暴虐につながりかねないからだ。
ミルがどのようにこれを擁護するかというと、「効用」は人間の獣的な欲望の部分で測るべきはなく、すこぶる知的な・十全に道徳的な心性において最大限に長期的な視野に立って測るべきものだ、とするのだ。
だがこのような弁明は、ルソーが民主主義というものを十分に育成され知的に熟成された民の高度さを欠くべからざる大前提としているのに似ていて、現実とは大きく乖離せざるを得ないのではないか。実際の大衆というものは、もっと怠惰で、ワガママで、短絡的で、知的に劣悪な存在に過ぎないことを現実の歴史が明かしているのではないか。だから自由も民主主義も、本書で称揚される「効用」も、ことごとく劣化していき、解体してゆくほか無いようにさえ思える。
大海原を延々と漂流する救命ボートに5人の飢えた人間が乗り、何日間も食料を得られなかったとする。そのうちの、たとえば最も体力の弱い者を他の4人で殺害し、その人肉を食することによって4人の延命を図るべきなのか。5人もろともに死ぬよりも、1人が死という最大の不幸に追いやられてさえ、4人という多数が助かる可能性があるのだから、これを良しとするのか。
ミルならここで人間というものは人肉を食した経験を後半生において後悔し、ずっと夢にさえ見てさいなまれることになるだろうから、結局は幸福につながらない、と指摘しそうである。だが、現在の世論の一部は、4人の延命を支持しそうだ。すこぶる倫理的な問題を迫ってきたコロナ禍において、どうせ先の長くない老人が多少死んだって構わないから、若い者たちで社会の経済を栄えさせ楽しもうぜ、という主張の一派は少なくない。むしろそのような暗黙の主張がどんどん強まってきていると感じる。「最大多数の最大幸福」というスローガンは、結局はこのような帰結に至るのだ。そして、あの新自由主義という野蛮さにも。
従って、いかにミルが弁明しようとも、功利主義そのものを規範の核心とすることには私は危険性を感じてしまう。ボートの中の弱い1人を殺害するくらいなら、全員がおとなしく死を甘受するべきだと私は考える。