小砂川チトのレビュー一覧
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ネタバレ最初、平仮名が多く読みにくい文体で元々このような文章を書く方なのかなと思っていたが、主人公が家族に現実世界へ連れ戻されてから文章がしっかりとしてきて、VRに侵食されていた表現なのかと思うと怖くなった。
最後、ずっと空想の世界で働き続け、更に同じような人たちが何人も病院に溢れ返っているのかと思うと恐ろしかった。
仕事は好きではなかったけれど、AIに仕事を奪われたと怒り、自らが機械のようになってしまい、働いて認められることを求めてしまう。AIを使っているのに進化ではなく退化に感動してしまう、そんなアンビバレンスさが人間味なのかなと思った。 -
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ネタバレゾンビ回収婦
著者:小砂川(こさがわ)チト
文藝春秋2026年9月号
初出:群像五月号(2026年)
第175回(2026年上半期)芥川龍之介賞受賞作品
30歳前半ぐらい?の夫婦がいて、2人は同じ職種だけれど、今は競合会社にいるような関係だが、2人、ほぼ同時期に失業してしまった。どちらもAIにとってかわられてしまった。上司がAI信奉者のようである。夫は口数が少ないタイプで、いつもVRのゲームを1人でしている。家具に傷がつくからと注意をすると、自室に入って続けている。妻はその逆のタイプ。妻がこの小説の主人公。
失業して、ある日の朝、夫は書き置きをしていなくなった。演奏旅行に出ます、とあったが、演奏旅行ってなに?楽器できるの?と意味不明だった。
妻(私)は、夫が夢中になってしていたVRをしてみる。そして、何日も没入することになる。妻はその世界にある「ザ・グランド・口唇期ホテル」でゾンビ回収婦をして働く。NPC(ノン・プレイヤー・キャラクター)としてのゾンビ回収婦である。これは、ゲームの制作者がプログラムしたように動くキャラで、ゲーム参加者ではない「その他」のキャラ。街の人だったり、店の店員だったり・・・
どんなゲームか、意味不明のナラティブが展開していくのであまり想像できないが、どうも参加者がゾンビで、戦争をするようである。そこで死んだゾンビの死体を回収する仕事のようだが、ゾンビは元々死んでいるので、戦闘で撃たれても死なないはずだが、ある程度までいくと本当に死ぬようである。ゾンビゲームをしたことがないのでよく分からない。
ゲーム部分の展開がなにがなんだかさっぱり分からないが、この小説のテーマは案外分かりやすい。口唇期ホテルの支配人による彼女への評価、批判、こき使われ方・・・いろんなことが、現実の社会でのありかたに通じていて、例えばリアル社会でのどんなシーンのことを言っているのか、よく分かるのである。いろんな名前や物質が出てくるが、そのひとつひとつが何を意味するのか、なんのメタファーなのかは1度読んだぐらいでは分からないが、分からなくてもまったく問題ない。AI失業が現実味を帯びているなかで、これまでAIなんてなかった社会で働いてきた自分、いくら男女平等とはいえ、若い女子が会社のなかで戦力として働く場合の行きづらさ、そんなこんなが伝わってくる。
書いてあることは意味不明でも、言いたいことが伝わってくる。著者はなかなかの名文家じゃないかとも思う。
彼女がVRのなかでなんとなく恋心を持ってしまうのは、アラスカというゾンビである。それが、リアル社会での夫とダブらせているのかどうかは、まだちょっと理解できないが、なぜアラスカなのか、終盤に種明かしもある。このゲーム(AIへのプログラミング者)の作者が言う。
なあきみ、イヌイットって知ってるか?
アラスカに住んでる先住民族。かれらがかれら自身のことを自称するとき、こんなふうに名乗るのだ。
なあ。俺がきみに与えた最初の言葉。なんだと思う?
【人間らしく(イヌクティトゥット)】 -
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うーむ、苦手なタイプの芥川賞作品だった…、、、これはあくまで個人的に思っていることだけど、芥川賞系の純文学って大きく2つあるような気がしている。1つは、ストーリーもキャラクターも明確にあって、そこについてのアプローチが純文学なもの。もう一つは世界観がかなりカオスでストーリーのアウトライン自体がわかりづらい、構成そのものが独自世界をなしているもの。これは後者の方だった。超、大掴みでの物語はわかるんだけど、世界線がカオスすぎて、読んでて心中が迷走したwwwでも時折、ハッとする気づきもあったり、。。読中、読後のカオス感的には星2, 1なレベルなのだが、文章表現の卓越性はたしかに感じられて、読みつつ「うーん、全然わからないけど、この世界観をわかりたい…!」という謎の飢餓感に苛まれたので、それは作家の腕なんだろうなとも感じた。なので、星3。
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どちらも作品も、「自分とは何なのか」という問いを、現実と幻想、自己と他者の境界を曖昧にしながら描いている作品だと感じた。
『家庭用安心坑夫』で、まず印象に残るのはやはり「ツトム」という存在。「家庭用」「安心」「坑夫」と分けて考えると、ツトムは単なる父親の代用品ではなく、父親のいない小波の家庭に「父親がいる」という安心を供給するための存在だったのではないかと思う。つまり小波は、自分に欠けているものを想像によって作り、その想像を現実として受け入れることで自分の心の空白を埋めていた。ところが、その幻想が大人になった小波の現実に入り込んだ途端、今度は耐えられないものになる。ここがこの作品の最も生々しく、怖いところだと思った。幻想の中では愛せたものが、現実に持ち込まれると異物になる。自分を守るために必要だったものが、いつの間にか自分を縛るものへと変わってしまう。
人間は自分の中にある欠落や満たされないものを、記憶や想像、物語によって補いながら生きることがある。この作品では、その「心が作り出したもの」がツトムという具体的な存在になっているように感じる。だから最後に小波がツトムを捨てることは、単に父親を捨てるということではなく、幼い自分を支えるために作った「父親の物語」そのものを手放すことだったのではないかと思った。
そして、この「自分の内側にあるものを外側の存在に託す」という構造が、形を変えて『猿の戴冠式』にもつながっているように感じた。『猿の戴冠式』のしふみは、競歩選手として、また一人の女性として、社会からさまざまな意味を与えられている。「いい選手」「悪い選手」「いい子」「悪い子」といった評価によって、自分が何者なのかを決められてしまう。一方のシネノも、単なるボノボではなく、人間の言葉を理解する「特別な猿」として、人間から価値や意味を与えられ、その視線の中で生かされている。ここが非常に面白いと思った。シネノは「猿だから閉じ込められている」というだけではない。むしろ「特別な猿」として扱われ、価値を与えられている。それでも、その「特別さ」はシネノ自身が選んだものではなく、人間によって与えられたものでもある。しふみも同じで、評価されないことだけが苦しいのではなく、「あなたはこういう人間だ」と他者によって意味づけされることそのものから逃れられない。だから、しふみがシネノに自分を重ねていく過程は、単なる動物との交流ではなく、「他者を通して自分自身を見る」という心理の描写にも見える。シネノが本当に昔の「おねえちゃん」なのか、二人の間に本当に精神的な交信があったのかを完全には確定させないのも、謎を解くためというより、しふみとシネノ、自分と他者、現実と幻想の境界そのものを曖昧にするためなのではないかと思った。
そして最後の「冠」が、作品全体をひっくり返す。誰かから「いい子」と認められて冠をもらうのではなく、自分で自分に冠を授ける。つまり、他人から与えられた評価によって自分の価値を決めるのではなく、自分自身に意味を与えるということなのだと思う。「猿の戴冠式」というタイトルも、特別な猿として人間から価値を与えられていたシネノや、社会から評価を与えられていたしふみが、その評価そのものから一歩外へ出ることを象徴しているように感じた。
こうして2作品を並べてみると、『家庭用安心坑夫』では「自分の欠落を埋めるために自分が作り出したもの」に支配され、『猿の戴冠式』では「他者から与えられた自分」に支配されているように見える。どちらも、人間が自分自身を理解したり支えたりするために作ったものが、いつの間にか「自分そのもの」になってしまう怖さを描いているのではないか。そして、だからこそ小砂川チトさんの作品は、単純に「自分らしく生きよう」という話にはならないのだと思う。むしろ、「自分だと思っているものは、どこまでが自分自身で、どこからが他者や過去や想像によって作られたものなのか」という、もっと不穏な問いを残していく。その問いに明確な答えを与えないまま、読者自身に考えさせるところも、この二作品の魅力なのだと思う。読み終わった直後よりも、しばらく経ってから「あれは、もしかするとこういうことだったのではないか」と考え始めたときに、作品の輪郭が少しずつ変わっていく。そういう、後からじわじわと意味が染み出してくる作品だった。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ『家庭用安心坑夫』
ところどころひらがな表記を使用してる。主人公、小波はおそらく受動的な人間。母の死、父の介護を半ば強引に強いられていた過去があり、それを記憶から抹消している。このひらがな使いは、成熟しきれてない小波を表現しているのかな、と感じた。
内容について。
コロナ禍によって仕事がなくなり、無意識下でけろっぴのシール、そしてツトムの幻影を見始め、そこから過去に囚われ、過去に向き合う為に実家に戻るという話運び自体は、既視感が否めない。
だが、そのツトムが廃坑テーマパークのマネキンで、昔、母親から父親だと言われて育ったというエキセントリックな設定が斬新で良い。
前半の少し不穏な空気から、小波がツトムを盗もうとする展開以降は、バカみたいなドタバタ感と不穏さが同居して、面白く読んだ。盗んだ後の謎のおじいとツトムとの鍋での団欒シーンは、バカバカしさすらあって良い。
母が作った虚像に向き合うも、やはりそれは虚像でしかなく、自分自身と向き合ったとはならない。ラストやや後味の悪さを感じ、そこも僕の好みだ。
個人的には、合間に挟まれるツトムの話が、もっと小波の話とあざといぐらいリンクしちゃっても良かったんじゃないかなと感じた。あの塩梅の理由もなんとなく分かるが。
『猿の戴冠式』
好みとしては、『家庭用安心坑夫』より好きだったかもしれない。
読み始め、なんて変な事に挑戦してるんだろう、と驚いた。元実験体とされていたボノボを語り手に据えるなんて、思いついてもなかなか出来ない。いや、そういった小説は存在するのかもしれないが、僕は知らない。この作家さんは、だいぶチャレンジャーさんだなと感じる。
話は言ってしまえば、とある問題を起こした競歩アスリートが、幼少の記憶の片隅にいた、実験台のボノボを自身と重ね、少しだけ前進するだけの話だ。
これを、まずボノボのシネノ目線、そしてしふみ目線にグラデーションしていく話運びも面白く読んだ。双方の語りの中、二人がシームレスに重なり、シネノなのにしふみで、しふみなのにシナノになる所など、集中して読んでないとこんがらがりそうで読むのに多少苦労したけど、僕は素直に凄いなと感嘆した。
ラストの盛り上がり、だいぶ高揚しながら読んだ。二人が並走し、「ありがとう」「どういたしまして」の場面、素直に熱い。勿論これはしふみの妄想の中での話なのだが、ここに至るまでの文章の密度も濃い為、しふみの混沌とした感情の渦の中に入り込みながら読み進められた。
すこーしだけの前進。僕の好みだ。
ただ、小砂川さんの作品はまだこの2作しか知らないが、設定の奇抜さとは裏腹に、物語自体はとてもありふれたものだ。これは別に良い悪いとかではなく、ここにもう一つ真新しい視点が欲しいなぁ、と読者として欲が出てくるのは確か。