あらすじ
ある事件以降、引きこもっていたしふみはテレビのなかに「おねえちゃん」を見つけ動植物園へ向かう。言葉を機械学習させられた過去のある類人猿ボノボ”シネノ”と邂逅し、魂をシンクロさせ交歓していく――”わたしたちには、わたしたちだけに通じる最強のおまじないがある”。
幻想と現実が互いに侵蝕していく圧倒的筆致。
人間存在の根源的な闇に光をあてる”唯一無二の才能”。
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第170回芥川賞候補
初出 群像2023年12月号
第37回三島由紀夫賞候補入おめでとう御座います。
人間がおそろしい。
「わたしたちのいち生物としてのテリトリーはすでに議論の余地もないほど、こてんぱんに侵され踏みにじられている。
ー捕獲されたボノボによる人的、物的被害はありませんでした。」
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自他境界が無意識に曖昧になったり、そんな文章を書く人はいるけれど、自覚的に個と他が混じり合う文章を書く人は稀有なんじゃないだろうか。
面白かった。
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作者は岩手県出身者。惜しくも芥川賞は逃したが、純文学ならではの分かる人にはわかりすぎる感じ、又吉さんが言っていた本が頭の上でめくれていく感じが最高。
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主人公が檻の外に出る物語。あるいは、虎になりそこねた李徴の話。
自我をとろけさせる心地よい相手もずっと存在するわけではない。自分を呪うわかりやすいトラウマがあるわけではない。不倶戴天のわかりやすい敵もいない。自分を不愉快にさせる相手や知らない大勢の悪意も自分を縛るものではない。頭の中で目まぐるしく移る思考を、身体はどう思うか。
空想の安全地帯を何度もループし、主人公は結論に達する。自分は自分というだけで王冠を戴き、誇りをもてばよい。安全地帯を出て無様にもがけばよい。
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ジャケットが気になったのと、著者が岩手県出身とのことで同郷のよろこびで購入しました。
自己と他者を理解.識別できるボノボと、臆病な主人公の女性との邂逅から、心の成長を一歩一歩描く様子がとても心に響きます。
現実と空想?の境目をあえて曖昧に描いているためか、途中で読むのをやめられなくなり、すぐに読み終えることができました。
芥川賞候補作とのことですが、受賞していい本だと私は感じました。
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★3.8
しふみとシネノ。ヒトとボノボ。
言葉も種族も越えて、彼女たちは通じ合った。
いや、そう信じたくなるほど、孤独だったのかもしれない。
「感動した」とか「泣いた」とか、そういう類の本ではない。
物語のすべてが抽象的で、境界が曖昧で、構造はまるで“夢”のようだ。
正直なところ、意味がわからなかった。
……が、それでいいのだと思う。むしろ、わからなさは、この物語の“仕様”だ。
「わからないから駄目」と切り捨てるにはあまりに惜しい。わたしの駄文を踏み台に、もう一度本書を手に取ってみてほしい。
なぜならこの物語は、わかりやすさや整合性ではなく、“魂の揺れ”を描いているからだ。
主人公・しふみは、かつて陸上競技での炎上をきっかけに、社会から距離を取るようになった女性。
もう一人の主人公は、言葉を教え込まれたボノボ(猿)のシネノ。人間の都合によって“知性”を与えられ、動物園に展示されている。
二人は互いを認識し、思い合っていく。
姿かたちは違えど、「期待を裏切った者」「役割を演じさせられた者」という点で、限りなく似ていた。
シネノ視点でのしふみと、しふみ視点でのシネノ。
互いが互いの目から自分も見つめ、交錯する。
視点が切り替わるたびにその差異はだんだん“遠近感”としてぼやけていくから、読み手は戸惑う。
それはもはや正しい混乱で、作者の意図するところなのだと思う。
言葉はしばしば隠喩としてしか機能しない。その世界観に、わからなさごと身を委ねてみる。
「猿の戴冠式」とは何か。
それは「あなたがあなた自身に与える王冠」。
他人の評価や、社会的な役割ではなく、自分の価値を、自分で認める行為。
しふみがその手話を使うとき、彼女は言葉にできないものを差し出している。
痛み、願い、そして、許し。
それはシネノに向けられているようで、実は“かつての自分”に向けたものかもしれない。
現実と幻想のあいだを彷徨いながら、しふみとシネノの境界の曖昧さはさらに加速していく。
台風の夜に、檻から抜け出すシネノ。
その姿を見たとき、しふみは再び歩き出す決意をする。
現実か幻想か境は、たぶん重要じゃない。
しふみが「自分で自分に王冠をかぶせた」――それだけが、真実なのだ。
「猿の戴冠式」とは、“猿に人間的な知性と尊厳を与える行為”であると同時に、
“しふみ自身が自分を赦す儀式”でもある。
だから、仮にシネノが実在していようがしていまいが、物語として成立してしまう。
シネノの視点というのは、しふみの願望や投影かもしれないし、あるいは本当にシネノが持っていた「内面」だったのかもしれない。
どちらとも確定できないからこそ、判断は読者に委ねられている。
与えられた知性は、贈り物か、それとも呪いなのか。
知性獲得がもたらす儚さは、どこか「アルジャーノンに花束を」を連想させる。
理解されたい欲求と、理解されない痛み。
知性は救いではなく、やはり悲劇なのだろうか。
『猿の戴冠式』は、“わからなさ”こそを作品の一部にしているようだった。その体験は、しふみやシネノと同じように、「わからない自分自身を見つめ直す」契機を与えてくれる。
読む人の数だけ、解釈がある、という結論でいい本なのだ。
読むたびに、意味が揺れていく。
だからこそ、2度目、3度目に意味がある。
でも、それでもこの問いだけは、残るはずだ――
わたしは、わたしという存在に、冠を授けているだろうか?
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ほらわたしを見て、かんむりを頭に戴きながら、頭を垂れることはできない。
“おねえちゃん”とわたしが、お互いの世界で生き延びるためのおまじない。
あまりの直向きさにぐっときてしまいました。いい子のかんむりは/ヒトにもらうものでなく/そう自分で/自分に/さずけるもの。
シネノという類人猿ボノボと人間のしふみの意識の境目が溶け合う…という突飛な内容ではありましたが、力を貰えました。ボノボ視点の部分も面白かった。
ボノボの最長記憶、26年という記録があるらしい。人類も、Yが弱くなってきてるのでこれからはボノボのほうがいいのでは…みたいなシスターフッドも感じました。
あと、動物映像はいいのに何故アテレコするんだ……とわたしも、なる
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小砂川チトさんの作品は一読では理解が追いつかない。
前作の『家庭用安心坑夫』も疾走感があったが、
本作も置いてきぼりになるほどのスピード感。
でも私はこの小砂川さんの作品がなんとも気になってしまう。
ボノボのシネノと、人間のしふみ。
それぞれが自分は何がが欠けていると感じているような思い。
しふみが感じた破壊衝動のようなもの。
母親や周りからの良い子、悪い子の評価。
ぐるぐると回る。
再読したい。
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とても不思議な作品で、様々な解釈ができそうだ。ボノボとヒトが理解しあえるのかどうかや、そもそもヒト同士ボノボ同士で分かりあえることはできるのだろうかとか、ヒトへの進化の過程だとか、様々な解釈と回答が読む人の数だけ出てきそうだ。個人的にはヒトとボノボは分かり合えないと思ったし、そもそもヒト同士も分かりえないとも思った。それでいて、どこかに物理的な自分はそんざいしているし、論理的な(自我的な)自分もどこかに存在していて、分かろうと努力をしている。けど、どうなの? と小説が囁いてくる。奥深さを感じる作品だった。
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独創的すぎる。
自他境界、アイデンティティが曖昧で、ないまぜになって起きる幻想の文芸。
他種とのシンパシーにグラグラする世界観。
その疾走に酔いそうになるけれど読み進める。
前作も主人公は心的現実を生きていたが
言語化できないけれど、ありきたりなさに最後までどう展開するのか全く読めない。
けれど、しふみはきっと大丈夫。
いろいろな読み方ができる本は面白くて好きです。
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難しい純文学ですね。
多分2度3度読むともっと色んな事を感じると思いました。
人間と猿どっちのこと言ってるのかなって迷ったりして読んでました。
けどまた手にとって読んでみたいと思いました。
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どこまで類人猿の描写なのか、分かりづらかったので、感情移入しようとか、その思想に共感や気持ちを寄せようと思っても、それが出来なかった。言葉が話せる生き物とコミニケーション出来たらいいなと思う。子供なら話せるような気もする。うちの犬を見てても、身体で話してるのはわかる。子供同士なら話せるのではと感じる
人に褒められて載冠するのではなく、自分で自分に載冠する
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難解な純文学。
これぞ芥川賞候補作だと頷ける。
途中で頭が混乱して、しばらく中断したせいか、最後まで分からずじまいだった。けど、2回目に読めばなんだかわかる気がする。
さて、2回目の気分になるまで、無理に理解するのはやめようっと。
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一言で言うと不思議な本。
人間のように思考する猿と、猿のように不器用な女。
この話を理解するレベルにはまだ自分が至っていないのかもしれないです。でも、周囲から孤立してしまう孤独感や腹立たしさはすごく共感を得られる部分もあり、いつのまにか読み終わっていました。
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面白かったー。
競歩の選手である主人公のしふみはレース中にとある出来事で炎上し休業状態にある。そんな中、しふみは動物園にいるボノボのシネノに自分を重ねて見るようになっていく───
最初シネノの視点で物語が進むのだが、読み進めていくと、シネノが見たり感じていることはおそらくしふみの妄想らしい…と分かってくる。
ボノボはチンパンジーと同様に遺伝子的に人間にとても近い生き物なのだそう。チンパンジーが同種を殺すこともあるほど獰猛な気性がある反面、ボノボは穏やかで同種を殺したりはしない。人間がどちらに近いのかといえば、残念ながらチンパンジーなのだろう。しかし、ボノボのように生きていくことも出来るはずだし、主人公がボノボに自分を重ねるのもボノボのような生き方への憧れがあるのかもしれない。
人間社会に絶望しつつもしねのが再び自分の足で歩きだそうとするラストは、希望を感じさせる終わり方だった。
やっぱり小砂川さんの表現は好きだなぁ。一番印象に残ったのは、「二匹のそれは言語をつかった有形の交流ではなく、もっとブヨブヨした一一一たとえばみずのはいった袋のようなものをふたつ持ち寄って、黙ってそっと押し付け合うような、そういう無音の、おだやかな交流のなかで進んでいった」という文章。すごく良い。
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なかなかにごちゃごちゃとさせられた本だった。
文体の癖は強いわ、展開が突然飛ぶわ……。
何となく思ったのは、「猿」というメタファーとして現代社会に生きる我々は文化という服を着て歩いているだけで基本は野生の本能に従うだけの低脳で、粗野で、品性の欠けた「猿」そのものなのではないか、という事。
ネットでの炎上が作品内であげられるのにもそんな事を思った。
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どっちがどっちか、度々分からなくなる。
それが狙いなのかもしれない。
人の評価ではなく、自分で自分を認めてあげる事こそが、最大の幸福なのだろう。
でも今の世の中は、生きにくいね。
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これは…なんというジャンルの物語なのだろう。
登場するのは動植物園にいるボノボのメス、シネノとアスリートの女性、しふみ。しふみはシネノを見て、お姉ちゃんだと思う…というあらすじが気になって読み始めた。
読んでいると、誰の視点なのか?これは現実なのか?夢なのか妄想なのか。わからないところもあって、結局最後まで本当のことは何なのかよくわからなかった。(読み取る力がなくてつらい)
ただ、本当はできることをやらないのは苦しいという文章に、なるほどと思わされた。できないことをやらないのはよい。できることをやらないのは苦しい。確かに。というか、むしろできることから逃げたり面倒だから避けたりしてることで、余計に自分を苦しめていることもあるかもと思った。苦しくならないために、面倒だからやりたくないと避けているのに、避けたことで出来たことによる達成感とか得られる経験とかからも避けてしまっていて、日々がつまらなくなっていないかと考えてしまった。
しかし、シネノとしふみの関係性は幼い頃に実験で会っていたということなの…?なんだかそのあたりがよくわからず、すっきりとはしなかった。