小林秀雄がたしか、この宮本武蔵をいう男について「観察」ということばを使っていたような気がする。
時にこういう人間がやっぱりどこかで生きて死ぬというのを知ると、続く精神のバトンというものが息づいていることがうれしくてたまらない。
剣の鍛錬というものは、生きるか死ぬかいつもその境界にあって考えなければな
...続きを読むらない。相手を打てないような剣は剣ではない。剣はいつもそれを考えなければならない。とことんそれを自分の身ひとつで追求したというところが、この男のパトスである。先哲たちが真理を掴もうとして脇目も振らず考え抜いたのとおなじパトス。
静かにじっと考えて書くというよりかは、いつも考えが先に動いていて、筆がそれに追いつかずにじれったく感じていたに違いない。彼が生きるのはそういう感覚の世界なのだ。鍛錬あるべし 吟味あるべし というのはおそらく、彼の心の動きをそのまま現している。そうとしか言えないのだ。弟子がどうもいたようであるが、おそらく、何かああこう言うのではなく、ただ黙って、剣をふる姿をみせていたのだろう。
空、それが彼の知ったもののすべてであった。空について、「有善無悪」とあるが、おそらくは継承した弟子の誤解であろう。おそらく「無善無悪」であったはずだ。
生きること死ぬことに師や学問などいらない。生きることも死ぬことも、ひとえにこの自分の剣にかかっているのだから。どこまでも彼の心は、自分という剣に向って深く沈んでいって、その自分という存在が限りなく無限で有限である瞬間を知ったのだ。あらゆる彼という存在が調和していることに気づいたのだ。
だが、彼はその生きること死ぬことそのものを問わなかった。剣で生きることこそ至上の目的であって、生きることそのものを問わなかった。生きるとは死なないことの裏返しであるから、おそらく、剣で考えるということ自体に疑いようが彼にはなかったのだ。だが、ではなぜ剣であったのか。生きることも死ぬことも、剣とは関係なくそれは起こっているのだ。どうして相手を打つことでしか考えられなかったのか。ほんとうに無駄なく考えるのであれば、とっくに剣を棄てたっていいはずである。晩年の彼が芸術に傾倒して隠居しようとしたのも十分に納得できる。