土井隆義のレビュー一覧
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SMAPの『世界に一つだけの花』がヒットした2003年の翌年に発行されたブックレット。「もともと特別なOnly one~♪」という最後の歌詞のフレーズに対し、「特別なものを見出せない自分には価値がないかのように思わせる煽りの歌ともいえる」と書かかれており、「うーん、そんなふうに捉える必要があるのか」と、いささか違和感を覚えた。
確かに、私が子どものころの社会は、個性重視よりは、周りとの調和を重んじており、そういう意味では社会規範も変わってはきている。特に2003年以降、「個性的であること素晴らしいこと」だと、社会の認識が変わってきたことも事実ではあろう。いずれにしても、個性、個性と言っているのも、実は個人ではなく「社会」であること、新たな社会規範に拘束され否応なく社会化されているという視点はするどいと言わざるを得ないだろう。 -
Posted by ブクログ
「キャラ化する/される子供たち」と似た内容ではあるものの、時代はすでにキャラ化を超えた繋がり依存へと進行しているという話。
前作からなぜかAKBの例がよく挙げられているのが気になった。筆者は好きなのかと。
それはともかく、前の著作を発展させた内容で、今の子どもたちになにが必要か?とても考えさせられた。
キャラ化する、というのは自分探しの延長のようなもので、価値観が定まらない世の中で確固たる自分を保つための手段だった。
今は、自分探しではなく、友達からのキャラ認定が彼らの価値観になっているそうだ。
その友達との関係というのも予定調和だから、衝突も成長もない。そして壁になっていたはずの大人たちも、友達とさほど変わらないフラットな関係に落ち着いている。
多様性が謳われるようになったはずだが、だからこそ選択肢は少ない方が好まれる時代、一致団結という言葉さえ、そこからはみ出す人間の排除の理由になる。
一人ひとりの中の多面性、多様な価値観に触れること、大人たちの役割を今一度確認するような内容。 -
Posted by ブクログ
2014年6月初版
土井隆義 著
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【以下、読書メモでーす】
・メビウスの輪
・コミュニケーションの同期性の過剰化
・つながり依存といじめ
仲間はずれになりたくないから、いじめに加担する。
人間関係を破壊するいじめではなく、維持するためのいじめ。
「つながり過剰症候群」
・友人や仲間のこと
「充実感を覚える」と「悩みや心配のもと」は
2002年と比較して両方上昇
・「コミュニケーション能力」という言葉が
頻繁にメディアに踊るようになったのは2004年から。
日本の失業率が急激に悪化した時期と重なる。
元々島国で、同質性の高い日本人が、
価値観の多様化・自由化を迎えて、「分かりあうこと」へのコストが
高まってきた。それは、アメリカのような国家には当たり前のことだが、
日本人にとっては、一大転換だった。
・かつて、若者間のコミュニケーションを円滑化する潤滑油の大きなものとして、
「大人社会への敵意」があった。生きづらさやもどかしさの源泉を大人たちに見いだしてた。
しかし、大人も子供と同質化し、友達親子が増える中で、
同世代間のコミュニケーションにおける「いじり」「いじめ」に
潤滑油を求めるようになった。
大人という共通の敵、がいなくなった。
・ベネッセ教育総合研究所の2005年の調査
「幼児の生活アンケート調査」
親が子供に期待すること
1位 友人を大切にする人
2位 他人に迷惑をかけない人
3位 ジブンの家族を大切にする人
⇒どれも人間関係にまつわることがら
「社会のために尽くす人」は圧倒的に少ない。
・インフラ友だち
・承認の耐えられない軽さ
親や先生との関係が摩擦のない友達のようになった今、
「重み」のある人間関係がなくなりつつある。
一見、承認願望を手軽に満たしやすくなったと思われがちだが、
その承認は、圧倒的に軽い。
本当にその人の安心感や自信につながるような、
間違いなく信じられる承認を下せるほどの、険しい人間関係を
今の若い人は望んでいない。だから、本来的に欲している
「真の重い承認」が得られていない。
イツメンはいても、心友はいない。
・キャラ立ちは真の自分発の個性にはならない。
キャラとはあくまでも、特定のコミュニティにおける、
役割分担の中で、空いたピースによってきまる。
「キャラかぶり」は象徴的な言葉。
各自が呈示するキャラはあくまで予定調和の範囲内で
割り当てられたものでなければならない。
キャラ化された人間関係では、その安定感が確保されやすいのとは裏腹に、
そこにいるのがほかならぬ自分自身だという確信が揺らぎやすくなります。
キャラ疲れ、の根底にあるのはこの不安だと思う。
・「安心」は得やすくて「不満」は少なくても、「自信」は得づらい
だから結局「不安」から逃れられない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレケータイの端末が「圏外」表示になるだけでパニックになる高校生がいる―そんな文章からこの評論は始まる。
若者に見られる人間関係の格差とは。カースト化された人間関係と現代のキャラ化社会とは。
現代社会の新しい形について読み解き、新しい人間関係にメスを入れた斬新な評論である。
本書が提言する現代の人間関係の在り様とは、結論から言うと、新宿命主義と寄りどころの無い存在論の発生である。
自己肯定の場が極端に減った現代において、人々は閉じたコミュニティーを形成し、そしてその殻に閉じこもる傾向が増えているといえる。だが、内部では表面上の個人が互いを「キャラ化」するという行為をしていて、決してありのままの自己を発する場ではない。
ここに外自己と内自己の乖離が生まれる。積極的に自己を押し出すのではなく、コミュニティーを平穏に保つために、ある意味では自己を殺して他者と交流するというのだ。そうした行為が現代では無意識的に行わている。
キャラとはアイデンティティと同一ではない。自己の根源であるアイデンティティとは同質にして異質なものである。つまり、キャラは場所によって自己を証明するためのものにはなるが、自己を確定させるものではない。あくまで、場に合わせたインスタントパスポートのようなものであり、その意味でキャラは別の場では流用が効かない。
何故なら、キャラは成長しないからである。
「あの人はああいう人だ」という評価を貰えるのは限定的な場所でしかない。少しでもキャラがズレてしまうともはやその場での自己は崩壊してしまうのである。
コミュニティー内では必ずキャラが必要となる。ペルソナ、と言ってもいいだろう。キャラを保っている間は自己が否定される場面は遭遇しない。
だが同時に自身のアイデンティティを発露できない。ここから寄りどころの無い自己が生まれる。