ナツイチのしおり欲しさに読んでみました。
(動機が不純…)
正直、読みやすいとは言えないかもしれません。
主人公・安田カケイさんの置かれている立場や状況が、最初はなかなかつかみにくいのです。
ただ、普通の状況ではないことは、語り口調からじわじわと伝わってきます。
「この話は、こういう状況に置かれた人の話なんだ…」とハッキリわかったのは、カケイさんの子ども・道子の話が出てきた時でした。
(気づくの遅いかも)
それまでは「辛い人生を送ってきた人の話だなぁ」と思いながら読んでいたのですが、道子の話で状況を把握してから、一気に切なさがこみ上げてきて。「走馬灯」という言葉が浮かびました。
よく「死に際に走馬灯を見る」と言いますが、私はそれまで「死ぬ瞬間に一瞬でその人の印象的な記憶が蘇るもの」だと思っていました。
でも、実はそうじゃないのかもしれない。
認知症になり、“今”という時間軸で生きられなくなった時、人はゆっくり走馬灯を見ているのではないか…そんなふうに、ぼんやりと考えました。
現在と過去を行き来するような記憶。だんだんと、昔の記憶が日常を支配していく。
それが、走馬灯なのかもしれないと——。
カケイさんの思い出は、不運な出来事ばかりがよみがえってきます。
もちろん良いこともあったと思うのですが、心に深く残るほど強烈な出来事は、圧倒的に“不運”の方が多かったのだろうなと感じました。
「自分は不幸だ」と思い続けていたカケイさんの心を、広瀬のばーさんの告白がガラリと変えます。
そこで出てきたフレーズが、今を生きる私の胸にも刺さりました。
”損した。
と、おもってたけど、なにかにつけ、自分は損した、自分だけが損した、と、おもってたけど、それは、おもいあがりだった。
広瀬のばーさんをこころん中で煙たがっていた自分に、いままでの自分に、うんと、ううんと、腹が立った。”
不運なことがあると、つい周りと比べて「なんで自分ばかり」と卑屈になってしまい、視野が狭くなります。
でも、そんな自分でも、誰かに生かされている。
だからこそ、今まで生きてこられたのかもしれません。
死ぬ間際にそのことを知ることができた——それだけでも、きっと幸運なのではないでしょうか。
おそらく、広瀬のばーさんの告白を聞くまでは、「自分は生まれてこない方がよかった人間なんじゃないか」という思いが、カケイさんの中に根付いていたのだと思います。
それが、あの告白によって逆転するのです。
ふと思ったのですが、カケイさんにとって、広瀬のばーさんの告白は『幻の光』で言うところの「精が抜ける」出来事だったのかもしれません。
「自分は生まれてきてよかった人間なんだ」
それを知るために、生きていたような気がしました。