河内春人のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
【本を読もうと思った理由】
元々歴史には興味があった。最近コテンラジオを聞いているが、日本の古代史は史料も少ないため、取り扱いが少なかった。火の鳥のヤマト編を思い出しながら読んだ。
【本の感想】
古代史の研究を読んだのは初めてだった。思えば、最初に歴史に興味を持ったのは、小3の頃祖母に三国志の本を貰ったときだった。今回読んだ6世紀より、さらに300年ほど前。途方もない。三国志演義は脚色され、物語としてとても楽しく読んだ記憶がある。本書は、そうはいかなかった。予備知識もなく、知らない単語、入り交じる漢字とカタカナ、流れも分からない。何度も手戻りしながら読んだので、とても時間がかかった。
なぜ読み切れたのか?それは古代史特有の、想像する楽しさを本書から垣間見ることができたからだと思う。数少ない一次資料を繊細に読み取り、解釈し、そして膨大な余白をオリジナリティある想像で埋める。何より、新しい史料や考古学的証拠が、その想像を補完し、時には裏付ける形で、時には裏切る形で発見される。本書にはそのプロセスが直接書き込まれていた訳ではないが、作者がそれを通じて楽しんでいる様が、継体天皇の研究を通じて伝わった。
正直、継体天皇に対して特別な興味関心はそそられなかった。研究としての本書の価値は私にはわからない。ただ、今後様々な歴史研究に触れてみることで、その研究と研究の間の余白を想像できるようになり、また、見える風景が変わるようになり、人生が少し豊かになるんじゃないかな、そう思わせてくれた。かなり重たい扉だけど、その先に知らない世界があるのを垣間見させてくれた。とてもよい読書体験だった。
追記
国立博物館めっちゃいきたくなった! -
Posted by ブクログ
河内春人「倭の五王」(中公新書)
これまでの倭の五王の日本の皇統譜への比定について、中国史書と考古学の知見から批判している。
0. 4世紀後半、中国は南北朝時代に入っていた、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅、さらにいまの釜山あたりには加耶諸国があった。日本(倭)は百済や加耶とは国交があり、新羅とは和戦両方の関係にあった。高句麗は北朝とは緊張関係にあり、つねに南進を目指していた。高句麗、百済、倭ともに南朝との関係を保つことで東アジアでの地位を高めようとしていた。その中で倭の5人の王、讃・珍・済・興の南朝・宋への使節派遣が宋書に記録されている。
1. 讃は421年に南朝・宋に使節を送った。東晋を2年前に滅ぼした宋が高句麗や百済との関係強化に動いたことに刺激されたと推定。倭讃を名乗ったが、この二字名乗りは、扶餘族出身を標榜する百済の近肖古王が餘句を名乗ったことに倣ったと推定。倭は朝鮮半島南部の鉄資源を必須としており半島での権益維持は重要であった。讃は倭国王安東将軍の称号を与えられたとみられる。
2. 珍が438年に宋に使者を送り、兄の讃の死を伝えた。珍は宋に対し使持節・都督倭百済新羅任那秦韓募韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王への任命を要求した。大将軍号については高句麗、百済が大将軍だったのでそれと並ぶことを要求したとみられる。都督---六国諸軍事も半島南部の加耶諸国の盟主としての地位を得ようとしたもの。ただし宋はこれらの要求を却下し、安東将軍・倭国王にとどめた。また珍は倭国内の豪族13人に将軍号を求め承認された。倭国王の権威を上げる手段として中国官職を利用したと思われる。百済等も同様のことをしている。この中で倭隋に平西将軍を付与したことが注目される。倭姓なので王族と思われ、珍の平東にたいして対となる平西という称号は対等感がある。著者は倭珍が古市古墳群(大阪南東部)に本拠のある王族、倭隋は百舌鳥古墳群(大阪南西部)に拠る王族に属しているのではないかと想像している。
3. 済が443年に宋に使節を送る。済と珍の続柄は記されておらず、近親でなかった可能性が高い。上記の倭隋のグループに王権が移った可能性がある。451年に再度使者を送り、使持節・都督倭百済新羅任那秦韓募韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王への任命を求めている。今回は百済を除き加羅を加えた使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓募韓六国諸軍事を獲得できた。ただし大将軍は認められず安東将軍にとどまったとみられる。また国内豪族23名への官職付与を申請し認められている。
4. 興は462年に済の世子として使節を送り、済の死を告げて国王への任命を要請した。これまでは倭国内で即位した後に宋に通知しているので、独力での即位に何らかの支障があったことが推定される。興は済の称号を引き継ぐことを認められた。
5. 武は478に宋に使節を送った。宋は武に使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓募韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王を認めた。これまでの倭国王は遠国の王への称号なのに倭王は近国・軍事的支援を期待する王への称号。将軍から大将軍への昇格と合わせ、宋が北朝に対し不利になるなら倭の軍事力への期待が高まっていた可能性はある。武が送った長文の上表文が中国の史書に残されている。古典からの引用を含め当時の文書外交の儀礼に則ったものであり、中国から渡来した文官が外交文書の作成など倭国内で大きな役割を果たしていると思われる。
6. 倭の五王と皇統譜の比定:讃について音韻の推定でサザキ(仁徳)、ホムタ(応神)、珍と兄弟であることから履中とする説がある。珍は字形から瑞歯別(反正)とする説がある。済は允恭とする説が多いが状況証拠的推論に留まる。興は雄略の兄である安康とする説があるが、雄略の比定次第である。武はワカタケルのタケル、あるいは書記の若武の武から雄略とするのが一般。ただし武をタケルと読む訓読みが5世紀の倭で成立していたかは大いに疑問。5世紀の刀剣銘を見ると一音一字である。
また系譜論(兄弟親子関係)についても継体以降の王たちにとって、継体自身の祖父についても曖昧なのに、関係の薄い仁徳系王朝の系譜が正しく口承されていたのか疑問がある。結論として、倭姓の王家が讃グループ、済グループ、のちに継体を生む北陸グループの3集団に分かれていた程度しか言えないのではないか、というのが著者の結論。 -
Posted by ブクログ
五世紀に日本から中国に使節を派遣した王がいた。それも五人もの王が。宋の史書に倭の五王、讃、珍、済、興、武が中国に外交使節を派遣してきたと書かれている。この五王はそれでは一体誰なのであろうか?その謎解きの面白さがあるが、結論から言うと、その謎は解けていない。これからも解けないかもしれない。しかし、今までの各天皇に対応していた五王が、見方を変えれば違ってくるという面白さがある。また、考古学的に古墳群の成立時期とかを考慮する見方とか、「武」をタケルと読んでいたが、当時に訓読みは存在していなかったという話で、武だからワカタケルと呼ばれた雄略天皇ということにはならないのではないかとか。面白かった♪
-
Posted by ブクログ
古事記、日本書紀をベースにした半親和的な古墳時代の天皇家の系譜を宋書をベースに再解釈を試みる。また、朝鮮半島、および中国の王朝の政治的状況を分析し、ありえたこと、ありえなかったことを考えて、日本の政治状況を推理している。
8世紀に成立した古事記、日本書紀は江戸時代から本格的に分析されているが、宋書と突き合わせてみると本当に5世紀に訓読みが存在していたかもわからず、倭の五王が本当は誰か、讃、珍、斉、興、武の最後の武が、獲加多支鹵(ワカタケル)であり、雄略天皇であるという定説が本当に正しいのかもわからない、とする。
訓読みのみならず、長子相続ではなく、兄弟あるいは一族の有力者が家督を相続していたようだし、架空の天皇、誇張の外交文書もあったと思われる。 -
Posted by ブクログ
「北陸からやって来て新たな皇統を打ち立てた天皇」という継体天皇に対する従来の見方が文献や考古学的成果により塗り替えられる。そもそも天皇が一つの血筋からのみ世襲され始めたのが継体天皇以降のことであり、それまでは複数の有力集団の間で大王が決められていたと考えられていて、継体天皇の一族はは近江や越前、美濃、尾張といった東国の集団と協調して足場を作り、畿内を中心としたそれまでの王権を凌駕する力を蓄えるに至ったとされる。磐井の乱を見ても当時の王権は日本という国家の枠組みを形成する途上にあったので、現代人の想起する国家体制とはかなり異なる力学が朝鮮半島を含めた東アジアに存在したのは間違いない。
昨今、皇室典範改正と絡んで「皇統とは如何にあるべきか」との問題意識から、その名も「継体」天皇の即位の経緯に大きな注目が集まったが、そもそも本書の主張するように継体が現在に繋がる皇統の始祖王であるなら皇位の接続にかかる議論の参考にはなりにくいとも言える。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ継体を「現天皇家の実質的な世襲王権の始祖王」と位置づけ、5世紀までの「(古市⇔百舌鳥古墳群に代表される複数王族集団から適格者を選ぶ王権システム」から、6世紀以降の「血統重視の世襲王権」への転換点だと主張
(選抜制の時は中国朝貢し役職を権威の根拠にしていたが、新に 大兄制を決め、系譜をまとめ、埴輪祭祀場を通じた血統世襲への確立という事らしい
血縁が不確かな北陸系の有力者だった継体が、ヤマトの有力豪族に招聘されて即位し、磐井の乱や半島情勢を乗り越えながら、以降の大王・天皇を自らの子孫に限定する仕組みを定着させた
著者の『日本書紀』への史料批判が徹底している、即位記事や人柄描写が中国史料(漢書など)の故事を模倣した文飾であると読み解く
本書は「ぱっとしない」直前に読んだ水谷千秋の継体像は「国際的ネットワークを背景に登場した広域的・国際的な王」、近江・若狭・尾張・有明海沿岸・渡来人(秦氏など)・百済(特に武寧王)と支持基盤を強調していて「かっこいい」半島との関係や威信財(広帯二山式冠・捩じり環頭大刀)の配布が九州の協力豪族を表わすなどスケールの大きな活動