作品一覧

  • ユーラシアのなかの「天平」 交易と戦争危機の時代
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    1巻2,750円 (税込)
    東大寺大仏や正倉院宝物など、絢爛な文化が開花した天平年間。シルクロードや遣唐使などの国際交流により、華やかな印象を持つ人も多いだろう。しかし外交が盛んになった一方、ユーラシア全体を揺るがす軍事的緊張が生じていた。繁栄を謳歌していた唐を、一気に奈落の底に突き落とした「安史の乱」。その混乱の中、藤原仲麻呂が新羅征討を計画――。天平とはいかなる時代だったのか。豊富な史料をもとに世界史的視点で解き明かす。
  • 新説の日本史
    3.8
    1巻990円 (税込)
    「邪馬台国論争は畿内説の完全勝利」、「今川義元は上洛を目指していなかった」、「西郷隆盛は征韓論者ではなかった」など。歴史研究の現場において、これまでの常識を覆す説が次々に生まれている。 本書では、古代・中世・近世・近現代と、ぞれぞれの時代における気鋭の研究者たちが最新の研究結果を報告。これからの教科書を書き換えるかもしれない新説で、日本史の見方が変わる。
  • 倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア
    3.9
    1巻1,100円 (税込)
    倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武を言う。邪馬台国による交信が途絶えてから150年を経て、5世紀に中国へ使者を派遣した王たちである。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国への〝接近〟の意図や状況、倭国内の不安定な王権や文化レベル、『古事記』『日本書紀』における天皇との関係などを中国史書から解読。5世紀の倭や東アジアの実態を描く。古代歴史文化賞優秀作品賞受賞

ユーザーレビュー

  • 倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア

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    倭の五王の宋へ遣使 (421-478) それ以前は266年の邪馬台国による西晋への遣使
    421 讃 425 讃 430 -- 438 珍 443 済 451 済 460 -- 462 興 477 -- 478 武
    3c半ばに奈良盆地南東部の大和柳本古墳群、4cに奈良盆地北部の佐紀古墳群、
    4c末頃から大阪・河内の古市古墳群、5c初頭に奈良盆地西部の馬見古墳群、
    5c半ばに和泉の百舌鳥古墳群。
    4c後半は、佐紀古墳群から古市古墳群に移動する時期。百済との外交を重視し、大和川流域の瀬戸内への交通の要衝。

    (中国の状況)
    中国が4c初頭いらい分裂 三国時代(220-280)、魏のあと西晋(265-

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    2024年04月25日
  • 倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア

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    倭の五王について、これまでは記紀と中国史書の突合で、記紀の天皇との比定を行うことにエネルギーが注がれていた。

    本書では、記紀は八世紀における王権確立のためのナラティブ(全て正しいわけではない)との視点から、(間違いもあるにせよ)記録である中国史書を中心に、朝鮮史書や、広開土王碑や古墳群のような考古学的物証を活用しつつ、倭の五王がどの天皇かという点はさておき、五王の時代の国際関係や五王の遣使の意図などについて分析を試みている。

    意図としては、高句麗の南進という国際情勢の中で百済と同盟してこれに当たるという中で、国際的に宋から中国官位を得て正統性を得る必要があったこと(百済も同盟国ながら高い官

    0
    2022年09月25日
  • 倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア

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    倭の五王の正体について無理に記紀の記述にあてはめようとはせず、最も客観的と思われる視点からアプローチしようとする。
    最も客観的な視点とは、中国による倭国の支配者への官位の叙任、巨大古墳の分布状況、朝鮮半島の情勢、記紀による内紛の記述、国内の出土品などである。少ないヒントを頼りに五王が統治したであろう日本の古代国家に迫る。継体以前にも複数の大王輩出の系統があったことや、国内の権力バランスが常に一定ではなかったことなど詳細に説明があり、豊かな想像力で歴史的テクストを読ませる。緩やかな三王朝交代説を様々な視点から補強する論述となっている。

    0
    2018年11月19日
  • 倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア

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    河内春人「倭の五王」(中公新書)
    これまでの倭の五王の日本の皇統譜への比定について、中国史書と考古学の知見から批判している。
    0. 4世紀後半、中国は南北朝時代に入っていた、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅、さらにいまの釜山あたりには加耶諸国があった。日本(倭)は百済や加耶とは国交があり、新羅とは和戦両方の関係にあった。高句麗は北朝とは緊張関係にあり、つねに南進を目指していた。高句麗、百済、倭ともに南朝との関係を保つことで東アジアでの地位を高めようとしていた。その中で倭の5人の王、讃・珍・済・興の南朝・宋への使節派遣が宋書に記録されている。
    1. 讃は421年に南朝・宋に使節を送った。東晋を2年前

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    2025年05月02日
  • 倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア

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    五世紀に日本から中国に使節を派遣した王がいた。それも五人もの王が。宋の史書に倭の五王、讃、珍、済、興、武が中国に外交使節を派遣してきたと書かれている。この五王はそれでは一体誰なのであろうか?その謎解きの面白さがあるが、結論から言うと、その謎は解けていない。これからも解けないかもしれない。しかし、今までの各天皇に対応していた五王が、見方を変えれば違ってくるという面白さがある。また、考古学的に古墳群の成立時期とかを考慮する見方とか、「武」をタケルと読んでいたが、当時に訓読みは存在していなかったという話で、武だからワカタケルと呼ばれた雄略天皇ということにはならないのではないかとか。面白かった♪

    0
    2023年05月01日

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