河内春人のレビュー一覧
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同著者の「継体天皇」が面白かったのでこちらも読んだ。
古墳時代の継体天皇から時代はさらに遡り、五世紀。その時代に中国に使節を送り、中国の史書に名を残している倭の五王とは一体誰か?その時代の倭国とはどのような状況だったか?と言うのを、いわゆる記紀だけでなく、中国の歴史書や当時の東アジア政治情勢を読み解きながら研究していく。とても面白かった。
「日本の立場だけで日本史を考える危うさについて気づくきっかけになればと思う」と『はじめに』の部分にあるように、大量の中国の文献資料が出て来るので圧倒される。日本の古代史を研究するのに、古代中国の漢文史料を読めなければいけないんだなあ…と、広すぎる研究範囲やそこまで資料を読み込む努力に敬服する。他にも室町時代の僧の資料や、アフリカの民族の口伝家系図の例などもちらっとだが出てきて、アンテナの張り方の広さに感心してしまった。
倭の五王に関しては、やはり残された資料が少ないので、誰が誰である、ということはある程度まで推測はできるものの、確定にまでは至らない。だが当時の倭国の状況などを推論していく過程が面白い。倭という名前も、中国の習慣に従い名字を名乗る必要があったので、それまで国内では名字を持たなかった王たちは中国に対して倭を名字として名乗ったともあって面白かった。
この本のあとに出版された「継体天皇」繋がるお話も色々出てきて興味深かった。
特に面白かったのが、中国の皇帝に持参する外交文書である上表文について。
倭王武のものが、「四文字の対句を基調として構成されており、当時の文書の中でも文学的に優れたものであり、中国で書かれた文書と比較しても遜色のないものとして評価されている」とあり、当時かなり出色だったらしくそのまま中国の文献に残されている。
そもそも皇帝に奏上するものなので、中国古典の語句や文を引用した優れた文書であることにより、自国の文化水準をアピールして皇帝やその宮廷の目に止まる必要があったらしい。周辺国が文書の出来栄えについてもしのぎを削っていたというのが面白いし、巻末に実際の武の上表文が掲載されているが、こういう文章をやりとりしていたのだと思うと当時の(主に中国の)文化レベルの高さに驚く。
よく渡来人が技術を日本にもたらして優遇されたと聞くが、中国の歴史書や詩文に造詣が深い学者のよう人物も、単に文字を使って記録ができるということ以外にこういう面でもとても重宝されたのだろうなあと思った。
対等とは言えなくても、平和的に外交交渉をするためには、古代においても文化レベルやいわゆる共通の教養が大事だったのだなと思う。
そう考えると、人間はやってることは変わらないなあとつくづく思った。
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奈良・飛鳥時代の更に前の六世紀の継体天皇についての本。
名前しか知らなかったが、帯にあるように『ヤマト王権の始祖王』とあるのが気になって読んだ。
当時は天皇(ヤマトの大王)は地域の複数の王族集団から有能な人物を選んで据えていた、と本書ではされている。
ところが、大和地方での王族(いわゆる仁徳天皇の血筋)の継承者が絶えたので、継体天皇はその大和の王族たちの血縁を持つ別の有力集団でもあった北陸から迎え入れられたという。
そこから、継体天皇の系譜や当時の朝鮮の国々との関係、そして継体天皇その息子たちがどのように世襲天皇制を作り上げていったかが書かれている。
面白かった!
継承者がいなくなり、傍系から呼ばれた天皇だったとは。
また当時はまだ天皇と呼ばれていないので、日本書紀や古事記には誤りや明らかな国威高揚のための作為があるとしてそれ以外の考古学的な資料や散逸した資料などをもとに継体天皇の実体を推論していく過程が興味深い。
日本書紀の注釈に、今は伝わっていない古代の資料から引用されている内容があるということや、継体天皇の本名がもしかするとこれではないか、というの名前があるのも初めて知ることで面白かった。
日本や朝鮮も含めて、この時代の国は、現代で言う概念の国家とは違う流動的なものであるということがたびたび念を押されており、豪族もあちらについたりこちらについたり、さらに海を越えて朝鮮と結びついたりで国を治めるトップも大変だったのだなー。
同著者の「倭の五王」も、正体が知りたいので読もうと思う。 -
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ネタバレ・継体天皇(ヲ・フト)はヤマト連合政権で大君を出す集団(氏族制以前のための称す)の北陸集団のトップ。北陸集団も連合政権。北陸集団は、ヲ・フトの曾祖父オオ・フトの代に、近江高島郡三尾を拠点に琵琶湖・淀川水運を利用し越前から摂津まで勢力を広げ、摂津に三島古墳群、大和にもオシサカに拠点。
・ヲ・フトはおそらく青年時代にオシサカにおり、武寧王、イワイ、(毛野)オウミと一緒に過ごしたことがある。
・大君は、5世紀半ばに古市古墳群集団から百舌鳥古墳群集団の済・興・武(雄略天皇)に移行、その後葛城集団の飯豊青皇女を経て、古市古墳群集団に戻り、その後継体天皇。
継体天皇以降は同一系統による世襲王権(群臣の推戴はあるが)。
・任那の百済への割譲は全羅南道南部の「慕韓」を高句麗の圧迫により南遷した百済が倭の事実上の同意により征服したこと。慕韓には十数基の前方後円墳があるが、倭の前方後円墳は時代ごとに規格化されていたのに対し、規格化されとらずヤマト王権によるものとは思われない。倭の影響にはあったが、ヤマト王権以外かもしれないし、倭人が仕えたのかもしれない。
・金官が新羅の圧迫に対し、ヤマト王権と結び対抗しようとしたが、イワイは新羅と結び、金官・ヤマト王権rン豪軍は新羅に敗退。イワイはヤマト王権に敗北し、ミヤケを差し出す。王権の強化へ。 -
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倭の五王の宋へ遣使 (421-478) それ以前は266年の邪馬台国による西晋への遣使
421 讃 425 讃 430 -- 438 珍 443 済 451 済 460 -- 462 興 477 -- 478 武
3c半ばに奈良盆地南東部の大和柳本古墳群、4cに奈良盆地北部の佐紀古墳群、
4c末頃から大阪・河内の古市古墳群、5c初頭に奈良盆地西部の馬見古墳群、
5c半ばに和泉の百舌鳥古墳群。
4c後半は、佐紀古墳群から古市古墳群に移動する時期。百済との外交を重視し、大和川流域の瀬戸内への交通の要衝。
(中国の状況)
中国が4c初頭いらい分裂 三国時代(220-280)、魏のあと西晋(265-316)、東晋(317-420)
五胡十六国時代(304-439)
南北朝時代(439-589) (北朝)北魏(鮮卑)、東魏、西魏、北斉、北周 (南朝)宋(420-479)、斉(479-502)、梁、陳
倭(ヤマト)からみた正統王朝は、前漢(BC206-AD8)、後漢(25-220)、魏(220-265)、西晋(265-316)、東晋(317-420)、宋(420-479)
(朝鮮半島の状況)
馬韓(BC2c末-AD4c中)後の百済、辰韓(BC2c末-AD356)後の新羅、弁韓(BC2c末-AD4c)後の任那・加羅
三国時代(4c-7c) 高句麗(BC37?-668.10.22)、百済(4c前半-660)、新羅(BC57-935)
AD370前燕滅亡により西の脅威がなくなる。
369年9月 高句麗の故国原王の南下2万の軍、百済の近肖古王、撃退。
371年冬にも攻撃あり百済は反撃し高句麗の平壌城を攻め、百済が大勝、高句麗の故国原王が死亡。
百済は都を漢城に移す。東晋への朝貢(372年,373年)、倭国との関係構築を開始。
七支刀 東晋太和4年(369)制作の銘、372に百済から倭国へ贈られる。(日本書紀では252=神功摂政52年)
高句麗南下に対する倭国と百済の対等の軍事同盟。
新羅は366と368年に百済と外交、373年対立、377年高句麗に随伴し華北の前秦へ使者を派遣。
(華北の前燕と高句麗)
342前燕は高句麗攻撃、王都の丸都占領、故国原王は単騎で敗走。前王の美川王の墓を暴く。
343高句麗は前燕に臣として朝貢。
369東晋が前燕に攻撃、370前秦が前燕に攻撃、前燕は滅亡。
383年前秦が100万の軍で南下、淝水の戦いで東晋と戦い、東晋が勝利。
394前秦が滅亡。
(広開土王碑)
高句麗の王、391年から22年の治世。対外戦争。414年に息子の長寿王によって碑が建てられる。
396百済親征、399倭人撃退、400倭・安羅攻撃、404倭との海戦、407百済と戦う。
戦争相手の登場回数は倭が最も多い。最大の敵国。391に倭国が襲来し百済と新羅を臣民にした。
新羅と倭国では、364倭兵を撃退、393倭人が金城を囲むも破れず撤退。
400年高句麗と倭国の陸戦で騎馬により倭国敗戦、倭国は馬の積極導入へ
高句麗、百済、倭国の鼎立。
(南朝への遣使)
高句麗は中国北方との外交が主だったが、413年、70年ぶりに南方の東晋へ遣使。
倭国も413年に東晋へ遣使?高句麗が新王の長寿王の威信を高めるための偽使。
歴代の百済王は即位時に東晋へ遣使。また、当時の人質は両国のパイプ的役割を果たす。
405年阿莘王がなくなり、 倭国の人質だった腆支王が倭国の支援を受け即位。
腆支王は406年に東晋へ遣使。416年に東晋から叙任。
(421年の国際情勢)
宋は東晋から禅譲を受けて2年目、高句麗は長寿王が413年から在位。
百済は420年に腆支王から久爾辛王へ。新羅は高句麗重視の外交。
宋が高句麗や百済との関係強化に動いたので、倭讃も遣使、朝鮮諸国同様に1文字名を名乗る。
高句麗は高姓、百済は扶余族の餘姓を中国に対して使用。
邪馬台国や卑弥呼は、中国側から当て字されてる。讃は好字なので自ら名乗った。
421年の時点で讃は安東将軍、倭国王に冊封されてるはず。
高句麗では広開土王のときに府官制を導入、百済でも府官制を導入。
倭国でも高句麗、百済との対抗意識の中で府官制導入、宋に対して官爵を要求。
438年、讃の弟の珍が遣使、官爵を要求するが、安東将軍倭国王とされる。
高句麗、百済と同格の大将軍格、また半島の支配権の承認を求める。
倭珍は安東将軍、倭隋は平西将軍となる。古市古墳群と百舌鳥古墳群の2つの王族集団。
倭讃、倭珍の「東」グループと倭隋の「西」グループ。
中国王朝の官爵により倭王権の強化。倭国全土の支配へ。
440、444年、倭国の豪族連合軍は新羅に侵攻。
443年、済が遣使。17代履中天皇から480年即位の22代清寧天皇の王位継承での抗争。
讃、珍と隋との二大グループ(古市古墳群と百舌鳥古墳群)なので、おそらく隋の後継者の済。
451年、済は使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍 倭王を授与される。
百済に関しては却下。さらに23人の仮爵の承認。列島の有力豪族と渡来系の府官。
おそらく444年の新羅侵攻の功績による叙任。
462年には、興が世子として遣使、安東将軍 倭国王に。宋の叙任を得てから王位継承?
478年に武が遣使。477年興が高句麗による百済滅亡をうけて派遣したが休止したので翌年に遣使。
武の上表文。これまでの倭国と宋との良好な関係、高句麗の暴虐、高句麗討伐の必要性、官爵の要求。
26代継体天皇の正統性の保証は15代応神天皇。百済との外交での七支刀・七子鏡は神功皇后ではなく応神天皇の事績?
王権系譜の中での画期。後代まで意識。古事記の中巻最後の天皇、神話から歴史への移行期間。
古事記下巻は完成した天下的世界が推古朝まで引き継がれる系譜。
高句麗による百済の一時滅亡後、新羅に対しても攻勢をかける(481,484,489,494)。
高句麗・百済・倭国の鼎立から高句麗対百済・新羅へ変化。
継体大王の即位と王位継承のための大兄制度の創出。7c後半まで機能。
倭の五王を輩出した2つの王族集団は手白香皇女を通し統合されていく。
5cには倭姓を持つ王権が無姓の人々を治める体制が、6cでは大王は姓を持たず豪族以下に姓を授ける体制に。 -
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倭の五王について、これまでは記紀と中国史書の突合で、記紀の天皇との比定を行うことにエネルギーが注がれていた。
本書では、記紀は八世紀における王権確立のためのナラティブ(全て正しいわけではない)との視点から、(間違いもあるにせよ)記録である中国史書を中心に、朝鮮史書や、広開土王碑や古墳群のような考古学的物証を活用しつつ、倭の五王がどの天皇かという点はさておき、五王の時代の国際関係や五王の遣使の意図などについて分析を試みている。
意図としては、高句麗の南進という国際情勢の中で百済と同盟してこれに当たるという中で、国際的に宋から中国官位を得て正統性を得る必要があったこと(百済も同盟国ながら高い官位を求め合うライバルだった)。また、古墳群の分立が示すように王権が絶対では無かった中で、中国の官位を権威の源とし、更に下位の中国官位を部下に配分することで権威を確立していたこと。の二つが主な理由となっている。後者については、倭珍の時代に珍と同格やや下の地位に倭隋が任命されており、倭王権の中に王と同種の格の人間が居たことを宋への任命要請から導き出している。
また、五王で派遣が終わった点については、国際的には、将軍号の獲得で相対的な優位を高句麗・百済と争うよりは、朝鮮半島における高句麗対百済・新羅の熱戦や任那への波及があり、称号獲得に意味が無くなったことが挙げられている。また、国内で雄略後に、武烈に至るまでに内乱が続き、王統が離れる継体天皇の成立に至り、王権基盤が強化され、親子承継が基本になり、外部権威に依存する必要が無くなったことも挙げられている。
その上で、天皇との比定については、様々な問題点を論じて比定は行っていない。乱暴に理解すれば、継体以前は、継体後の視点に基づいたナラティブであり、ナラティブ内の主人公に比定しても仕方がないといったところだろう。
以前読んだ倭と日本の関係を論じる本で、日本書紀は倭内部の弱小勢力であった日本国の歴史で、乙巳の変で一気に歴史の舞台に躍り出た、古事記は倭国全体を捉えたものと推測を立てていて、荒唐無稽だがなるほどと思ったことがある。筆者の言わんとするところも、概ね似たようなことなのかなと。確かに、天皇との比定に全力を挙げるよりも、史書や考古学的資料の分析と奥の深い思慮こそが歴史の実相に近づいていける道だなと思った。
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久しぶりに文献史学者の著述を読んだ。⸺この古書とこの古書の間にはこういう矛盾があるから、武烈天皇は架空の人物である、よって⸺等々の論旨は正否は全くわからない。途中で推論の仕方を読むことはやめた。出来るだけ結論のみを追ってゆくようにした。それでも、その途中、この前読んだ松木武彦「古墳時代の歴史」の新説「百舌鳥・古市王権交代説」「当時の王権範囲は近畿地方のみ」という共通点が出たところにはドキドキした。ある程度考古学成果を取り入れているとは言え「3-6世紀の日本は、前方後円墳墳体制によって、強固に統制されたヤマト政権の時代だった」日本像は過去のものになりつつあることを明確に意識した。
時々眠くなりながら、論旨を追っていった最終250pに、結論のみを述べた「継体天皇関連年表」があることに愕然とした。これから読む方はここから読むことをお勧めする。そこから、私が覚えておきたいことを以下に抜書きする。
450 継体天皇生まれる(「日本書紀」)
478 倭王武、宋に最後の遣使
501 百済東城王殺害、武寧王即位(502年説あり)
502 南斉滅亡、梁建国
503 武寧王即位前の継体天皇に贈物(隅田八幡宮人物画象鏡)
507 継体天皇即位
521 百済と新羅が梁に朝貢、梁、百済を冊封
523百済武寧王死去(「武寧王墓誌」)、翌年聖明王即位
527 磐井、挙兵する。継体天皇死去(「古事記」)
528 磐井の乱鎮圧。
531 継体天皇死去(「日本書紀」)
百済武寧王は、日本で生まれたという説がある。若くから継体天皇とは交友があったと見られる。武寧王の生誕年と死亡年は、墓誌の発見により、揺るぎのない歴史的年代である。武寧王死去と新羅の台頭、磐井との繋がりを危機とみなした継体天皇が磐井鎮圧に乗り出した。この乱によってむしろヤマト政権の豪族たちは、連合的な繋がりから君臣関係へと変化したのではないか。と著者は言う。このあと世襲王権に移ってゆく。
この時代の文献史学書を読むのは疲れる。物語としての記紀は面白いけど、史書としての記紀は全然面白くないことがよくわかった。
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ネタバレ複数の王族集団が存在し、大王位はその集団の間を移動していた。継体天皇から世襲による大王位の継承が行われ、現在に続く。
8世紀に古事記や日本書紀は、「あるべき論」により記述されており全面的に信用できない。著者は日本書紀と史記や漢書などとの比較から、古事記は原伝承、日本書紀は原伝承に史記からの影響があると看破し、そこから原伝承を推察する。著者が自ら言うようにアクロバティックな推論であり非常に面白い。
そのほか、任那を始めとする朝鮮半島との外交関係についても論理的に推論を展開する。
また、諡号が時代が経るにつれ荘厳化され冗長になる歴史的な傾向から、継体天皇以前の大王(天皇)についても推論している。
目から鱗の推論が様々展開する非常に面白い本だった。証拠が明確に存在しない時代の歴史だけにどこまでが真実なのかは分からない。古墳の学術調査が許可され研究が進む事を切に願う。
本書で仄めかされているように、天皇は神武天皇からの万世一系ではない証拠が出て来るかもしれないが、その程度で揺らぐような天皇制ではない。
それにしても「継体」という名付けは言い得て妙である。 -
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ネタバレこの本を読む前から私は継体天皇について日本史的な知識は持っており、北陸出身、即位した経緯や大和に入らない即位後の行動など他の天皇と異なる側面を持つ不思議な存在であることは知っていた。この本では5世紀までの大王継承を複数の王族集団の内外で行われていたと説明しており、継体天皇も同じシステムのうえで継承が行われた存在であり、他の集団の存在が継体天皇の行動の背景にあるという説明には驚きと納得感を与えてくれた。また、継体天皇以降は王位継承が近親間での世襲になり、継体天皇が世襲王権の始祖と位置づけられると知って、継体天皇が古代史において特別な存在であると同時に、皇統や皇室制度に対する理解を深めるうえでも重要な存在だと感じた。ただ、史料が少なく推論で議論が行われている箇所がまだまだあったので、考古学的な発見を含め、今後の研究の発展を待ちたいと思います。
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6世紀前半、皇統断絶の危機に際して、北陸から迎えられ応神天皇5世孫として即位したとされ、王朝交代ではないかという説もある継体天皇について、『日本書紀』等の史料を批判的に検証し、その実像を探る。
隅田八幡人物画象鏡銘文の解釈など、ちょっと根拠が不確かではないかという部分もあったが、全体を通してかなり精緻な史料批判をされていて、その主張はおおむね納得できるものだった。
天皇・皇室に強い関心を持つ自分は以前より、まるで易姓革命を意識したような日本書紀の記述等から、事実上の現在の皇室の祖だろうと継体天皇に注目していたが、本書を読んで、継体天皇像がより一層クリアになった。すなわち、継体天皇は、決して王朝簒奪者というわけではなく、大王を輩出し得る王族集団から擁立された5世紀的な大王だったが、その後の世襲王権の始祖となる画期性のある存在だったというものである。 -
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皇室典範改正で物議を醸している中、本書は時宜を得たかのように登場。25代武烈天皇で、16代仁徳天皇以来の皇統が途絶えるなか、後継者探しに奔走。ようやく見つけた二人の候補。一人は14代仲哀天皇の五世孫だが護衛の兵の到来を見て驚き逃げ出し行方不明になる。継体天皇は、この二人目であり、15代応神天皇の五世孫。二度辞退するも三度目に受け入れる。劉備が孔明を三顧の礼をもって迎えた故事に似ている。この継体天皇の出現は、ひとつのエポックになっているというのが本書の主張である。継体天皇が即位するまでは有力な豪族間で天皇が引き継がれていたが、継体天皇以降は王統を継ぐという概念が世襲制という形で定着する。連綿と継がれてきた皇統、象徴天皇制のなかで、国民の総意としてふさわしいあり方とは何か、改めて考えてみることは大切だと感じた。