河内春人のレビュー一覧
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ネタバレ・継体天皇(ヲ・フト)はヤマト連合政権で大君を出す集団(氏族制以前のための称す)の北陸集団のトップ。北陸集団も連合政権。北陸集団は、ヲ・フトの曾祖父オオ・フトの代に、近江高島郡三尾を拠点に琵琶湖・淀川水運を利用し越前から摂津まで勢力を広げ、摂津に三島古墳群、大和にもオシサカに拠点。
・ヲ・フトはおそらく青年時代にオシサカにおり、武寧王、イワイ、(毛野)オウミと一緒に過ごしたことがある。
・大君は、5世紀半ばに古市古墳群集団から百舌鳥古墳群集団の済・興・武(雄略天皇)に移行、その後葛城集団の飯豊青皇女を経て、古市古墳群集団に戻り、その後継体天皇。
継体天皇以降は同一系統による世襲王権(群臣の推戴 -
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倭の五王の宋へ遣使 (421-478) それ以前は266年の邪馬台国による西晋への遣使
421 讃 425 讃 430 -- 438 珍 443 済 451 済 460 -- 462 興 477 -- 478 武
3c半ばに奈良盆地南東部の大和柳本古墳群、4cに奈良盆地北部の佐紀古墳群、
4c末頃から大阪・河内の古市古墳群、5c初頭に奈良盆地西部の馬見古墳群、
5c半ばに和泉の百舌鳥古墳群。
4c後半は、佐紀古墳群から古市古墳群に移動する時期。百済との外交を重視し、大和川流域の瀬戸内への交通の要衝。
(中国の状況)
中国が4c初頭いらい分裂 三国時代(220-280)、魏のあと西晋(265- -
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倭の五王について、これまでは記紀と中国史書の突合で、記紀の天皇との比定を行うことにエネルギーが注がれていた。
本書では、記紀は八世紀における王権確立のためのナラティブ(全て正しいわけではない)との視点から、(間違いもあるにせよ)記録である中国史書を中心に、朝鮮史書や、広開土王碑や古墳群のような考古学的物証を活用しつつ、倭の五王がどの天皇かという点はさておき、五王の時代の国際関係や五王の遣使の意図などについて分析を試みている。
意図としては、高句麗の南進という国際情勢の中で百済と同盟してこれに当たるという中で、国際的に宋から中国官位を得て正統性を得る必要があったこと(百済も同盟国ながら高い官 -
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【本を読もうと思った理由】
元々歴史には興味があった。最近コテンラジオを聞いているが、日本の古代史は史料も少ないため、取り扱いが少なかった。火の鳥のヤマト編を思い出しながら読んだ。
【本の感想】
古代史の研究を読んだのは初めてだった。思えば、最初に歴史に興味を持ったのは、小3の頃祖母に三国志の本を貰ったときだった。今回読んだ6世紀より、さらに300年ほど前。途方もない。三国志演義は脚色され、物語としてとても楽しく読んだ記憶がある。本書は、そうはいかなかった。予備知識もなく、知らない単語、入り交じる漢字とカタカナ、流れも分からない。何度も手戻りしながら読んだので、とても時間がかかった。
な -
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河内春人「倭の五王」(中公新書)
これまでの倭の五王の日本の皇統譜への比定について、中国史書と考古学の知見から批判している。
0. 4世紀後半、中国は南北朝時代に入っていた、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅、さらにいまの釜山あたりには加耶諸国があった。日本(倭)は百済や加耶とは国交があり、新羅とは和戦両方の関係にあった。高句麗は北朝とは緊張関係にあり、つねに南進を目指していた。高句麗、百済、倭ともに南朝との関係を保つことで東アジアでの地位を高めようとしていた。その中で倭の5人の王、讃・珍・済・興の南朝・宋への使節派遣が宋書に記録されている。
1. 讃は421年に南朝・宋に使節を送った。東晋を2年前 -
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五世紀に日本から中国に使節を派遣した王がいた。それも五人もの王が。宋の史書に倭の五王、讃、珍、済、興、武が中国に外交使節を派遣してきたと書かれている。この五王はそれでは一体誰なのであろうか?その謎解きの面白さがあるが、結論から言うと、その謎は解けていない。これからも解けないかもしれない。しかし、今までの各天皇に対応していた五王が、見方を変えれば違ってくるという面白さがある。また、考古学的に古墳群の成立時期とかを考慮する見方とか、「武」をタケルと読んでいたが、当時に訓読みは存在していなかったという話で、武だからワカタケルと呼ばれた雄略天皇ということにはならないのではないかとか。面白かった♪
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古事記、日本書紀をベースにした半親和的な古墳時代の天皇家の系譜を宋書をベースに再解釈を試みる。また、朝鮮半島、および中国の王朝の政治的状況を分析し、ありえたこと、ありえなかったことを考えて、日本の政治状況を推理している。
8世紀に成立した古事記、日本書紀は江戸時代から本格的に分析されているが、宋書と突き合わせてみると本当に5世紀に訓読みが存在していたかもわからず、倭の五王が本当は誰か、讃、珍、斉、興、武の最後の武が、獲加多支鹵(ワカタケル)であり、雄略天皇であるという定説が本当に正しいのかもわからない、とする。
訓読みのみならず、長子相続ではなく、兄弟あるいは一族の有力者が家督を相続していたよ