渡辺佐智江のレビュー一覧
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『ときどき思う。なぜわたしたちはそもそもの始まりに繰り返し戻るのか、なぜわたしたちは、自らの人生と呼ぶ織物の後ろに「なぜ」に応える真実が見つかるかもしれないと、一本の糸を探してはそれを引っ張り、織物をほどこうとするのだろうか、と。だが真実などありはせず、「なぜ」しかない。そしてさらに近づいて見てみれば、その「なぜ」の後ろにまたもう一枚の織物が現れる。そしてその後ろにまたもう一枚、またもう一枚と現れ、いつしかわたしたちは忘れ去る』―『第一章/2』
リチャード・フラナガンを初めて読んだのは十年程前、「グールド魚類画帖 十二の魚をめぐる小説」。そして「奥のほそ道」。これらは小説に分類され、「奥のほそ道」はブッカー賞を受賞。個人的に「シュレーディンガーの猫を追って」のフィリップ・フォレストと印象の重なる作家であり、時に混同さえしてしまう小説家。一方で、本作は「歴史」について考察する一作であり、その分類に属する著作に対するベイリー・ギフォード賞を受賞。ただし、読めば解ると思うけれど「グールド魚類画帖」や「奥のほそ道」と比べて、書きぶりに大きな違いはなく、読んだ印象も同じ象限に着地する。そのことは、訳者あとがきの中でも言及されているが、一八五一年の「白鯨」に対する書評が題辞として引用されているところを見ても、作家が分類に拘っていないということが見て取れる。
『作者は、この作品が歴史なのか、自伝なのか、地名集なのか、悲劇なのか、恋物語なのか、年艦なのか、感傷的な恋愛劇なのか、空想物語なのか、説明する労を取っていない。あれやこれやで成り立っているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。問うたとて、答えはあるのだろうか。
『白鯨』書評、ホバート・タウン・マーキュリー紙、一八五一年』
ではこの本はどんな本なのだろう、そもそも「第七問」とは何を意味しているのだろう、とぼんやり考えながら読んでいると、幾らも頁を捲らない内に二つ目の問いに関する答えに辿り着く。それはチェーホフの短篇の一つにある皮肉な問い掛けであり、それは「答えの無い問い」ということなのだ、と。けれど、調べてみると、チェーホフの短篇「狂った数学者の提起した問題」には同じような不条理な問いが八つあることが判る。ならば他でもない第七問を取り上げた意味は何なのだろう。それもまた頁を進めるに従って徐々に見えて来ることだが、鍵となる言葉は「指示」であり「愛」なのだ、と。
『戦争には倫理に依拠した計算法があるふりをする。実に多くのことができるふりをする。だが戦争においては、単純な算数すら可能ではない。(中略)あの青い朝に散った無数の知られざる死者の魂は捉えられず、計測を拒み、メトリクスを嘲笑う。それら死者の魂は数字の外に在る。チェーホフは、答えを提示するのではなく必要な問いを投げかけるのが文学の役割であるということを信条としていた。チェーホフ最初期の短篇の一つに、学童に出す暗算の問題のパロディがあり、そのなかの第七問が好例である ―― 一八八一年六月一七日水曜日、ある列車が、A駅を午前三時に出発してB駅に午後十一時に到着する予定でしたが、出発直前になって、午後七時までにB駅に到着せよとの指示がありました。より長く愛するのはだれでしょう、男でしょうか、それとも女でしょうか』―『第一章/17』
終戦を広島で戦争捕虜として迎えた父の足跡、日本の敗戦を象徴してしまう新型爆弾、その爆弾を投下する任を追った機長の母親の名前を冠したエノラ・ゲイ号の乗組員の逸話、原爆という言葉を生み出した空想科学小説家H・G・ウェルズの科学的洞察と乱れた私生活、ウェルズが後年記した科学理想郷的著作、その著作に霊感を受けて空想の兵器を現実のものへ変えて行く役割の一端を担う異才レオ・シラードの生涯、と、身近な存在から作家の思索は次々と「連鎖反応」を起こし展開していく。それは一見足元の地点から遠い地平線への飛躍のようだけれど、その連鎖反応の根源には常に作家自身の心の傷があり、言及される過去の困難、苦悩は決して他人事、あるいは客観的な歴史解釈のようなもので合理的に説明され得るものではなく、自身と地続きな問題なのだということが繰り返し示唆される。それは、全ての形の「戦争」「侵略」「差別」と関係があり、タスマニアの歴史にも、それを歴史の必然のように見なす大英帝国的史観にも、ウェルズの書いた「宇宙戦争」にも、地球を襲う火星人という「概念」にも、人間の腹黒い本質が表れているのだ、と。
そして「第七問」に対する作家の答えのような一文に行き着く。
『わたしはこういったことを理解しようと、解決しようと、一篇の小説を書いた。それを書いているあいだ、書くという行為は知り得ないものを知ろうとする方法だと思っていた。書き終えてみると、自分がなにひとつ理解していないことがわかった。―― より長く愛するのはだれだろう』―『第八章/16−17』
しかし、本書がどこか郷愁に満ち、他人事とは思えない寂寥感を読むものの内に共鳴させるのは、著者が決して大きな問題を大上段に振り被って切り捨てるような考察を下さないからであり、差別する側ではなく差別される側の視点が常にそこにあるからだとも言える。そう解って来ると冒頭に引用した自問の意味が更に一段深い所で響き出すのだ。ただし、作家自らが語る作家や作家の家族の逸話がどこまで客観的な事実なのかは、作家自身すら確信を持てないでいる。歴史を語るとは記憶を言語化することに他ならないが、記憶は記録ではなく、感情の起伏による解釈や後年の自己保身のための修正の施されたものに過ぎないのだから。郷愁が須らく愛おしさと結びつくのは記憶が受け入れ易いものに作り直されているからなのだ。
『わたしはどの年に最も雨量が多かったか、あるいは一九六四年や一九六五年の雨量が多かったとするのは正しいか記録をあたることもできるが、わたしが記述しているのは記憶であって事実ではなく、そしてわたしたちは事実によって自分自身を知るのではなく、記憶――その詐術、その回避、その沈黙、そのでっち上げ、その避けられない疑問――によってわたしたちになり、あの狭い居間でゆっくりと円を描いて動き、そのあいだ雨は絶え間なく降りつづき、下地のないトタン屋根を叩きつけ、窓をかすめ、テレビはまた意味をなさず、父は別のダンスと昔の記憶に身をまかせ、わたしたちはともに父の過去をゆっくりと円を描いてめぐる』―『第六章/4』
頁が進むにつれ、大きな問題は、小さな問題と裏腹の問題であることがますます明らかとなってくるのだけれど、それは作家の幼少期の記憶、祖母の記憶、父の記憶、母の記憶と濃密に絡み合う。そのことを作家自ら終盤の第九章にこんな風に記している。
『描くことができない夢を実現することはできない。そしてときにわたしたちは、自分が他人の夢や悪夢に住みついていることに気づき、新たに夢を見る。あなたが今読んでいるこの本は、わたしの父母と故郷の島への、消え去った世界への愛を綴った短い手紙であり、それ以上のものではない』―『第九章/17』
決して「短い」とは言えないけれど、確かに本書は去ってしまった人々や世界への語りかけとして読むのがしっくりと来る。その意味で、本書の目的は第九章までで完結しているとも言えるのだけれど、そもそも著者がそのような思索をすることになった経緯が第十章に記されている。この章を読んだら、翻訳されていない作家の最初の小説「Death of a River Guide」を読んでみたくなった。 -
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凄まじい本だった。圧倒的。まず描写力がすごい。体験した本人しか書けないんじゃないかと思うような、各人の具体的な感触、思考の流れ、感情。臨場感ありすぎ。
物語の構成も凄い。語られていく断片が徐々にパズルのピースのように埋められていき全貌を露わにし新たな意味を表す。
父親の経験を基に12年をかけて書かれた本。この本には血肉があり、何人もの個人的な叫び、痛み、疑問があり、人類全体の持つ闇、結局のところ暴力とは何なのか、人が人を虐げ続けることとは何なのか、という恐怖や絶望もある。
そして欺瞞や、一つの嘘が人間を壊してしまうということも。
これからもこの本に書かれている一つ一つの文章について考える必要があると思った。 -
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ネタバレ文庫の帯は岸本佐知子先生「ワイルドで奥深くて崇高な、世にも美しい言葉のテロ。姐さん、一生ついていきます。」
単行本訳者あとがきに、ナックルダスターで武装して会いに行ったという挿話。
文庫版訳者あとがきの、バイク用ヘルメットを脇に、階段を駆け下りてきたアッカーの姿が目に浮かぶ、という結び。
それらに惹かれ、抵抗感を抱きながらも、つい購入。
というのも、生活がそのまま詩を吐くような破滅的天才の創作を、やや忌避しているからだ。
うまく浮かばないが、中島らも「今夜すべてのバーで」に登場する天童寺不二雄が物を書いたとして、あまりに自分とかけ離れすぎているだろうから。
しかしそんなことなく、キャシー・アッカーは大変知的に文芸作品をブッ込んでいる。
また著者の写真を見ると、どうも「マッド・マックス 怒りのデス・ロード」のフュリオサを思い出してしまうが、
フュリオサそのものでは、もちろん、ない。
フュリオサは「強姦を撥ねつける」側だが、キャシーは「強姦する」側と見做せようか。
しかしその「強姦する」は限りなく「強姦される」に近いともいえる。
ウィキペディアで「セックス・ポジティヴ・フェミニズム」という概念を初めて知る。
確かに自分の躰を自分で使って何が悪い。
フェミニストは性忌避者という自分の思い込みは、すでに前時代のマチズモにどっぷり浸されていたのだ。
伊藤野枝やアギレラやマドンナやジャネット・ジャクソンの名を見て、さらに納得。
脱線するが大杉栄と伊藤野枝の子供の名前……魔子、エマ、エマ(え、同じ!?)、ルイズ、ネストルなど……笑ってしまった。
森鷗外と通じる。やはり前から気になっていた「村に火をつけ、白痴になれ」を読もう。
閑話休題。
ストーリーはあるようなないような。
ファック関係にある父から疎まれ、不良とつるみ中絶を繰り返し、売春業者に売られても業者のペルシャ人に恋し、脱出した先でなんとジャン・ジュネと会い同質の者同士分かり合えるかと思えばやはり捨てられ、死に。
筋だけ見ると下降線を描いている(のでフェミニストには受けが悪いとか)が、むしろ語りのテンションは上昇するばかりだ。
地の文。イラスト。戯曲風会話。童話のパロディ。有名作品の読書感想文。異国語で作詩。コピペ。有名人を導入。などなどなど手法の饗宴ゆえに。
しかし内面は孤独で愛を求める。「愛してよ」と罵詈雑言で言い換え続けるような。
とはいえ発せられる言葉は終始えげつない。この乖離の面白さと切なさよ。
連想するが、たとえば桜庭一樹「私の男」で「新鮮な肉だとよ、お嬢さんたち。あたしゃもっと若いけど、こちとらタフで堕落した腐れビーフ。わがオマンコは赤しオエッ」てなことを言う娘を、父は愛しぬけるか?いやー無理でしょう。
引用したい言葉多数。
ネット上で拾い集めた作者本人の挿話……山形浩生の「アホだら帝国」あとがき、や、エッセイ「病がくれたもの」とか……も興味ぶかい。
ある時代のある種の作家と片づけることもできなくもないが、読後、私の中に確かに根付いた。これから育つかもしれない。 -
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ネタバレ第二次大戦中、ミャンマーとタイを結ぶ鉄道いわゆる泰緬鉄道の建設に捕虜として従事することになったオーストラリア人医師の人生の物語。その医師の視点だけでなく、他の登場人物の視点からも、また作者の俯瞰的な視点からも物語は描かれる。作者の成就しない恋愛を第1軸、鉄道建設を第2軸、時間軸を第3軸として物語は重層的に展開する。
戦時下の行動を決して善悪の二項対立では評価できないということが繰り返し表現される。
日本人の行動が戯画化されているような印象があるが、これは仕方がないのだろう。
著者リチャードフラナガンの父親が実際に捕虜として鉄道建設に従事し、その体験談をもとに様々な取材をし、12年かけて書き上げたという労作。
さすがはブッカー賞受賞作。最初の章は話があちらこちらに飛び読みにくいがそれは最初の100ページほどなので
そこだけ頑張りましょう。読んで損はなし。 -
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『彼らはそういったことを考えていたのではない。そういうものだと知っていたのだ』
歴史上の出来事を一つの記号に集約させる。例えば、大化の改新とか、応仁の乱とか、関ヶ原の戦いとか。するとあたかもその様な結果になったのは全て必然であったという錯覚に陥る。それどころか、複雑な要素は至極単純な因果関係に収斂し数学の公式と同じような記憶の対象となってしまう。勧善懲悪。ブラック・アンド・ホワイト。それと同じように泰緬鉄道という言葉の意味するところも、二百字以内で要約可能な出来事に矮小化される。そして自分たちの世代だと、水野晴郎や高島忠夫の顔とともにあの口笛の旋律が喚起され、ウィリアム・ホールデンや早川雪洲の顔が思い浮かんでしまう。
けれども「戦場にかける橋」は余りに西部劇のようだし、「戦場のメリークリスマス」はオリジナルのガンダムのよう。どこかしら青臭い正義感や子供っぽい善悪の価値観に支配されているような気がして、クワイ河マーチや坂本龍一の音楽さえ耳障りなもののように思えたりもする。史実を語ることは容易ではないと理解しつつ、後年の価値観をべったり上塗りされたものを見せられるのは勘弁して欲しいとも思う。それは多分に自分自身の狭量さによる感情だとは認識しているけれど。
リチャード・フラナガンを読むのは「グールド魚類画帖」に続いて二冊目。自分でも意識してはいなかったが新しい翻訳が出ているのに気付きすっと惹き寄せられた。帯に泰緬鉄道にまつわる話であると書いてあったがタイトルの意味するところが気になって手に取る。はじめは一人のオーストラリア人捕虜経験者の少々人生に屈折した物語かと思わせるが、徐々にグールド魚類画帖を思い起こさせる文章が展開する。歴史は断片で語るのがよい。それ以上に適切なフォーマットは無いとも思う。
ここにあるのは価値観の破壊などという生易しいものではない。崩壊し、ばらばらになり、そして全てを手放すことを強制される巨大な力だ。価値観の喪失、その先で待ち受ける諦観。そしてそれと矛盾するような躍動感。今日一日を、日々を生きていくこと、詰まりは生への執着の圧倒。そんなぎりぎりの精神状態の中、自身の中に辛うじて残るもののおぞましさの発見。それが自分自身の腹の底に巣食っていたものであることを改めて知る恐怖。そんなものがフラナガンの書くものの本質であろうと思う。
熱帯特有の湿度、植生、泥、雨、疫病、腐敗。そんなものは、単なる上辺を取り繕う化粧に過ぎない。むしろ、戦地から生還し目の当たりにする清潔な現実に潜む倦怠に気付いてしまう無意識の欲望に似た感情。おぞましいと思いつつ、腹の底に巣食うものに惹かれる心。そんな人間の性を圧倒的な鮮明さでフラナガンは描き出す。湿潤な村上春樹。今のところリチャード・フラナガンは自分にとってそんな位置付けだ。 -
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主人公はドリゴ・エヴァンス。七十七歳、職業医師、オーストラリア人。第二次世界大戦に軍医として出征し、捕虜となるも生還して英雄となり、テレビその他で顔が売れ、今は地元の名士である。既婚、子ども二人。医師仲間の妻と不倫中。他人はどうあれ、ある時期以降の自分をドリゴは全く評価しない。戦争の英雄という役割を演じているだけだ。とっかえひっかえ女とつきあうが愛しているわけでも肉欲に駆られてのことでもない。アイデンティティ・クライシスから抜け出せないで歳をとってしまっただけだ。
きっかけは分かっている。戦争が二人の仲を裂いたのだ。婚約者のいる身で他人の妻、それも自分の叔父の妻と恋に落ちてしまった。それが叔父の知るところとなり、別れようという相手に、帰ったら結婚しようと電話で告げて出征した。戦争が終わり、帰還したドリゴは婚約者と結婚し、戦争の英雄とたたえられ、現在に至る。傍目にはめでたし、めでたしの人生だが、本人にとっては不本意の後半生だ。ではなぜ、ドリゴは約束を果たさなかったのか?
すべての小説は探偵小説であるといわれる。別に探偵が出てくるわけではない。読むことでしか解消できない疑問点をその中に含んでいるからだ。その謎を解こうと読者は本を読み続ける。そして結末に至り、そういうことだったか、と納得するのだ。だから、尻切れトンボに終わってしまう作品には不満を感じる。逆に伏線がうまく回収され、ひっかかっていた不自然さが自然なものに感じられるような作品は高く評価される。
『奥のほそ道』は、ドリゴ・エヴァンスという男の人生を、恋愛と戦争体験の二つの要素に基づいて描いている。そして、そこにはこんな立派な男がなぜ抜け殻のような後半生を送らねばならなかったのか、という謎を解くカギが隠されている。メロドラマ要素の強い恋愛悲劇も、悲惨を通り越してアパシーに陥ってしまいそうな捕虜生活を描いた部分も、それだけで充分読ませる力を持つのだが、その二つを通してドリゴを変容させたものが見えてくるように仕組まれている。
決して親切には書かれていない。最後まで読み通したらもう一度初めに戻って読み直すといい。最初あれほど読みづらかった部分が、面白いくらいすらすらと読めることに気づくはずだ。なぜなら、さして重要な人物とも思えない複数の人物のエピソードが、冒頭から何度も顔を出すが、これがカギなのだ。初読時は、その後出てこなくなるので重要視もせずに読み飛ばしてしまう。ところが、これが後で回収される伏線になっている。
あるいは、作中くどいくらいに何度も話題として取り上げられるのが、当時封切りされたばかりのヴィヴィアン・リーとロバート・テイラー共演の映画『哀愁』。有名な「オールド・ラング・ザイン」の曲を蝋燭が一本、また一本と消えていく中、映画をなぞるようにドリゴも恋人と踊る。これもカギだ。結婚を約束した女と兵士の仲を裂くのが男の出征という点がそのまま共通している。映画をよく知る読者には悲恋の暗示であることは自明である。
それだけなら、よくできた大時代的なメロドラマになってしまいそうなストーリーを基部で支えているのが、ドリゴが日本軍の捕虜となって泰緬鉄道の敷設のため、強制労働を課される部分である。この部分は、もともと軍曹として従軍し、捕虜となり泰緬鉄道工事に携わった作家の父が話して聞かせた事実に基づいている。無論、多くの資料を読み、現地に足を運んで調査して得た客観的な事実に作家の主観的な想像力を働かせた虚構である。しかし、その迫力たるや生半なものではない。
ハリウッド映画でお馴染みの男ばかりが共同生活する軍隊ならではの磊落なユーモアが陰惨な強制労働を描くタッチと絶妙な均衡を保っている。もし、この男たちのくだらないといえばくだらないやり取りがなかったら、どこに救いを求めればいいのだろう。食べる物も着る物もなく、支給された褌一丁の姿で、泥濘の中を徒歩で工事現場まで歩き、ハンマーと鉄棒で岩を砕く。栄養失調で肛門が突き出た男たちは、便所までもたず糞尿を垂れ流す。あのナチスの強制収容所でさえ雨風から身を護る建物があった。ここには何もない。
日本軍の将校たちでさえ「スピードー」と呼ばれるこの命令の不条理さは理解している。ただ、彼らはそれに背くことができない。この服従の仕方はもはやカルトでしかない。自分の認識力や理解力の上に天皇という上部構造を置いて、その命令を行使することがすべてという生き方を自ら選び取る形で受容する。不都合な部分は受け入れやすい形に変形していく。まるで今でいうフェイクのように。リチャード・フラナガンの筆は、まるで今の日本を見ているような気にさせる。
そのように受け入れがたい現実を自分に強いた兵たちは、戦後においても何ら戦中と変わらない価値観で生きてゆくことができる。あれほどの犠牲を強いた泰緬鉄道を走った蒸気機関車C5631号機が靖国神社に今も保存されている。犠牲者については何も触れてはいない。戦後日本は体面上は、戦前の価値観を否定した上に今の日本を築いたことになってはいるが、戦犯の孫が戦前の価値観を称揚し、憲法改正を訴えることについて異議を唱える人の方が少数派というのが現実だ。
新聞を読まない人々によって支えられている政党が多数の支持を得ているのだから、こんな小説など読む人の数は限られているに違いない。小説は声高に正義を唱えたりはしていない。それどころか、戦争という異常事態の中で自らを失った異なる国家に属する人民の一人一人に寄り添っているとさえいえる。もちろん、主人公はドリゴなのだが、活写される人物たちの内面が読者の中で生命を得て甦り、それぞれの人生を生き始める。読む者は彼らとともにこの救いようのない現実に直面し、ふと己の置かれている現在を見つめ直す。自分を失っているのはドリゴだけでないことに。 -
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著者リチャード・フラナガンはオーストラリア・タスマニアに生まれ育つ。
12年の歳月を掛けて書かれた本作は、「捕虜番号サンビャクサンジュウゴ(335)に捧」げられている。すなわち、日本軍の捕虜となり、泰緬鉄道建設に従事させられた著者の父アーチー・フラナガンである。
アーチーは幸運なことに生還したが、「死の鉄路」とも呼ばれる泰緬鉄道の建設は困難を極め、多くの死者を出した。タイ(泰)からビルマ(緬甸)、全長415キロの軍用鉄道。元々、難工事である上に、雨季に苦しめられ、疫病が蔓延した。無理やりな突貫工事に駆り出された捕虜約1万3千人、アジア人労務者推定数万人が死に至ったという。
父親や、著者自身をも投影したようである主人公、ドリゴは、外科医である。
物語は彼の人生を行きつ戻りつ追っていく。
幼少時代の家族との思い出。
青年期に出会った鮮烈な恋。
捕虜生活の過酷な体験。
除隊後のいささか冷ややかな妻との暮らし。
彼の人生の奥底には、いつでも「詩」がある。
テニスンやダンテを愛し、捕虜時代に俳句を知る。
重厚な物語は詩情を謳い、短詩は背後に物語を秘める。
赤い花を挿したかの人とたどれる未来はなかったのか。
痩せさらばえ、下痢に苦しめられる同胞をどうすればよかったのか。
年老い、「ひとかどの人物」となったドリゴだが、心の平安は訪れない。
戦争は終わっても、人生は続く。
収容所時代をドリゴとともにした者たちの人生も物語は追う。
ある者は戦争犯罪者として裁かれて死に、ある者は生体解剖事件に関与したものと知己となる。ある者は恋い焦がれた妻に裏切られる。
生還できた者たちが、生還できなかった者の思い出の店へと向かう。そこでの店主とのやりとりがしみじみと温かく哀しい。
ドリゴの人生を大きく変えたのは、1通の手紙だった。彼は、その手紙の中の嘘に気付かなかった。
人生とはままならぬ皮肉なものだ。北へと向かう細道のその先に待ち受けるのは地獄であるのかもしれない。けれども人は進むのだ。一歩ずつ。はかない愛を抱えながら。
「露の世は露の世ながらさりながら(一茶)」 -
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オーストラリア軍の軍医であったドリゴは、太平洋戦争中に日本軍の捕虜となりタイとビルマを結ぶ鉄道建設に従事させられる。その戦前、戦中、戦後を描いた作品。太平洋戦争を舞台とした小説や伝聞はこれまで主に日本人またはアジア各国の人々からのものが多かったように思う。本書は連合国側から見た日本兵の言動が綴られており、日本人では書きにくい内容も率直に述べられている。著者の父親が捕虜となり生還した経験から書き上げたとのこと。大戦を経験した方が高齢になっていくが、近年その子や孫世代が資料や伝聞をもとに本書のような物語を多く発刊しているような気がする。やはり当事者が思い起こしたり綴ったりするのは相当な苦痛を伴うだろうし恐らく多くの方はできない。当事者の周囲の方たちによってこのように文学で様々な角度から大戦を記憶に留め、一人一人が自分で考えて行動を決定し過ちを繰り返さず平和な日々が続いていくといいなと思う。
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ネタバレ普通に難しい笑
大学受験でこれが出てきたが嫌だなって思ったのと同時に読ませるべき内容でもあるように思える。広島原爆について是非を問うのは非常に難しい問題だ。私はアメリカを悪いとは思わない。日本が様々なことをやった結末であるし本書で言われてた通りもっと大きな被害が起こるかも知れなかったからだ。科学が政治家よりも偉いというのは面白い発想だと思った。確かに昔の哲学者も科学者が多いし、もし科学者の道徳がなければいつでもこの地球は滅びしてしまうだろう。
科学者ではなく芸術家の方が未来を見ることがあるというのも興味深かった。現代では様々な漫画やアニメなどSF関係のものが沢山出ているがおそらくいくつかは本当に実現してしまうし、過去同様実現せるような人物を生み出してしまうのだろう。
第七問といいながらも私たち人間に数えきれない質問を問う作品だった。 -
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泰緬鉄道の建設に捕虜として動員されたオーストラリア兵たちの惨状。第二次大戦中の軍の蛮行というのは、国、場所を問わずだが、それでも日本人として恥じることは多いし、そもそも人の尊厳を顧みることができないような状況を作ってしまう戦争そのものの悪性を考えることも多い。この小説はその悪性、惨状を伝えることのみにとどまらず、被害、加害の枠組みを超えて、自分の意思とは無関係に戦争に巻き込まれた人間たちの、“心の惨状”が描かれている。
オーストラリア側では、過酷な捕虜生活を生き抜いた医師が、ボタンの掛け違いのような不毛な結婚生活に自己嫌悪、戦地での過酷さと戦後の日常の落差に心の均衡を失い、口を閉ざす。日本側でも、多くの敵兵捕虜を死に追いやった兵士が自分の行為を振り返るも、天皇陛下のため、祖国のためという大義にしがみつき、死の間際まで、自分が生きた意味を見出せない。
時や場所を行き来しつつ描かれる人々の内心は、善悪を越えて生々しく、あまりに重い内容で読み進むのにかなり時間がかかったが、この大作がなぜ戦争小説の最高傑作と評価されているのかが、全身に沁みわたっていくような読書時間だった。 -
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オーストラリア小説を読みたいと思って選んだので、泰緬鉄道の話だとは知らずに読み始めた。恥ずかしながら泰緬鉄道と捕虜の強制労働のことはこの作品で初めて知った。
過酷な戦中の体験はもちろん、戦後の日本のこと、そして戦争が忘れられ、記憶が上書きされ、人々の心の中に残した痕跡までが、鮮やかに描かれる。
主人公のドリゴやオーストラリア人捕虜、日本人兵士の視点で語られる物語を読んでいると、なぜこの戦争の泥沼から誰も逃れられなかったのか、少しわかった気がする。
文句があるとしたら、ドリゴが(特に男性的視点で?)かっこよすぎることくらいか。優しく、勇気があって、繊細で、影があって、男にも女にもモテて、最後は火の中を命をかけて家族を救いにいくって、なんか出来すぎ設定では?と、ひねくれ読者の私は思ってしまいました笑
テーマがテーマなので仕方ないけど、女性はあまり主体として出てこない作品です。
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第二次大戦中日本軍のオーストラリア人捕虜として過酷な生活を送った著者の父親の実体験をベースに書かれた小説。
軍医として従軍し、日本軍の捕虜となって泰緬鉄道の建設部隊に配置された主人公の回想形式。
タイトルはもちろん松尾芭蕉の著作から引かれたもので、本作にもところどころで俳句が登場する。
重い。
第二次大戦中の日本軍捕虜を描いた作品としては『戦場にかける橋』『戦場のメリークリスマス』、或いは戦争の悲惨さを描いた作品では『西部戦線異状なし』『ジョニーは戦場へ行った』(いずれも第一次大戦だが)などを読んだり観たりしてきたが、レベルが違う。
究極まで地に堕ちた衛生状態、その中で押し付けられる理不尽、あまりに軽く無造作に失われていく生命…しかもその「加害者」が日本人であるということから受ける重苦しさ。
いや、重苦しさなどという表現も適切ではないかもしれない。
人間という生き物が極限状態に置かれた時に、どのようになってしまうのか、そのリアリティがただ哀しく、そして深刻に響いてくる。
終戦後、故国に帰還したオーストラリア兵士、そして日本軍の上官のその後も描かれるが、本書に糾弾のトーンは窺えない。
ただただフラットなのだ。
だからこそ重く、静かで、厳粛。
その感覚が、芭蕉に回帰する。