あらすじ
ブッカー賞受賞!「傑作のなかの傑作」と絶賛
過酷な〈死の鉄道〉建設と、ある女性への思い
1943年、タスマニア出身のドリゴは、オーストラリア軍の軍医として太平洋戦争に従軍するが、日本軍の捕虜となり、タイとビルマを結ぶ「泰緬鉄道」(「死の鉄路」)建設の過酷な重労働につく。そこへ一通の手紙が届き、すべてが変わってしまう……。
本書は、ドリゴの戦前・戦中・戦後の生涯を中心に、俳句を吟じ斬首する日本人将校たち、泥の海を這う骨と皮ばかりのオーストラリア人捕虜たち、戦争で人生の歯車を狂わされた者たち……かれらの生き様を鮮烈に描き、2014年度ブッカー賞を受賞した長篇だ。
作家は、「泰緬鉄道」から生還した父親の捕虜経験を題材にして、12年の歳月をかけて書き上げたという。東西の詩人の言葉を刻みながら、人間性の複雑さ、戦争や世界の多層性を織り上げていく。時と場所を交差させ、登場人物の心情を丹念にたどり、読者の胸に強く迫ってくる。
「戦争小説の最高傑作。コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』以来、こんなに心揺さぶられた作品はない」(『ワシントン・ポスト』)と、世界の主要メディアも「傑作のなかの傑作」と激賞している。
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Posted by ブクログ
凄まじい本だった。圧倒的。まず描写力がすごい。体験した本人しか書けないんじゃないかと思うような、各人の具体的な感触、思考の流れ、感情。臨場感ありすぎ。
物語の構成も凄い。語られていく断片が徐々にパズルのピースのように埋められていき全貌を露わにし新たな意味を表す。
父親の経験を基に12年をかけて書かれた本。この本には血肉があり、何人もの個人的な叫び、痛み、疑問があり、人類全体の持つ闇、結局のところ暴力とは何なのか、人が人を虐げ続けることとは何なのか、という恐怖や絶望もある。
そして欺瞞や、一つの嘘が人間を壊してしまうということも。
これからもこの本に書かれている一つ一つの文章について考える必要があると思った。
Posted by ブクログ
凄い深みのある作品。
感想もさらっと出てこない。
前半、場面や時間があちこちに移るので読むのに苦労するが、後半それが繋がりだすと俄然物語に引き込まれていく。読み終わると再度前半を読み返して理解を深めていくことになる。
戦争の虚しさ、残酷さは他の無数の作品で語り尽くされてはいるが、著者は声高らかに戦争の反対を訴えるわけでもなく、日本軍の残虐行為を非難するわけでもなく、虐待する側、される側双方の戦前、戦後の人生を描いていく。
著者は相当日本文化を研究したんだと思う。
日本の俳句を絡めて極めて興味深い作品になっています。
Posted by ブクログ
第二次大戦中、ミャンマーとタイを結ぶ鉄道いわゆる泰緬鉄道の建設に捕虜として従事することになったオーストラリア人医師の人生の物語。その医師の視点だけでなく、他の登場人物の視点からも、また作者の俯瞰的な視点からも物語は描かれる。作者の成就しない恋愛を第1軸、鉄道建設を第2軸、時間軸を第3軸として物語は重層的に展開する。
戦時下の行動を決して善悪の二項対立では評価できないということが繰り返し表現される。
日本人の行動が戯画化されているような印象があるが、これは仕方がないのだろう。
著者リチャードフラナガンの父親が実際に捕虜として鉄道建設に従事し、その体験談をもとに様々な取材をし、12年かけて書き上げたという労作。
さすがはブッカー賞受賞作。最初の章は話があちらこちらに飛び読みにくいがそれは最初の100ページほどなので
そこだけ頑張りましょう。読んで損はなし。
Posted by ブクログ
『彼らはそういったことを考えていたのではない。そういうものだと知っていたのだ』
歴史上の出来事を一つの記号に集約させる。例えば、大化の改新とか、応仁の乱とか、関ヶ原の戦いとか。するとあたかもその様な結果になったのは全て必然であったという錯覚に陥る。それどころか、複雑な要素は至極単純な因果関係に収斂し数学の公式と同じような記憶の対象となってしまう。勧善懲悪。ブラック・アンド・ホワイト。それと同じように泰緬鉄道という言葉の意味するところも、二百字以内で要約可能な出来事に矮小化される。そして自分たちの世代だと、水野晴郎や高島忠夫の顔とともにあの口笛の旋律が喚起され、ウィリアム・ホールデンや早川雪洲の顔が思い浮かんでしまう。
けれども「戦場にかける橋」は余りに西部劇のようだし、「戦場のメリークリスマス」はオリジナルのガンダムのよう。どこかしら青臭い正義感や子供っぽい善悪の価値観に支配されているような気がして、クワイ河マーチや坂本龍一の音楽さえ耳障りなもののように思えたりもする。史実を語ることは容易ではないと理解しつつ、後年の価値観をべったり上塗りされたものを見せられるのは勘弁して欲しいとも思う。それは多分に自分自身の狭量さによる感情だとは認識しているけれど。
リチャード・フラナガンを読むのは「グールド魚類画帖」に続いて二冊目。自分でも意識してはいなかったが新しい翻訳が出ているのに気付きすっと惹き寄せられた。帯に泰緬鉄道にまつわる話であると書いてあったがタイトルの意味するところが気になって手に取る。はじめは一人のオーストラリア人捕虜経験者の少々人生に屈折した物語かと思わせるが、徐々にグールド魚類画帖を思い起こさせる文章が展開する。歴史は断片で語るのがよい。それ以上に適切なフォーマットは無いとも思う。
ここにあるのは価値観の破壊などという生易しいものではない。崩壊し、ばらばらになり、そして全てを手放すことを強制される巨大な力だ。価値観の喪失、その先で待ち受ける諦観。そしてそれと矛盾するような躍動感。今日一日を、日々を生きていくこと、詰まりは生への執着の圧倒。そんなぎりぎりの精神状態の中、自身の中に辛うじて残るもののおぞましさの発見。それが自分自身の腹の底に巣食っていたものであることを改めて知る恐怖。そんなものがフラナガンの書くものの本質であろうと思う。
熱帯特有の湿度、植生、泥、雨、疫病、腐敗。そんなものは、単なる上辺を取り繕う化粧に過ぎない。むしろ、戦地から生還し目の当たりにする清潔な現実に潜む倦怠に気付いてしまう無意識の欲望に似た感情。おぞましいと思いつつ、腹の底に巣食うものに惹かれる心。そんな人間の性を圧倒的な鮮明さでフラナガンは描き出す。湿潤な村上春樹。今のところリチャード・フラナガンは自分にとってそんな位置付けだ。
Posted by ブクログ
主人公はドリゴ・エヴァンス。七十七歳、職業医師、オーストラリア人。第二次世界大戦に軍医として出征し、捕虜となるも生還して英雄となり、テレビその他で顔が売れ、今は地元の名士である。既婚、子ども二人。医師仲間の妻と不倫中。他人はどうあれ、ある時期以降の自分をドリゴは全く評価しない。戦争の英雄という役割を演じているだけだ。とっかえひっかえ女とつきあうが愛しているわけでも肉欲に駆られてのことでもない。アイデンティティ・クライシスから抜け出せないで歳をとってしまっただけだ。
きっかけは分かっている。戦争が二人の仲を裂いたのだ。婚約者のいる身で他人の妻、それも自分の叔父の妻と恋に落ちてしまった。それが叔父の知るところとなり、別れようという相手に、帰ったら結婚しようと電話で告げて出征した。戦争が終わり、帰還したドリゴは婚約者と結婚し、戦争の英雄とたたえられ、現在に至る。傍目にはめでたし、めでたしの人生だが、本人にとっては不本意の後半生だ。ではなぜ、ドリゴは約束を果たさなかったのか?
すべての小説は探偵小説であるといわれる。別に探偵が出てくるわけではない。読むことでしか解消できない疑問点をその中に含んでいるからだ。その謎を解こうと読者は本を読み続ける。そして結末に至り、そういうことだったか、と納得するのだ。だから、尻切れトンボに終わってしまう作品には不満を感じる。逆に伏線がうまく回収され、ひっかかっていた不自然さが自然なものに感じられるような作品は高く評価される。
『奥のほそ道』は、ドリゴ・エヴァンスという男の人生を、恋愛と戦争体験の二つの要素に基づいて描いている。そして、そこにはこんな立派な男がなぜ抜け殻のような後半生を送らねばならなかったのか、という謎を解くカギが隠されている。メロドラマ要素の強い恋愛悲劇も、悲惨を通り越してアパシーに陥ってしまいそうな捕虜生活を描いた部分も、それだけで充分読ませる力を持つのだが、その二つを通してドリゴを変容させたものが見えてくるように仕組まれている。
決して親切には書かれていない。最後まで読み通したらもう一度初めに戻って読み直すといい。最初あれほど読みづらかった部分が、面白いくらいすらすらと読めることに気づくはずだ。なぜなら、さして重要な人物とも思えない複数の人物のエピソードが、冒頭から何度も顔を出すが、これがカギなのだ。初読時は、その後出てこなくなるので重要視もせずに読み飛ばしてしまう。ところが、これが後で回収される伏線になっている。
あるいは、作中くどいくらいに何度も話題として取り上げられるのが、当時封切りされたばかりのヴィヴィアン・リーとロバート・テイラー共演の映画『哀愁』。有名な「オールド・ラング・ザイン」の曲を蝋燭が一本、また一本と消えていく中、映画をなぞるようにドリゴも恋人と踊る。これもカギだ。結婚を約束した女と兵士の仲を裂くのが男の出征という点がそのまま共通している。映画をよく知る読者には悲恋の暗示であることは自明である。
それだけなら、よくできた大時代的なメロドラマになってしまいそうなストーリーを基部で支えているのが、ドリゴが日本軍の捕虜となって泰緬鉄道の敷設のため、強制労働を課される部分である。この部分は、もともと軍曹として従軍し、捕虜となり泰緬鉄道工事に携わった作家の父が話して聞かせた事実に基づいている。無論、多くの資料を読み、現地に足を運んで調査して得た客観的な事実に作家の主観的な想像力を働かせた虚構である。しかし、その迫力たるや生半なものではない。
ハリウッド映画でお馴染みの男ばかりが共同生活する軍隊ならではの磊落なユーモアが陰惨な強制労働を描くタッチと絶妙な均衡を保っている。もし、この男たちのくだらないといえばくだらないやり取りがなかったら、どこに救いを求めればいいのだろう。食べる物も着る物もなく、支給された褌一丁の姿で、泥濘の中を徒歩で工事現場まで歩き、ハンマーと鉄棒で岩を砕く。栄養失調で肛門が突き出た男たちは、便所までもたず糞尿を垂れ流す。あのナチスの強制収容所でさえ雨風から身を護る建物があった。ここには何もない。
日本軍の将校たちでさえ「スピードー」と呼ばれるこの命令の不条理さは理解している。ただ、彼らはそれに背くことができない。この服従の仕方はもはやカルトでしかない。自分の認識力や理解力の上に天皇という上部構造を置いて、その命令を行使することがすべてという生き方を自ら選び取る形で受容する。不都合な部分は受け入れやすい形に変形していく。まるで今でいうフェイクのように。リチャード・フラナガンの筆は、まるで今の日本を見ているような気にさせる。
そのように受け入れがたい現実を自分に強いた兵たちは、戦後においても何ら戦中と変わらない価値観で生きてゆくことができる。あれほどの犠牲を強いた泰緬鉄道を走った蒸気機関車C5631号機が靖国神社に今も保存されている。犠牲者については何も触れてはいない。戦後日本は体面上は、戦前の価値観を否定した上に今の日本を築いたことになってはいるが、戦犯の孫が戦前の価値観を称揚し、憲法改正を訴えることについて異議を唱える人の方が少数派というのが現実だ。
新聞を読まない人々によって支えられている政党が多数の支持を得ているのだから、こんな小説など読む人の数は限られているに違いない。小説は声高に正義を唱えたりはしていない。それどころか、戦争という異常事態の中で自らを失った異なる国家に属する人民の一人一人に寄り添っているとさえいえる。もちろん、主人公はドリゴなのだが、活写される人物たちの内面が読者の中で生命を得て甦り、それぞれの人生を生き始める。読む者は彼らとともにこの救いようのない現実に直面し、ふと己の置かれている現在を見つめ直す。自分を失っているのはドリゴだけでないことに。
Posted by ブクログ
泰緬鉄道の建設に捕虜として動員されたオーストラリア兵たちの惨状。第二次大戦中の軍の蛮行というのは、国、場所を問わずだが、それでも日本人として恥じることは多いし、そもそも人の尊厳を顧みることができないような状況を作ってしまう戦争そのものの悪性を考えることも多い。この小説はその悪性、惨状を伝えることのみにとどまらず、被害、加害の枠組みを超えて、自分の意思とは無関係に戦争に巻き込まれた人間たちの、“心の惨状”が描かれている。
オーストラリア側では、過酷な捕虜生活を生き抜いた医師が、ボタンの掛け違いのような不毛な結婚生活に自己嫌悪、戦地での過酷さと戦後の日常の落差に心の均衡を失い、口を閉ざす。日本側でも、多くの敵兵捕虜を死に追いやった兵士が自分の行為を振り返るも、天皇陛下のため、祖国のためという大義にしがみつき、死の間際まで、自分が生きた意味を見出せない。
時や場所を行き来しつつ描かれる人々の内心は、善悪を越えて生々しく、あまりに重い内容で読み進むのにかなり時間がかかったが、この大作がなぜ戦争小説の最高傑作と評価されているのかが、全身に沁みわたっていくような読書時間だった。
Posted by ブクログ
オーストラリア小説を読みたいと思って選んだので、泰緬鉄道の話だとは知らずに読み始めた。恥ずかしながら泰緬鉄道と捕虜の強制労働のことはこの作品で初めて知った。
過酷な戦中の体験はもちろん、戦後の日本のこと、そして戦争が忘れられ、記憶が上書きされ、人々の心の中に残した痕跡までが、鮮やかに描かれる。
主人公のドリゴやオーストラリア人捕虜、日本人兵士の視点で語られる物語を読んでいると、なぜこの戦争の泥沼から誰も逃れられなかったのか、少しわかった気がする。
文句があるとしたら、ドリゴが(特に男性的視点で?)かっこよすぎることくらいか。優しく、勇気があって、繊細で、影があって、男にも女にもモテて、最後は火の中を命をかけて家族を救いにいくって、なんか出来すぎ設定では?と、ひねくれ読者の私は思ってしまいました笑
テーマがテーマなので仕方ないけど、女性はあまり主体として出てこない作品です。
Posted by ブクログ
第二次大戦中日本軍のオーストラリア人捕虜として過酷な生活を送った著者の父親の実体験をベースに書かれた小説。
軍医として従軍し、日本軍の捕虜となって泰緬鉄道の建設部隊に配置された主人公の回想形式。
タイトルはもちろん松尾芭蕉の著作から引かれたもので、本作にもところどころで俳句が登場する。
重い。
第二次大戦中の日本軍捕虜を描いた作品としては『戦場にかける橋』『戦場のメリークリスマス』、或いは戦争の悲惨さを描いた作品では『西部戦線異状なし』『ジョニーは戦場へ行った』(いずれも第一次大戦だが)などを読んだり観たりしてきたが、レベルが違う。
究極まで地に堕ちた衛生状態、その中で押し付けられる理不尽、あまりに軽く無造作に失われていく生命…しかもその「加害者」が日本人であるということから受ける重苦しさ。
いや、重苦しさなどという表現も適切ではないかもしれない。
人間という生き物が極限状態に置かれた時に、どのようになってしまうのか、そのリアリティがただ哀しく、そして深刻に響いてくる。
終戦後、故国に帰還したオーストラリア兵士、そして日本軍の上官のその後も描かれるが、本書に糾弾のトーンは窺えない。
ただただフラットなのだ。
だからこそ重く、静かで、厳粛。
その感覚が、芭蕉に回帰する。