2016年7月26日未明、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、障害者19人が殺害され、27人が負傷するという事件が発生した。犯人の植松聖が同園の元職員であったことや優生思想的な発言から、マスコミは一時騒然となった。
あれから二年が経過した現時点での事件の風化もさることながら、当時
...続きを読むからこの事件に対してはだれもが腫れ物に触るような、あまり話題にしたくないという雰囲気が濃厚であった。一般人は一様に口を閉ざし、マスコミにしても全否定の一点張りで、生産的な議論はほとんどなかったと記憶している。それというのもこの事件からは、何か自分の陰部を見せられるような、他人事として割り切れない「不都合な真実」が顔をのぞかせていたからではなかったか。
「差別はいけない」とわれわれはだれもが口にする。その言葉におそらく嘘はない。しかしその言葉とは裏腹に、われわれは常に差別をしている。全ての人間を同じように愛することなど不可能である。植松聖の行為は、そんなわれわれの後ろめたさ、やましさに突き刺さるものではなかったか。
もちろん「いけないと分かっていながら差別してしまう」からといって「差別をしてもいい」ことにはならないし、ましてや「殺してもいい」ことにはならない。それは確かにそうなのだが、われわれがあの事件に対し居心地の悪さを感じてしまうのは、「犯人を断罪する資格が果たして自分にあるのか」という根源的負い目、原罪と言ってもいい罪悪感を突きつけられるからではあるまいか。
本書が出版されたとき、一部のマスコミや読者からは「時期尚早だ」「不謹慎だ」などという声が上がり、不買運動も起こった。凶悪な犯罪者の言葉を活字にすること自体が問題だというのである。しかしそれは事件の封印でしかないし、表現の自由にも反する。それに読んでみれば分かるが、本書における植松聖の主張部分はごくごく一部にすぎず、大半は彼の言動を識者が冷静かつ客観的に分析する内容となっている。煽動的とは程遠い極めて真面目な本なのに、中身をろくに読むこともなしに本書の出版自体に反対した読者たちもまた、この本が鏡となって自分の醜い姿を見ることにおびえていただけではなかっただろうか。
事件を起こす前に植松が衆院議長公邸を訪れ犯罪予告状を渡した時点で、植松を措置入院させてしまったことが、逆にこの事件の引き金になったのではないかという精神科医斎藤環氏の指摘が興味深かった。世間は麻薬のせいだとか狂っているとか言って犯人を隔絶しようとするかも知れないが、それでは植松が主張した差別的思想を受け入れることになってしまうだろう。おぞましい事件ではあるが、本書をきっかけにより多くの建設的議論がなされることを望む。