本書は『ちくま大学』の社会人向け講座「ヒト遺伝子の謎に迫る - チンギス・ハンの秘密」という講座から再構成して書籍化したものだという。もし、行くことができたのであればぜひ受けてみたかった魅力的な講座である。
まず最初に、遺伝子・染色体・DNA・ゲノムを区別することはとても重要であるが、多くの場合に
...続きを読むは混同されて使用されていると指摘する。自分も区別できていなかったので、ここに記しておきたい。
・遺伝子: 遺伝情報の「最小単位」。
・染色体: DNAがヒストンタンパク質に絡まりつきながら折り畳まれた「構造体」。
・DNA: デオキシリボ核酸という遺伝情報を載せた「物質」。
・ゲノム: ある生物がその生物体で得るに必要な遺伝情報の「総体」。遺伝子情報そのものを含むがそれ以上のもの。
例えば、「ヒトゲノム」とは、ヒトという生物がヒトという生物に足り得るに必要な遺伝情報と言える。
同様に、著者は「人類の起源」と「ヒトの起源」についても定義が異なっているとこだわる(「人類」にはアウストラロピテクスなど化石人類も含まれる)。「人類の起源」は600~700万年前、「ヒトの起源」は10~20万年前になり、定義により大きな差が生まれる。こういうところをないがしろにしないのは非常に好感が持てる。
また「対立遺伝子」が誤解を生む用語であるとして、「アレル」という用語をこういった一般向けの本でもその理由を明示して使うところも同じように信頼がおける。
ちなみにヒトゲノムに含まれる塩基対は35億対ある。これは情報量でいうと3.5GBにあたりDVD 1枚にすっぽり収まる量の情報だ。これに対して、ヒトの遺伝子の数というのは2万5千個しかない。絶対値としても非常に少ない情報量であり、多くの塩基対の中で遺伝子は非常に稀にしか存在していないということになる。またその数自体、多くの科学者の予想を大きく下回ったものであり、他の生物のそれに比べても決してずば抜けて多いものではない。例えばショウジョウバエや線虫などでも遺伝子の数は二万個程度になる。生命というのは人間の観点で高度と言われるものも含めて非常に少ない遺伝子の組み合わせで効率よく実現されているのだ。また、よく言われるヒトとチンパンジーのゲノムの違いは1.2%しかない、というのはゲノムの塩基配列で比較可能な場所を比較するとこの程度の違いしかない、ということである。
ホモ・サピエンス同士のゲノムのバリエーションが、チンパンジーのそれと比べて非常に小さいこともヒトゲノムの特質として挙げられる。アフリカ人と日本人のゲノムの違い(平均して0.2%以下)はアフリカのAという森とBという森に住んでいるチンパンジーの違いよりもはるかに小さいことがわかっている。これは、非常に小さな集団から現在のヒトが拡がっていったことを示している。
このゲノムを産んだ人類の起源は、今ではよくわかっていると言ってもいいと思う。まだまだ謎は多いが、少なくとも平成が始まった30年ほど前と比べるとその理解は大きく進んだ。本書にも書かれているように、ホモ・エレクトスが約170万~70万年前に一度アフリカを出て、各地に拡がり、ネアンデルタール人やデニソワ人としてその足跡を残したが、その後いったん絶滅した。その後、現在のホモ・サピエンスは7万年~6万年前にアフリカを出て世界各地に拡散していった。いわゆるアフリカ単一起源説で、ミトコンドリアのイブやY染色体の分析から有名になり、現在ではこの説が定説となっている。このようにホモ・サピエンスが分かれた時期が比較的最近のことであることからチンパンジーなどと比較したヒトのゲノムのバリエーションの少なさが説明できる。最近では古代人の遺伝子解析を通じて、二回の出アフリカと現生人類とネアンデルタール人やデニソワ人との混血などの過去のディテールの詳細がわかってきている。
本書の特長を挙げるとすると、新書であるにも関わらず系統樹の導出などについて統計的なテクニックを詳しく解説しているところになる。細かい数式などは出てこないが、同分野の研究における日本人の貢献も含めて比較的細かいエピソードまで拾っている。有名なスバンテ・ペーボの手によるネアンデルタール人と現生人類が混血していたという証拠についても比較的丁寧に論理的な説明がされている。なお、著者はスバンテ・ペーボがリーダーシップを取っているマックス・プランク進化人類学研究所で研究を行った経験を有している。そこでは、本書でも紹介されている性別で異なる移動パターンが与える遺伝子頻度への影響を研究していた。この辺りの研究は、インドのカースト制度と遺伝子頻度の関係が有名で、記録がない過去の人類史が分かるところもあり興味深い。日本の琉球諸島民、本土日本人、アイヌ人などの遺伝子を比較することで有史以前の日本人の起源を想像することもできる。
もうひとつ特長を挙げるとすると、木村資生が提唱した、分子進化の中立説への強い支持だろう。多くの人が、遺伝子頻度の変化を突然変異と自然淘汰によるもの(ダーウィンの自然選択説)と考えているが、その説明が当てはまる遺伝子頻度の増加はごく一部であり、多くの遺伝子変異が拡散するのはその遺伝子が実現する機能(表現型)とは中立であるというものである。中立説とはつまり、変異のほとんどは生存に有利でも不利でもない中立な変異で、有利な変異はその中のごく一部であるというものである。これはDNAのデータ解析によっても、その正当性が認められているものであるという。著者はこのことから、「進化は進歩ではない」という。進化とは、「生物集団内で、世代を超えて遺伝子頻度が変動する連続過程」だという。そして、遺伝子頻度を変化させる要因が「遺伝的浮動」というものである。中立変異はそのはじめはマイノリティであり、いつか消えてしまう確率が高い。しかし、特に集団のサイズが小さいとき、遺伝的浮動、つまり偶然の結果による遺伝子頻度の増加が起きやすい。これはボトルネック効果と呼ばれ、たとえばアメリカ大陸でO型の人の頻度が多いのは、北極圏を渡ってたどり着いた集団の数が少なくボトルネック効果が発生した典型的な例だと考えられている。
また、中立的な変異が頻度を増す場合は、その速度は緩い。その性質のおかげで生物種間の分岐からの年代などを推測することができる。これと比べて古典的な有利な変異が自然選択で頻度を増やす場合はおそらくは急速にその頻度を増やすはずだ。有利に働く遺伝子としては、ラクトース分解酵素の遺伝子、アルコール分解酵素に関連する遺伝子、鎌形赤血球を起こすがアラリア耐性を強くする遺伝子などが考えられるが、もしかしたらその地域において急速に拡散したのかもしれない。チンギス・ハン由来の遺伝子の拡散についても書かれているが、これは文化が遺伝子頻度に大きな影響を与える事例である。
多くの情報はこれまで読んだ書籍に書かれていた内容だったのだが、丁寧で良質な説明とおかげで改めての頭の整理にもなり、この分野への入門書としても推奨できる良書である。