忠平美幸のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
2019年にSlate誌「この四半世紀の最も優れたノンフィクション50作」に選ばれた作品。初出は1997年で、15年後の改訂版を日本語訳したもの。
長距離フライトの往復で読み切った。初めて飛行機の中の時間が速く過ぎたと感じた。
モン族という現在のラオスやタイ、ベトナムの山岳地帯を起点とする家族と、その家族の一人である「患者」を診る米国の医療者たちの関係が中心に描かれる。読み終わった後には、立場の違いなく、様々な登場人物に畏敬の念を抱いた。
モン族の生活や背景、歴史事情、医療行為など、高度で入り組んだ理解が必要なテーマがいくつも折り重なっているのに、ほとんどの前知識を必要とせずにこの本を読むことができる(もちろん、事前に知っていることが多いほど理解できることは多いはずであるが、この本を読み通したり、面白いと思うためには前情報は必要ない)。それは、筆者が多くの背景を省略しており「かいつまんで描く」ことが上手であるためではない。むしろその逆で、例えばこの本では欠かすことのできないベトナム戦争(とモン族の関わり)について多くの部分を割いて説明している。それなのに、驚くほど読みやすいし、洗練されている。とはいえ、話は入り組んでいるし、長い時間と多くの登場人物を追いかけたノンフィクションなので、ページ数は多い。この分厚さと内容の割に読みやすく感じるのは、この筆者の持つユーモアのセンスだと思う。決して明るい話ではないのに、言葉選びと構成のおかげで時折くすっと笑ってしまうようなエピソードがたくさんある。
最後に、この本を母語で読めることに感謝したい。いくら読みやすいと言っても、英語ではなかなか理解しがたかったと思う。色々な人の手に渡ってほしいと思える作品だった。 -
Posted by ブクログ
「サードプレイス」という言葉自体はよく聞きますが、自分の職場と家庭から離れて過ごすことができるという位置付けで捉えていました。
この本における、「サードプレイス」とは、単なる場所のことではなく、そこに集まった人たちが、互いに会話をしたり、意見を言い合ったりするコミュニケーションの場であって、すなわち全てのカフェや居酒屋がサードプレイスではないということでした。
こうした「サードプレイス」はこの本が書かれている当時でも減っていると嘆かれておりましたが、コロナ禍においては、もはや壊滅状態なのかもしれません。
もちろん、場としてのサードプレイスはZoomやTeamsなどのオンラインにあるのかもしれませんが、そこは一定の閉鎖性があり、必ずしもふらっと立ち寄ることができるものではないのが現実です。
ついでに何となくではなく、話すことそれ自体が目的となってしまうオンラインの場では、もはや「サードプレイス」的な、分野も異なる知らない人同士が偶然集まるということは、不可能ではないにしても以前よりも難しくなってきているのかもしれません。
よいコミュニティ、悪いコミュニティという基準はありませんが、今いる場から別の場へ移動する手段、それも自分の好きなことばかり集まったフィルターバブルではなく、本当の意味での多様性を受け入れる場所。そうした場所が減りつつある今が、果たして正しいのかどうか。そうしたことを考えるきっかけになるいい本だと思います。 -
Posted by ブクログ
とてもおもしろかった。前のめりで読んだ。
最新刊、と思って読んでいたけど、これは「15周年記念版」の訳で、最初に出版されたのは、1997年なんですね。
帰化や難民受け入れについては、ずっとほぼ鎖国の日本ではまだまだ実感すら追いついていないテーマなんですが、アメリカではもうおなじみのテーマなんだろうか。それとも、やっぱりアメリカでもまだまだなんだろうか。そんな疑問を感じながら読んだ。
でもたぶん、こういうのはどこの地でもどの歴史でもどの民族にとっても、きっと永遠にいつまでも新しいテーマであり続けるんだろうな。
しかし、異文化受け入れに対して、自分は柔軟な方・・・と思いたいのはやまやまだが、この本を読んでいると「いや・・・モン族、私には無理かも・・・」などと大変に失礼なことを早々に思ってしまった。
駐車場でブタの生贄の儀式するとか、想像しただけで、ひぃぃぃぃ!
しかもリアのおうちの場合、何気なく読んでいたら場合によっては一カ月に1回くらいの頻度でその儀式をしている様子。
もし私が隣人だったら、私は露骨に嫌わないで理解を示せるだろうか。
示せる、と信じたいけど、正直分からない。引っ越すかも・・・
この本に登場する医師たちには心底同情した。
医師にもいろんなタイプの人がいて、異文化(モン族の患者たち)に対し、彼らの様々なリアクションが紹介されていたが、たとえ結果として間違ったふるまいをしていたとしても、彼らを責めることなんてとてもできないと思った。
モン族が手首に巻いている紐を問答無用で切るのはさすがに必要ないんじゃない?とは思ったが、「ダが魂を盗んだから」とか言う話などは、私が医師だったら、緊急時に最後まで腹を立てずに冷静に耳を傾けることはできないような気がする。
考えてみれば、異文化と言っても、アラビア数字くらいは分かるだろう、とつい思ってしまうので、数字も読めない人たちとの医療的なコミュニケーションは、今でもやっぱり難しいだろうな。異文化衝突についての理解が当時よりも進んでいる今でも。
だけど、リアがイキイキつやつやとして30歳まで生きたことは無視していい事実ではないと思う。つまり、常に片方だけが間違っているということはないはず。
リアが長生きしたことの裏に家族の献身(犠牲、と見る人もいるしれない)があることも無視できないが。
以上はさておき、モン族の歴史、CIAとのかかわり、長い旅路の記録は、非常に興味深かった。
しかし、CIAって、この手のエピソードが次から次へと無尽蔵に出てきますなぁ・・・。
モン族の人たちが、この歴史的事実を伝えるよう尽力しているのはもっともな話だと思った。
後日追記---------------
NHKの映像の世紀の新シリーズ「バタフライ・エフェクト」の「ひとつの友情がアメリカを変えた」の回を見ていたら、アメリカのとある新聞社社長が、日系移民を評して書いた言葉が引用されていた。(たぶん戦前の言葉?)
「日系人はすべての民族の中で最も同化しにくく危険な存在である。自分の民族に強い誇りを持つ彼らは融合するという考えをまったく持ち合わせていない」
思わず笑ってしまった。
この本のモン族と同じようなことを言われている・・・。(もっとひどい?)
つまり、程度がどうあろうと、どんな文化だろうと、受け入れる側にとっては、異質なものはみんなつまりは等しくひどい厄介者だってことですね。
きっと移民第一世代がある種の踏み台になるのは避けられない宿命なのかなぁ、と思った。そうした世代の必死の試行錯誤ともがきを経て、彼らの子供、孫の代で少しずつ融合していくのかな。
こういうのは古くて新しいテーマの一つで、きっと紀元前からずっとそこにある問題なんだろうと思う。
しかし、バタフライ・エフェクトのシリーズ、分かりやすくてキャッチ―でおもしろい。
この友情の回は、ダニエル・イノウエがかっこよくてクラクラした。落ち着いた物腰が素敵すぎた。 -
Posted by ブクログ
ネタバレアメリカにはラオスやベトナム、タイ北部に住むモン族が難民となって住んでいる。
モン族は中国では苗(ミャオ)族として知られる山岳民族である。無文字で、山地で農業、狩猟をして暮らしている。
家も自分達で建てる。薬草で病気を治療する。
そして精霊信仰をしており、生活の節々で精霊が顔をだす。
この本はアメリカに亡命したばかりのモン族の夫妻に子供がうまれ、その何番目かの娘がてんかんの症状を発症しアメリカの病院に運ばれ、治療、退院を繰り返すなかで不可避的におこった文化の衝突のあらましを、多くの関係者者に9年にわたりインタビューをして書かれたものである。
アメリカ人からみたら原始的で頑迷でコンプライアンスに欠けるモン族の両親が、実は愛情が深く、誰とでも分け隔てることなく接し、家族はみな喜びに溢れていることがわかる。
モン族が決して言ってはいけないことをアメリカの医師は行い、決してやっていはいけないことを医師はする。一方医師からみたら呪術的な一見無意味な治療をモン族は望む。そしてその無意味な治療が実際効いたりする。
この本はてんかんを発症した女の子リアを取り巻くひとびとがどう接し、どう変わったのか、あるいは変わらなかったのかを通じて、人類にとって文明とは、幸せとは何かを問いかけてくる。
モン族には本来スーパーもいらない。ちょっとして農耕地や自然があればいいのである。
日本でもアメリカでも社会の底辺の人には生活保護でお金を与えるという仕組みがある。そんな仕組みはここ数10年のことなのである。昔から人はなんとかして生きてきたのである。そのどうしようもなく見えてもなんとか生きるというその1点に人間の尊厳は収束しているはずなのである。 -
Posted by ブクログ
私の好きなポッドキャストの番組、The Mothで著者のイシメール・ベアがトークに出た回があった。話し始めた途端に「なんでこの人の声はこんなに悲しみを湛えているんだろう」と気になった(実際はユーモアたっぷりのお話で、写真を見ても笑っているのだけれど)。
そして本書を購入。
想像を絶する体験が綴られていた。
馴染みのないシエラレオネの日常生活や文化も興味深いし、何といっても著者の抜群の記憶力には舌を巻く。
語るために神様に生かされたのかな・・・と思ってしまう。最後のページで、7歳にしてこんな答えを出していたんだ、と知って更にそう思った。
こんな体験をして生き続けていけるものすごいし、人間のresilienceというものには限界がないのかも、と認識を新たにしました。 -
Posted by ブクログ
2013年の本ではあるが有益だった。アメリカの都市社会学者レイ・オルデンバーグが提唱した「サードプレイス」は、家庭(第1の場所)でも職場(第2の場所)でもない、誰もがくつろげる「インフォーマルな公共生活の中核」となる第3の場所のこと。利害関係から離れ、会話を楽しみ、自己存在感を得られるコミュニティの拠点。後半では、メインストリート、イギリスのパブ、パリのカフェなどの事例が紹介される。スターバックスがサードプレイスの概念を取り入れたらしい。自分自身、転職が多く第二の場所が不安定なため、第三の場所を必要としている。最近も、行きつけのカフェや美容室やマッサージなどが良き話し相手になってくれた。改めて本書を読んでみると、表紙が西荻窪の身近な場所の写真だったので驚いた。
-
Posted by ブクログ
ラオスから難民としてアメリカに来たモン族の一家の子リア・リーがてんかんの症状でカリフォルニア州の病院に運ばれる。家族も病院スタッフもどちらも少女を救おsうと懸命に努力するのだが、文化の違いや言語の壁などから行き違いが積もってしまっていた。
著者はリアの両親や家族、治療に当たった医療関係者等にインタビューを重ねるなどして、どのような状況であったのか、どのように考え、どのように対処したのか、相手方の気持ちや態度をどのように感じていたのか、などを丹念に明らかにしていく。
本書のタイトル「精霊に捕まって倒れる」とは、モン語で<カウダぺ>、魂の喪失によって引き起こされる病として受け取られている。それに対し病院での診断はてんかん。同じ現象を見ていても、モン族の人間と西洋医学の専門家である医者とでは異なる考え方を持つであろうことが、このワード一つからもうかがわれるところだ。
現代医学では薬の投与は基本的な治療方法だろうが、嫌がる子どもに薬を飲ませるのは大変だし、言語の壁があり正確な意思疎通を図ることが難しい中で、良く分からない薬を定期的に服用させることは困難だった。それが薬を飲ませない=虐待であると医師側からは思われてしまい、親子は法的手続を経て、一時引き離されてしまうという悲劇まで生じてしまう。
本書を通して、異文化理解の難しさ、患者・患者家族の気持ちに対して現代医療はどのようにあるべきなのか、といった重い課題を考えさせられた。
それにしても、当時実際に治療に当たった医療従事者が、あまり語りたくはないであろうことまで率直に話してくれている態度にはー著者のインタビュー能力の高さもあるのだろうがーかなり驚いた。
また、モン族の人々がなぜアメリカに来ることになったのか、ベトナム戦争という時代背景も学ぶことができた。 -
Posted by ブクログ
精霊に捕まって倒れる。この不思議なタイトルは、モン語の〈カウダペ〉の直訳だ。突然けいれんして失神する事象を指す。それはつまり、医学用語でいう「てんかん」のことである。
1982年、ラオス難民のリー家の末っ子で生後3カ月のリアが、てんかん症状で病院に運び込まれた。その日から繰り返される入退院。その度に医師たちは、投薬をはじめ近代医学を駆使して懸命に救命を試みる。一方で、モン族の父と母は、悪い精霊に娘の魂を奪われたのだと理解する。そして、自分たちの儀式や伝統医療を認めないアメリカの医師たちに不満を抱き、彼らの薬こそが娘の回復を阻んでいるのではないかと不信感を募らせる。やがて、両者のすれ違いは、リアの悲劇へと結びついてしまう。
モン族。もしかするとミャオ族というほうが聞き覚えのある人はいるかもしれない。読み始めは難民であろうが何だろうが無償で最新の医療を施すアメリカという国の懐の大きさを感じた。ところが読み進めるうちに、それは大きな勘違いで、矛盾だらけであることに気づかされる。ラオス難民を生み出したのもまたアメリカ自身なのだ。
医療者と患者の関係性はいかにあるべきか。本書にも登場するクラインマンの著作は医療関係者の必読の書となっている。医療者と患者の関係がある種のパターナリズムに陥りやすいのはよく指摘される。本書の場合、さらに相手は「未開の」難民なのだ。この「上下関係」に異文化の衝突という図式が加わり、事態は複雑となる。
筆者のファディマンは、モン族、医療・福祉関係者たちから丁寧に聞き取り調査を行い、この事件の意味を深く掘り下げていく。第18章で紹介される、命こそ救われるべきとする医師と、いや魂こそ救われるべきとする心理士のやり取りは重い。どちらが正しいということでも間違っているということでもないのだ。
「15周年記念版に寄せて」という後日談で、その後数10年を経て、社会や病院施設では明るい兆しが見えていることが著者から語られる。異文化間の調停者こそが求められている。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ難民としてアメリカに移住してきたモン族一家に生まれた赤ちゃんリアが、てんかんの発作を起こしたところからこの一家と病院との長い付き合いが始まる。医師は当然てんかんを脳神経の異常であり薬によって治療するものととらえていたが、両親は度重なるてんかんの発作を「魂を喪失した」ことによるもので、取り戻すためにはチネン(シャーマン)の供儀などが必要だと考えていたのだ。リアを守りたいという強い思いは一致していたものの、言葉の壁以上に世界観や文化の違いが大きすぎてお互いの考える治療はうまく進んでいかない。
両親の投薬不履行が虐待とみなされて裁判所命令が下り、リアが里親の家庭に一時預けられるという大事件の後もその溝は埋まらず、最終的にリアは致命的な大発作を起こして植物状態になってしまった。しかし家に連れて帰れば2時間で死ぬと言われたリアは、モン族的治療と家族の献身的な介護によってその後20年以上も生きるのだから驚く。
リアに関わった人たちの話の合間にモン族の歴史、特に両親やモン族が巻き込まれた戦乱と過酷すぎる運命が書かれている。自分たちの暮らしも尊厳も家族の命も失い、ようやくたどり着いた異国はまるで別の惑星のよう、そこでただのごくつぶしとして漂うように生きることを強いられている、ということがだんだんわかってくると、やるせなさがつのった。もちろんそれだけではなく、医者や看護師たちにも受け継いできた文化があり、守ってきた命があり、人生がある。この本で様々な人の証言を克明に記録しているのは誰が悪いとか、あの時こうしていればとか(そんなポイントは無数にあるのだが)、そういうことを突き止めたいのではない。医者とモン族患者それぞれの背後に巨大な岩のようにして存在する文化と人生を浮かび上がらせることで、「異文化」とはどういうことなのかを見せてくれている。
言葉の壁をなくそうとか、お互いを思いやろうだとか、そんなレベルの話をはるかに超えて、倫理を含めて全てが違っているのはこれほど難しい状況なのだ。いや、本当は人が人と理解し合うということ自体が思ったよりずっとずっと難しいのだろう。医者たちの間でさえ、リアに関する事柄への理解も感情も全然違っていた。それでも悲観的な結論ではなく、この先に進むために書かれているのがすごい。最後までお互いがリアのために尽くしていることを理解できず、折り合うことのなかった父親と主治医の一人がシンポジウムで手を取り合う姿は感動的だけど、それでめでたしめでたしというわけではない。考えさせられる本だった。 -
Posted by ブクログ
著者のイシメール・ベアは、1980年にシエラレオネの地方で生まれ、13歳からの3年間、シエラレオネ内戦(1991~2002年)において政府軍の最前線で活動した元少年兵士。その後、ユニセフにより戦場から救出され、1998年に米国に移住し、国連インターナショナルスクールを経て、米オバーリン大学に進み2004年に卒業した。現在はユニセフ親善大使を務め、戦災で影響を受けた子供たちの地位向上のために活動している。
本書は2007年に発表され、スターバックスコーヒーが全米6,000以上のチェーン店の店頭に並べた話題性もあって、ニューヨークタイムズ・ベストセラー(ノンフィクション部門)の1位を獲得したほか、ニューズウィーク、タイムなどの主要新聞・雑誌でも大きく取り上げられた。邦訳は2008年に刊行され、2017年11月現在で40あまりの言語に翻訳されている。
本書は、元少年兵士が戦場での体験を“自らの手で”綴った記録であるが、著者が、生まれながらに優れた記憶力・感性を持ち、生れた地方の伝統文化だというストーリーテリング力に秀で、更に米国で文章作法を身に付けたことが、本書のような作品を書き上げることを可能にしたが、その意味で、他に類を見ないものと言えるだろう。(更に、本書に綴られた、著者の米国移住を可能にした経緯も稀にみる幸運であろう)
そして、内容の壮絶さに比して筆致は淡々としており、それ故にかえって、ときにアフリカの草原・熱帯雨林を彷徨い、ときに人々を殺戮し、ときにリハビリ施設で悪夢にうなされる、著者の追体験をしているかように感じられ、いつの間にか心臓の鼓動が早まり、息苦しささえ感じるのである。
著者は、回想録を書こうとした理由として、シエラレオネで起こった戦争の現実を知ってほしかった、戦争に巻き込まれると普通の子どもでさえ銃を握って人を殺すようになることを伝えたかった、環境さえ整えば子ども兵士は人間性を取り戻して社会復帰できることをわかって欲しかった、故郷の伝統文化や豊かな暮らしや人々のコミュニティという大切なものが戦争により一瞬にして失われてしまったことを訴えたかった、と語っているが、本書は十分にその目的を達したと言えるだろう。
今この時にも世界では局地的に戦争や内戦が続いているが、我々一般の日本人としてできること、すべきことは、まず、そこで何が起こっているのかを知ることであり、本書がその一助になることは間違いない。
(2018年4月了) -
Posted by ブクログ
本書の著者はアメリカの都市社会学者で、タイトルである「サードプレイス」の提唱者でもある。サードプレイスとは文字どおり、家庭(第一の場所)、職場(第二の場所)につづく「第三の場所」のことだ。家庭や職場ではない自分の居場所とでも言えるだろうか。サードプレイスはインフォーマルな公共生活の場の中核であり、人びとをストレスから解放してくれる。サードプレイスのおかげで、人びとはくつろいだ充実の日常生活を送ることができるのである(51頁)。ところが現代の都市環境が悪化し、公共のくつろぎの機会が急激に失われていると著者は懸念している。本書の目的のひとつは、「サードプレイスが国家と個人生活の双方に役立つことをきちんと理解すること」(63頁)である。
本書は三部構成になっている。第一部はサードプレイスの「本質」について説明している。著者の言う「サードプレイス」とは「家庭と仕事の領域を超えた個々人の、定期的で自発的でインフォーマルな、お楽しみの集いのために場を提供する、さまざまな公共の場の総称」(59頁)のことである。このような公共の場は時代、国、文化を超えて存在しているけれど、それらの共通点とは何なのだろう?
サードプレイスには「家庭と仕事から逃れられる安らぎの場」(66頁)であるということ以外にも共通点がある。サードプレイスは家の近所にあって、いつでも自分の好きな時に行くことができる。そこにはかならず常連がいて、「活発で、機知に富み、華やかで、魅力的」(74頁)な会話が行われている。サードプレイスは「人を平等にする」(69頁)ので、職業や立場を超えて色んな人が集まる。そのため、交友関係は形式張らず(インフォーマル)、会話にはつねに目新しさがある。サードプレイスでの会話は有益な気晴らしになるし、それによって「心の健康と前向きな人生観」(108頁)が得られる。さまざまな人が常連なので人付き合いの幅も広がる。つまり、ひと言で言えば、サードプレイスは人びとにくつろぎを提供してくれるのだ。家庭、職場、そしてコミュニティを謳歌できるサードプレイスという三脚台によって、くつろいだ充実の日常生活を送ることができるのである(51頁)。
第二部は欧米を中心としたサードプレイスの具体例を挙げる。ドイツのビール園、イギリスのパブ、フランスのカフェ、そして古典的なコーヒーハウスなど。こう書くと飲食ができる場所だけがサードプレイスになれるのか?と思われるかもしれないが、たとえば第6章では「リヴァー・パークのメインストリート」をサードプレイスとして論じている。つまり、お喋りや人付き合いが町の居酒屋などに限られず、メインストリートのいたるところで楽しい会話や社交が絶えず行われていたということである。
第三部は、サードプレイスを失わせる要因が述べられている。まず、第11章では「消費主義」と「個人的な関係」をキーワードとして、サードプレイスが枯れていってしまう都市環境の様子を描いている。著者によれば、現代の新しい都市環境を代表するのがチェーンの飲食店やショッピングセンターだ。そこでは、かつての公共の場とは違って「ぶらぶら歩いたり、のんびりくつろいだり、長居したり」できない(326頁)。物も買わずにのんびりされたら店の利益が損なわれてしまうからだ。つまり、ショッピングセンターでは人は没個性的な顧客や消費者として扱われるのである。快適な公共生活が得られなければ、人びとは「主寝室、グルメ好みの凝った設備の台所」などを備えた快適な家にこもってテレビを見て過ごすことを好むだろう。このような「より限定された個人的な関係」(340頁)を重視する生活は公共環境を悪化させることになる。
続く2つの章が論じるのはそれぞれ女性と子どものサードプレイスだ。
サードプレイスでの交流とは基本的に同性の間でなされる。同性と言っても大半は「男同士」であり、そもそも女性のサードプレイスというものは少ない。ひとつの理由は、家庭を完全に忘れてくつろぐことが女性にはないからだという(370頁)。家庭を持つ女性は女性同士の集まりに子供を連れて行くのである。著者はまた、夫婦関係の変化が(男性の)サードプレイスを失わせるとも言う。公共生活の少ない現代では、夫の人生において妻の存在感は大きい(389頁)。結果として、ほかの大人(男)との関係はますます弱くなる。著者は、この夫婦の「一体感」が夫婦関係を「不安な状態」に陥らせると論じる(391頁)。お互いを過剰に束縛する生活はストレスであり、行き着く先は離婚、という結果にもなりかねない。そのうえで著者は、男女別のサードプレイスが円満な夫婦関係に大きく貢献すると論じる(393頁)。サードプレイスが生活の重圧、ストレスを減らしてくれるおかげで人生が充実し、その結果として結婚生活を楽しめるのである(394頁)。
第13章は、サードプレイスそのものではなくて、サードプレイスを根付かせるようなコミュニティについて子どもや若者をからめて論じている。サードプレイスがなくなって多くの人びとは職場(第二の場所)の仲間とコミュニティ(「ネットワーク」)を作るようになった。しかし、そのようなネットワークには子どもや10代の若者の居場所はなく、元々のコミュニティの代わりにはならない(418頁)。
本書が書かれたのは今から30年ほど前であり、しかも舞台はアメリカである。そのため内容を実感しにくい部分があるのは否めないのだが、全体としては臨場感あふれる記述でイメージを持ちやすい。ユーモアもある。ただ、現在の日本に住む私にはいくつかの疑問がわいてくる。以下に二つだけ挙げておこう。
本書が物語の中心に据えているのは仕事を持っている既婚者の男性である(本書では男性について、男性の視点で議論されている内容が圧倒的に多い)。では、「仕事を持つ既婚男性」ではない人たちにとってのサードプレイスとはどのようなものなのだろう?本書では第三部で女性と子ども(10代の若者)のサードプレイスについてはそれぞれ1章が割かれている。しかし、たとえば大学を卒業して会社に入り、家(「家庭」ではない)と職場との往復が生活の中心になりつつも、アフターファイブや休日に(職場の同僚とは違う)仲の良い友達やサークルの仲間と過ごす。そんな若い男女は、特定の場所からくつろぎを感じるのではなくて、まさにその「人間関係」の中でくつろぎを感じているように思える。この場合、彼らにとってサードプレイスとは何なのだろう?あるいはサードプレイスは不要なのだろうか?
第13章で著者は「場所という観点から定義されるのではなく、一個人のつながりの蓄積によって定義される」(418頁)コミュニティ(「ネットワーク」あるいは「個人コミュニティ」)について述べている。近所の隣人ではなく、遠くに住んでいる職場の仲間に自動車に乗って会いに行くのである。著者が本書を書いた1980年代には今のようにインターネットが普及してはいなかったが、今の時代に生きる身としては当然、フェイスブックのようなSNSの位置づけが気になる。たとえばフェイスブックはオンラインの「場所」であるとは言えないだろうか?そこでのやりとりが家庭や職場とは違ったくつろぎを提供してくれる可能性は十分にあるように思える。
本書の巻末には日本文化の研究者であるマイク・モラスキーによる解説が付いている。モラスキーは本書の内容に共感し、称賛しつつもいくつか問題点を挙げている。そのうちの一つが、本書で取り上げられている事例が欧米のみに(ほぼ)限られている点である。モラスキーは赤提灯や大衆酒場といった庶民的な居酒屋を日本の代表的なサードプレイスであると考えているようだ。実際、『日本の居酒屋文化』(光文社新書)ではそのように論じている。こちらも合わせて読んでみると良いだろう。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ都市に暮らす人々が「心のよりどころとして集う場所」。家庭、職場、三番目の社会的な場所としての「サード・プレイス」という概念について。著者はアメリカの社会学者。イギリスはパブ、フランスはカフェ、そして現代におけるアメリカは?20世紀の海外文学を読んでいると話が展開するのは、雑貨屋だったりする。
店に集まる、場所に集まる、それは自発的なものもあり、戦略的なものでもあったりする。あるときは老人を街からしめだすための政策が存在する。
訳者の解説のなかで現代におけるスターバックスは街のコミュニティ性を目指して雰囲気を作り上げたということだが(注:この本が出版された頃にはまだスターバックスは存在していない)、いや果たして日本ではどうだろう。客同士が語り合うのはいまだにハードルがなかなか高い。
アメリカでの出版は89年だがコミュニティとしての「読書サークル」が既に存在していたこともうかがえる。