忠平美幸のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
郊外に一軒家を建てて休みの日は家族でショッピングモールにドライブへ、といったような生活が当たり前になっていくことへの危機感を強く感じる書。
アメリカをはじめ産業化が進んだ地域では、家庭や仕事場での役割から解放されて色々な人とたくさんの話ができる場が失われているという。ここで提示される居酒屋やカフェでは、経済的階級を超えて雄弁に人々が語り合える素晴らしい場であるようだ。
ただ、ここで著者が想定する失われつつある場(サードプレイス)の姿は、解説にもある通り非常にノスタルジックで、ジェンダーやエスニシティ的な観点からはあまり心地の良い場とは言えない。「昔は良かったよな…」から始まる忘年会大好きな上司の話を聞いている気分になる。
しかし、形のない「場」に注目する視点は、とても重要でありながら書くのが難しい主題であるようにも思う。この点に着目した本書が現在でも書店に並んでいるのには、納得がいく。 -
Posted by ブクログ
会社と家の往復だけの生活から何とか脱したいという焦りの中、書評で興味を持った本。職場・家庭以外のコミュニティ、特に近所の飲食店での人間関係や西洋のカフェ・バール等の歴史について書かれている。
最近は安いだけの均一的なチェーン店より、個人営業の家庭的な店(できれば近所でおいしくて、そんなに高くない)で顔なじみなところを開拓しようとしてるけど、なかなか見つからない。というか一人では入りにくい。チェーンの牛丼屋は無言で入れるのに・・・名無しさん&顔なしさんのコミュニティ、1回ぽっきりの場だから?
店員もチェーン店は異常に元気がよすぎるか、マニュアルで機械みたいな表情&接客。バーテンダー、ホストが客をまとめるなんてほど遠い理想に思える。
<メモ>
アメリカのショッピングモールの描写が日本と似ていてなんか笑えた。フードコートをたむろするティーンエイジャー、プチ高級ランチを楽しむ中流階級の奥様たち。今はほかに何もすることがないから、ただぶらぶらしている人。企業国家では友好ではなく商売が最重視される。顔のない人間たちの浮遊する混合体。
サードプレイスの特徴
・常連が多い
・大半が一日に一度、ほとんどが一週間に2度以上立ち寄る
・店内を自分の店のごとく動き回る
・いつまでもいる必要はない
・くだけた大声での応酬がある
・ゆっくり人間関係を築いていく
ホイジンガ『ホモ・ルーデンス 人類文化と遊戯』1963遊びは区別された場所で起こる
また、居酒屋を3つのタイプに分けている。
①致命的な居酒屋:通りすがりの群衆を引き寄せやすい立地にある。ショッピングモールや中心街、商業地沿い。客はエレベーターに乗り合わせた他人同士のように、互いにわれ関せずを決め込んでいる。孤独や退屈から逃れようとして入ったのに、客たちは情けない状態を互いに再認識させあうのがせいぜいなのである。他人と一緒にいても独りぼっち。
②BYOF(Bring Your Own Friend):自分で友達を連れてきてね。サードプレイスと似ているが、まとまりがあるようでない。内輪だけの楽しいおしゃべり。自分たちの集団によそ者が入り込むのを期待も歓迎もしないし別の集団へ渡り歩く者もいない。誰かが騒いだり馬鹿笑いしたら非難がましい視線を向けられる。
③サードプレイス:客同士にある程度の結束が見られ、それはただ同じ時に同じ部屋を共有しているだけの状態をはるかに超えている。一体感。新米者は急いで席をとる必要がない。他人の大声も気にしない。
昨今増えてる婚活バーや相席居酒屋。1980年代にすでに原型はアメリカにあったんだね。「アメリカの女性たちよ、賢くなりなさい!バーでたむろしている類の男たちなど、あなた方には必要ないのです」 -
Posted by ブクログ
『サードプレイス』を読む。今、翻訳されて読まれるべきものなのか? 初版は1989、第二版は1996である。翻訳はペトロスキー『フォークの歯はなぜ四本になったか』(平凡社、1995)でおなじみの忠平美幸氏。もともと原題は「The Great Good Place」でコミュニティの核となるカフェ、コーヒー店、本屋、バー、ヘアサロン、その他だから「サードプレイス」の概念や限界もそう広いとは思えないのだが、解説まで含めて480頁はただ事ではない。社会学者レイ・オルデンバーグの情熱を傾けたテーマは我々にとってどういう意味があるのだろうか。
解説のマイク・モレスキーが言っているように、『サードプレイス』は米国の中産階級が失った共同体と豊かさゆえの自己疎外への厳しい批判と受け止めることはできよう。しかし、ノスタルジーに満ちた「サードプレイス」は実現可能なのか。もう、そんな居心地のよい場所は帰ってこないのではないか。スタバの擬似的な環境はどこかよそよそしく感じられる。
なぜ、マックやスタバがサードプレイスになりえないのか。日本の午後のマックは勉強する学生の溜まり場とかしているが、彼、彼女らは会話をしない。黙々と自分に与えられた問題を解いている。答えを相談できる大人もいないしコミュニティもない。
片岡義男が『日本語と英語』のなかでdinarを取り上げていたのを思い出したのだが、そこは「飯食って行け!」と言うけど「サードプレイス」にはなりえない一見さん相手の大衆食堂でしかない。孤独を癒す「サードプレイス」ではなく「腹を満たすところ」と現実的な英語表現が羅列されていた。
職場(第二の場所)に近いでわけでもなく、家庭(第一の場所)に近いわけでもない、通勤途中の居酒屋でニュースの話題に相槌を打ち、淡い連帯感やアノニムな関係の中に僅かの安らぎを求める人々の憩いの場はなくてはならないという主張は受け入れてもよいと思う。なにより、日本版の表紙の写真が西荻窪の南口の盛り場の風景であるのだから。