クリサートのレビュー一覧
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人と生物(動植物のことだが本書では主に動物)の関わりについての一考察。人と生物を比べる、あるいは生物の活動を解釈する際に、どうしても人の基準で見てしまう。すなわち、目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、舌で味う、など。しかし、よく知られているように犬の嗅覚は人の何万倍も鋭いのだから、感じ方や解釈の仕方が異なるはず。昆虫が複眼で見ている世界は色も見え方も違う。猫は目が見えなくなっても、髭さえあれば大抵のところは移動できる。イソギンチャクは触覚で動くものと動かないものを見分け、天敵のヒトデが近づくと防衛姿勢をとる。人間の世界も同様で、価値観を共有するもの同士、などという考え方は、甘いのかもしれない。
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Posted by ブクログ
インターネットで「男女の世界の見え方の違い」というような画像を見たことがある。主には性的な視線の違いを面白おかしく誇張した内容だが、それ程おかしくもない、こんなものかなーという感じだった。人間は、目に入る世界に意味づけをして知覚する。∵を顔として見たり、飾り付けたケーキを美味しそうに感じたり、逆に牛や鶏そのものには食欲をそそられなかったり。生得的に意味付けされたものが、母親、危険な発色、異性などのシグナルだろうか。これが、人間と動物、昆虫で違う。実存世界や観念世界とも違う、環世界という、タイトルの生物から見た世界のことだ。
この環世界の見え方から、下等な生物は、単に知覚して反射的に運動する「 -
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ネタバレ現代において思想的に新しいところはないんだけど、どちらかというとこの本によって僕らの常識が変えられた、という言い方の方が正しいんだろうな。
本書が厳しく批判する「動物機械論」はデカルトに端を発していると思うけど、今からすれば人間原理がすぎるよなぁ。動物をひとつの機構としてしまうなら、人間だって機械として見なせてしまうわけで(だから"魂"という発明が必要だったんだけど)。
ユクスキュルの引いた高等生物のラインは、刺激などに対して中枢部からの指図(フィードバック)があるかどうかなのかな。「犬が歩くときは、この動物が足を動かすが、ウニが歩くときは、その足がこの動物を動かす」と -
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あらゆる生命は、それぞれの時間軸をもち、その多様な時間軸がたまたま歯車のように噛み合って世界が回っていると思っており、そのイメージからこの本を読み始めた。
すると、空間も時間も、まず先にあるものだと思っていたが、主体があってから始まるという話がかかれており、新鮮かつ腑に落ちるような話だった。
また、つい、種族の異なる生き物同士で考えてしまうが、人間同士でも既にそれぞれ持っている時間が違うことが、「なじみ」の道の概念で描かれている。
「環境世界」と「環世界」の微妙なニュアンスの違いも、著者の気にかけている点の一つ。
確かに、生物学を知る上で必読書となる1冊だった。 -
Posted by ブクログ
「環世界」という聞き慣れない単語が主題である。かなり古い科学の本。
環世界というのは生物の知覚能力に従って、生物自身が知覚することにより理解できる環境のことである。主観的な環境とも言える。
一般的に環境という場合は物理的、物質的な環境、すなわち客観的な環境のことを指していて、環世界とは異なる。
当然、ゾウリムシのような単純な知覚能力しか持たない生物の環世界は単純である。
といったような話。
大切なのは、自分自身が知覚していると思っている環境とはあくまで自分自身の環世界でしかなく、鳥や昆虫など別の生物はまったく別の世界を知覚しているのだということを理解したうえで想像力を働かせることなのかなと思っ -
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僕は写真を撮る。写真撮影をやっていると、何を撮ったらよいものか、わからないという話を見聞きすることがある。写真撮影はカメラを構えてシャッターを切りさえすれば写真は撮れる。「何を撮れば?」その回答は「撮りたいものを撮れ」としか言いようがない。写真の内容そのものには主体性が必要ないから、写真撮影において“産みの苦しみ”的な悩みはありえないというのが、僕の考え。写真を撮る、という行為自体に主体性が存在するのだから、撮影者は、シャッターを切ることのみに専念すればいい。考えて撮る必要はない。シャッターを切りさえすれば写真撮影は可能だからだ。それでは良い写真を撮ることができないと反論を受けるかもしれないけ