「見たまえ、ワトスン、カンバーバッチ氏が結婚すると新聞の私事広告欄に出ているよ」
「ああ、君の役をやった俳優さんだね」
「僕は新聞広告欄はすべて見ているからね。しかしこの『事件簿』には電話が登場するんだよ。日ごろ役に立たないと言っているホームズ全集の注釈だがね、今回はなかなか役に立ったね。ロンドンに最初に電話が敷かれたのは1876年のことだそうだ」
「すると君と出会う前からロンドンにはもう電話はあったわけだ」
「ドイル氏が自分の便箋に電話番号を入れたのが1908年のことだそうだから、電話が一般にどれだけ普及したかということとはギャップがあるのだろうがね」
「僕らの場合、遠距離の連絡はもっぱら電報で、不特定多数への連絡は新聞広告だったね」
「そうなんだ。それが「三人ガリデブ」では僕の部屋にいきなり電話帳が登場するからね。『事件簿』の諸編が発表されたのは1920年代だから、もう時代はだいぶ変わっていたのさ。そのせいもあるのか『事件簿』の作品の出来は他より落ちると批評されているようだね」
「それは君が二編も自分で執筆したからだろう」
「それについては、ワトスン、君の文学的修辞技術に脱帽するしかないんだがね。ただ、「這う男」や「白面の兵士」などは後の医学的知識からしたらもはや古すぎるのだね」
「しかし、吸血鬼の存在を一笑に付す、「サセックスの吸血鬼」は君の面目躍如というところではないかね」
「まあそうだね。もっとも失敗作といえども話に工夫を凝らそうとした結果といえるだろう。僕が引退してのちに遭遇した事件とか、依頼人が犯人だとか珍しい話が収められているよ。もっとも「三人ガリデブ」はかなり奇抜な話だが、結局「赤毛連盟」の同工異曲だったりはするがね」
「これで君の事件記録とお別れというのも淋しい限りだ」
「なに、僕はもう引退した身だからね。この先も偽作者たちが僕らの新しい物語を紡いでいくだろうから、淋しいことはないんだよ」