ヴォルテールのレビュー一覧
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哲学コントと呼ばれる分野の本。
訳文がうまいからだと思うが、テンポがよく、18世紀に書かれた本とは思えない。混沌として何が善だか悪だかわからない今の時代を描いているようだ。
人間の悪や自然の災害で悲惨な目に遭っても、それでも「すべては善である」という考えへの批判。
その言葉を信じるカンディードがひどすぎるほどの残虐な様々な悪に遭遇しても、なおも最善説を信じる滑稽さを通じて、その批判を表している。
巻末のリスボン大震災に寄せる詩ではさらにストレートに批判が伝わる。
災害が多い中で醸成されていった日本の宗教的な考え方。
宗教的な考え方が先にあって大災害で哲学的な論争が生まれる西洋。
立ち位置の違い、哲学が生まれる背景の違いも感じられる。
最後にカンディードがたどりついた言葉が、今の自分への答えのようにも感じられた
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18世紀の啓蒙思想家ヴォルテールの哲学的小説。波乱万丈の冒険譚を通じて「最善説」に疑問を投げかける。
何やら哲学がテーマになっているというのでどんな小難しい話が出てくるのかと思ったら、冒頭からたたみかけるような災難・悲劇・試練のオンパレードで引き込まれた。息もつかせぬスピード感で波乱万丈の大冒険を繰り広げる主人公。彼はただ運命に翻弄されているだけにみえて、その胸には常に「恩師の教え『すべては最善である』は本当か?」という命題がつきまとっている。この「最善説」という考え方は、本書に反発したルソーのように色々な解釈ができ、多くの人を議論に巻き込んでしまう魔力のようなものがあるように思える。この物語の中でも主人公を中心に議論がたえない。悪や不幸を目の前にして、すべて神の創った最善といえるのか。それでは希望とは……。こちらも考え込んでしまうことしきりである。
若者カンディードの冒険譚というメインラインだけでエンタメとして十分面白い。その上で議題の哲学的テーマについて、同時収録の「リスボン大震災に寄せる詩」と合わせ、一通りの思索をめぐらせる機会となった。あらゆる苦難・辛酸を味わった主人公が最後にたどり着く結論が感慨深い。最後の一行……人間にはこれしかないよなぁ、と。 -
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面白かった。純粋で真面目で師匠の説く最善説をひたすら信奉するカンディード。苦難の旅で信じるものが揺らいでゆき、第二十三章では「この世界はいったい何なんだ」と悩むカンディード。第二十九章礼を尽くしてきた身分の高い恋人の兄を面と向かってとうとう「バカ殿」呼ばわりするカンディード(ここは笑いました)。人間について生きることについて現代でも解決できない同じことを、ずっと昔から人は悩み苦しんできたらしい。「リスボン大震災に寄せる詩」は素晴らしかった。よくも自分はカンディードとこれを読まずに今まで人生に悩んでこられたなと思う。詳しい解説がまた素晴らしく、目を開かされた思い。
パングロス先生を私は滑稽とは思わない。その生き方も尊重されるべきで、彼がカンディードの支えとなり読者の思考を深める。
解説でライプニッツ、ルソー等の本も紹介されている。本をめくりかえしながら、人生ってなんなのかを問うわたしの旅への出発はここからだなと気づく。 -
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「考えの違う人に対して、怒ることなく、寛容でいる」。当たり前といえば当たり前だけども、私にとっても、この本が書かれた当時のフランスの人たちにとっても、実践は難しかったらしい。
まず、本を読んで驚いたのはキリスト教の教派間で殺人や迫害が公然と行われてきた歴史があったこと。そして、その理由がまさに教派が違うからというものであったこと。本書の書かれた時代のフランスでは、カトリックがプロテスタントやユグノーといった少数派の教派を迫害していたらしい。そうした歴史を述べながら、「それに対して、筆者がそれを戒め、寛容という人徳を持つことを勧めるという流れで構成されていました。
雑にまとめると、最初の言葉のような要約になりそうですが、今までの人生を振り返ると、当たり前のように思える正しさ(言われなくとも意識できそうな)しかないのに、どこまで実践できてきたか非常に怪しい。私自身、「自分が信じるものを、相手に強要する」という態度(カトリックが少数派教派に接したように)を取った場面がいくつもある。常識とか、当たり前とか、そういった教派に属して人を非難した覚えがある。相手と自分が同質であることを期待して、それが裏切られると強要するーそんなことが自身の内や周囲や、それを包括する集団の中でも繰り返されてきたと感じる。
それが拡大すると、考えの違う集団に対して「考えが違うという」理由だけで攻撃できてしまうことが、本書の『カラス事件』や争いにつながることを追体験しました。
「われわれ人間はほんのわずかな文章のために、互いに相手を抹殺してきたのである(p63)」という言葉にあった通り、互いに考えが違ってもそのこと自体を騒ぎたてるのではなく、「人間たちは、みんな、たがいに兄弟であることを忘れないようにしよう(p197)」という態度で相手を尊重できる人になりたい。
「考えの違う人を受け入れられない。では、どうするか?」という葛藤は、当時のフランスの社会に限らない、どの時代の人生の中でも現れると思います。その時、時代を超えて対立を戒めてくれる、一つの答えを先々の人へ提示してくれる素晴らしい本だと感じました。 -
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1763年ヴォルテールによって著された『寛容論』
ある一家に起こった事件に対して憤慨し、
その要因である宗教団体の「不寛容」な振る舞いに対して、ローマや聖書などの歴史から引用し、「寛容」でないことを弾劾した書。
そこに日本の事柄も出てくる。
日本人は全人類のうちでもっとも寛容な国民であると。
そこにイエズス会の宣教師がやってきて信仰を広めるのだが、
「島原の乱」として有名なキリスト教徒のあの大静粛は、実はこのイエズス会が自分たち以外の宗教を認めたがらないことが原因だとヴォルテールは言う。
つまり不寛容だと。
同様に同じロジックによって、
ローマを題材などにして、
寛容によってではなく、不寛容によっていずれも地上を殺戮の場と化したと説く。
ローマはイエスを殺したではないかという反論は、
それは実は国家ローマではなく、イエスに対して憤怒したユダヤ教の最高法院が死刑を言い渡す権利がなかったので、あれこれローマ人の地方総監のまえで理由を並べて告訴したのだ。
ローマの不寛容ではなく、ここではユダヤ人の不寛容がことの発端であった。
ここで、ヴォルテールは死刑を執行する側でななく、イエス・キリストに習いたいのであれば、人のために命を捨てる側になりなさいと言う。
今回の事件を起こしたキリスト教徒プロテスタント側の不寛容に対して、プロテスタントが信ずるイエスの「寛容」を前面に打ち出して、非難している。
カエサルやローマの代名詞でもある
「寛容」ということについて
考察を深める一冊。
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こんなにも笑える古典は初めてだ。
たっぷりといたずらな皮肉が効いている。
不幸の域値を越えて爆笑となる。
だが中盤、あまりにも悲惨なので笑えなくなってくる。
だが、終盤はもはやめちゃくちゃで哲学コントと言われるのもよくわかる。
だが、ヴォルテールは至って本気でこれを書いているのだろう。
本書を通じて一貫してあるテーマは、
「人が生きるということは、善なのかそれとも悪なのか?」
という人や人生の本質への問い。
実は、ヴォルテールはルソーから批判の手紙を受け取っていた。
「君の考えには人間の原始状態への考察への配慮が足らないよ」と。
この『ガンディード』は、そのルソーへの暗黙の返答だったのだ。
それを踏まえて読むとさらに面白い。
ルソーとヴォルテールの議論を、この『ガンディード』という物語を通して垣間見ているようだ。
結論として、
ヴォルテールは議論している暇があったら働こう。なぜなら、退屈、堕落、貧困というのは不幸の元凶であり、働くことはそれらを退けることになるのだから、と。
この働くということを重んじる思想は、
聖書からの引用でもあるように、
庶民は働かなければ(主に農業)生きていくことができない時代を反映しているものであり、
それをそのまま現代に置き換えることは出来ないと思うが、
それだけではないより深遠なメッセージがそこにあることを感じる。
働かなければ生きていけない時代から
働かなくても生きていける時代の今。
働かざるもの食うべからず、から
働かなくても食っていいの現代。
人はパンのために生きてはいない。
だが、パンなしでは生きられない。
そして、ただ何もせず無為に過ごす(働かないというのをその意味で使うならば)ことは出来ないのだ。
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物事の本質を見抜く目を養うのに格好の書。
1734年にヴォルテールが著したこの『哲学書簡』は、すぐさま発禁にされた。
あらゆることに批判的な眼をもつことで、物事の本質を突き、自分の頭で考えることの大切さが表わされた書だ。
時流ではなく本質的な観点から、自国フランスに関係する愚行も批判している。
パスカルの「パンセ」に対する批判も素晴らしい。
権威を鵜呑みにせず、かといって素晴らしいことは素晴らしいと認めつつ、極めて理路整然と合理的に批判を行う点だ。
例えば、
パスカルは言う。
人は知性が豊かになるほど、世の中で個性的な人間をますますたくさん見つけるようになる、
と。
だがヴォルテールは言う。
本当に個性的な人間はごくわずかしかいない。
ほとんど全ての人間が、慣習と教育の影響を受けて、おとなしくふるまい、物事を考え、ものを感じる。知性をそなえて、新しい道を歩む人間ほど、この世に稀なものはない、
と。
だが、そもそも
知性を磨く人間がどれほどいるのか。
読書する人間は少ない。
読書する人間のほとんどは小説を読む。
対して哲学などの古典を読む人間はさらに少ない。
物を考えることを好み自らの知性に磨きをかけることに情熱をもった人間は少ないように見える。 -
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「最善説」についての是非。世界は最善にできているのか、できるいるとしたら、不幸な人はなぜいるのか。個人のせいなの?悪いことをしたから。全体としての善。主人公カンディードが遭遇する様々な出来ことを通し、隣人と対話しながら、考えていく物語。頭でごちゃごちゃ理論を考えるでなく、目の前にある畑を耕そうというラストシーンがプラグマティックな印象を受けた。ドイツの観念論、フランスの構造主義、イギリスの経験論、アメリカの分析哲学、プラグマティズム。これらのもとになっているような、なっていないような。啓蒙の時代の17、18世紀であり、近代合理主義というか科学発展の時代の始まりに書かれた本で、現代のように、高度に専門分化する前のところ。とても面白く読めた。再読しよう。今度は岩波で読んでみようかな。
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1700年代に書かれた内容を、普通に今の時代に日本語で
読めるということがとても奇跡的に幸せなことだと
思いました。また、やはり200~300年前から
読み継がれているという古典のパワーというものを
感じました。
18世紀以前のヨーロッパ、フランスでの宗教対立から
くる虐殺や殺戮、宗教のなのもとでの不寛容な事象が
多く発生していころの内容で。。。
宗教史をあまりわかっていない私にとっては、本来
理解しがたい内容や文章になっているはずのところを
新訳ということで、非常にわかりやすく理解しやすい
内容で書かれてあり感動ものです。
また200年以上も前のことなのに、今の世界や日本で
起こっている、テロや、虐殺、ヘイトスピーチや
国粋的な考え方、隣国や、意見の合わない人達を
ののしりあう人々。。。
全く変わっていない事柄について愕然とします。
また、その不寛容を相手のせいにするような言動も
恥ずかしく思います。
”あの世で幸せになるために、何が必要か。それは、
正しくあることである。
では、この世で、我々の貧しい本性でも望みうるかぎり
において幸せであるためには、何が必要か。それは、
寛容であることである。”(第21章) -
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普段、ニュースに現れるものは事故や事件、災害など人々におこる不幸である。
というよりも、そういうものこそがニュースになるという面がある。
起こりうる「災害」や「不幸」を、その理不尽さをどのようにとらえるべきなのか。「カンディード」はまさにその「不幸」を引き起こすもの、つまりはこの世界を創り出した「創造主」に対する抗議、皮肉である。この世界は全能の「神」である創造主が創りだしのだから、間違いなど無い、「全て最善」である。毎日報道され、存在する無数の「事件」や「事故」も最善なのだとしたら、「そんなことはない」と反発を覚えるのではないだろうか。私は最初にそう感じた。ヴォルテールが本書で言いたかったこともそういうことなのではないか。
本書の解説は最初にこれがテーマだと感じたものをより掘り下げてくれた。それは「最善説」の解説である。「この世の全ては最善である」という説は、この世にあるものは全てに何らかの存在の理由があり、その理由を辿っていくと究極的にはこの世界の創造の原因に辿り着かざるを得ないという説だ。これは強力な存在の肯定論だ。実際、あらゆる「事件」も「事故」も「災害」もその背景や動機を辿っていくという行為は日々行われているものだが、その究極の原因については考えないものだ。そんなことを言い出したらこの宇宙の誕生という話から全てを行わなければならないからだ。「最善説」は現在ある世界を肯定する。それも強力に。存在の善悪ではなく、ただそこにあるものをあるというだけで肯定する。それが本来の「最善説」である。
本来の「最善説」とは、因果関係の果てにあるものは何か?という話だ。その問題意識は今でも通じるものだ。学者は「真理」を探究して学問や研究を追求するからだ。しかし、もし本当に理由や原因がはっきりとわかったとして、それで「不幸」にあった人々はその理由や原因に納得するのだろうか。例えば、地震の原因が完全に解明されたとしても、その地震によって何かを失ってしまった人は本当に納得するのだろうか。その理由がこの自然に存在する何らかの法則であったとして、それによる被害を受けた人々は救われるのだろうか。この世の理不尽に引き起こされ、現実に起こる苦しみや不幸が何か別のものに変換されてしまうような憤りを感じるのではないのだろうか。「苦しみ」や「不幸」もそれぞれの人が抱えるその人らしさの一部である。ヴォルテールは本書に収録されている「リスボン大震災に寄せる詩」においてそうした一節を書いている。彼は生の苦しみもかけがえのないその人のものであり、それを抱えて一歩を踏み出している人達を讃えようとする。新聞にはニュースが載る、それはだいたい良くない出来事の事だ。その裏には多くの「不幸」がある。まさにこの小説で描かれる事だ。その「不幸」を乗り越えるために、現実をコントのように描写し、皮肉に乗り越えていく。短く素晴らしい本である。 -
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都度に有名なヴォルテールの「寛容論」。
内容はタイトル通り《寛容》を説くものである。ヴォルテールが生きた時代の知識や教養が無いと読み辛い個所が多々あるが…
(注釈を読むだけでも結構苦労する)
ヴォルテールの言う《寛容》は主に宗教上の対立であり、キリスト教のみを正しいとし、その中でも派閥間での争いが多々あることに対する戒めであったのだと思う。
狂信的な信仰・不寛容が生む悲劇を憂い、信仰の異なる人々の間での和解なき闘争に心を痛めていたヴォルテールは、人が人を認め合う《寛容》な人間関係を深く望んだ。
だが、ヴォルテールの《寛容》は、世界には多様な意見を持つ人々が存在することを認め、互いの違いを排斥するのではなく、寛容の心を持って平和的に共存することの大切さにも及んでいるのだと感じます。
キリスト教以外を信じることを「悪」と考え、蛮族と決めた人々の神を殺してキリスト教徒化する。
それが一番正しいと思うような人達が、些細な理由で同じキリスト教徒を大量に殺戮し、それを正しい行為であると感じる。
『それが宗教というもの』と言えば、そうかも知れないが、あまりに悲しく、虚しい。
ヴォルテールの「寛容論」を一度でも読んでいれば、人類の宗教というものは多いに異なるものだったのでは無いか… -
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ライプニッツの最善説、カトリックに対する痛烈な皮肉だが、そうならざるを得ない苛烈な現実認識があり、その元となった「リスボン大震災に寄せる詩」も収録されている。
カンディードは、どんな無体な現実の体験をしても、哲学の眼鏡を通してしか認識することができないが、最後になってようやく、目の前の畑を耕すことの方が重要である、と言う事実に気づくことになる。
カンディードのあまりに過酷な経験に目を覆いたくなったり、キリスト教的な道徳や、救いの少ない結末に違和感を持つ読者もあるだろうが、それが、リスボンの大震災の経験に基づいている、と思うと日本人としては途端に親近感を覚えることも事実。 -
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バーンスタインがミュージカル化しているこの作品。ミュージカルは観てないけど、気になっていたので読んでみた。登場人物が皆悲惨な目にあってるのに結構あっけらかんとしていて、コメディタッチで読みやすい。途中で著者の私怨も盛り込まれていたりしてもう何でもあり。机上の空論より身体を動かして働こう、と登場人物たちがオプティミスティックな思想が最後リアリスティックになるのがなるほどと思った。途中で出てくる登場人物ですべてを批判する人、一般の人が美しいと思っているものに欠点を見つける人は、それを楽しめないことを楽しんでいる、と分析しているのはとても腑に落ちた。
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バーンスタインのミュージカル、キャンディードの曲をどこかで聞いて、元ネタがヴォルテールと知り、いずれ読んでみようと思ったのは数年前だろうか。
ようやく手に取ってみたが、思った以上にハチャメチャなギャグ小説なので驚いてしまった。
現代の感覚ではそうとしか思えないのだけど、そもそもこれはおそらく小説というジャンルではないし、小説というものの立ち位置もこの時代と今ではかなり違うだろうと思うが…。
とにかく、ハア?の連続で、下ネタぽいのもちょくちょくあるし、中世のコロコロコミックたる、ティル・オイレンシュピーゲルからの流れを思い浮かべた次第。まああれもドイツ人キャラの話だったよな。
今回も内容は、表紙から推して知るべしだ。
運命とは。最善とは。宗教とは。
パングロス先生の人生にもビックリしたけど、主人公のカンディードが素直な人間なので読みやすかった。
死んだと思ったキャラが生きてたパターンは昔のジャンプ漫画みたいに多かった。
黄金郷で大金を手にしてからはストーリーがスムーズになる。
しょせんは金だな、というのが私の印象であった…。
パングロス先生、恋人クネゴンデなどのサブキャラより、クネゴンデのお付きの老婆や、前半の相棒ガガンボ、後半の相棒である悲観的な学者先生、ベネチアの悲観的な政治家などのキャラクターが生き生きとしていて面白かった。
クネゴンデの兄だけはあの展開にビックリしたまま…。
注釈多め、読みやすい口語セリフ、やはり光文社古典新訳は上手いシリーズである。
コレでなければ最後まで読めなかったかも。
カンディードの終わり方はなかなか良い。
関係者みんなが一緒に助け合って暮らすけど、その実、文句たらたらなところも、しょっちゅう皆で哲学について話し合っているというところも。
そして最後のセリフ。
私も、自分の畑を耕さなくちゃ。